ビターチョコ
籠城六日目、ナナコたちがレズビアンに転向して一日目。
ふたりは一日中抱き合わなければ体温を維持できなくなっていた。
もはや残された僅かな食糧を口にするとき以外、ふたりは一言も発することなく、ベットの中で息を潜めていた。
「……ねえ、ナナコ、匂わない?」
どうやら冬子は自分の体臭を気にしているようである。
ボイラーも止められているようで、シャワーも浴びられないのだ。
「冬子嬢はデフォルトで柑橘系の匂いがするであります」
「あなたはハチミツみたいな匂いがするわ」
「……舐めないでくださいよ、いくら甘味に飢えていても」
冬子は「いや」というと、アイスクリームを舐めるみたいな舌使いでナナコの首筋を舐めた。
ここでナナコが艶めかしい嬌声でも上げれば、冬子もそっち方面に目覚めた可能性があったが、残念なことにナナコが上げた悲鳴は、「う、うひゃあ」という色気をまったく感じさせないものだった。
さて、いつまでもこんなソフトレズごっこをしていても仕方ないので、ナナコは丸一日の思考の成果を冬子に打ち明けた。
「冬子嬢、髪を切る気はありませんか」
「ない」
髪だけにではないが、ほんとに間髪入れずに即答する。
「さいですか……」
ナナコの丸一日は刹那で無駄になったわけである。
冬子は突然、起き上がる、そして冬子の髪に触っていたナナコを突き飛ばした。
「切る気はないと言っているでしょう。それともあなた、本当にレズにでもなったというの。気安く触れないで頂戴」
「あ、いえ、決してそのような。……ただ、そんなに大切にしてる割には痛んでるな、と思いまして」
冬子は自分の毛先に触れると、「……確かにそうね」と呟いた。
「この館に来てから碌に手入れができなかったから」
言いわけがましくなどはない。むしろそれが当然だった。ナナコなどは最後に洗髪した日さえ思い出せず、髪を梳かした日も朧気だった。
そうなればやることは決まっており、ナナコは冷たい空気が支配する室内を横切り、さらに肌寒い洗面台からブラシを持ってきた。
ナナコは冬子をベッドに座らせると、
「えへへ、なんだか仲の良い姉妹みたいでありますね」
と、戯けながら、互いの髪を梳かすことにした。
冬子も「全然似ていないわ」と言いつつも応じてくれた。
「そうでありますね。でも、自分、ほんとにお姉さんが欲しくて」
「あなたが妹では苦労しそうね。ああいえばこういうし」
「そうですかねえ? 素直な良い子だと思うのですが」
「さかしいわ」
「なるほど、他人にはそう見えるんでありますね。気をつけることにしましょう。それにしても――」
ナナコは吐息を漏らす。
「ほんとに長くて綺麗な髪でありますねえ。童話の中のお姫様みたいであります」
冬子は赤面しながらも、「有り難う」と応じた。
デレ期が到来したわけではない、髪は冬子の自慢なのである。
彼が長い髪が好きと知って以来、伸ばし続けた成果が今の黒髪だった。
例え彼が死んだ今でも、いや、死んだからこそ、この髪を切るなど、考えもしないことだった。
冬子もそう遠くない未来に彼の御許に向かうつもりでいた。
そのとき、自慢の髪が、彼の大好きな黒髪が短くなっていたら、どう説明すればいいというのだろう。
ナナコはなんとなくそういった事情を察すると、自分の浅はかさを呪った。
(……女の命を切れだなんて、自分はなんと馬鹿なのだろう)
ナナコは冬子の髪を梳き終えると、新たな作戦を練り始めた。
籠城七日目、もはや食糧はかつお節しか残されていなかった。
しかし、メニューは豊富である。
ダシだけの具無し味噌無し味噌汁、
ネコまんまのご飯抜き、
冷や奴の豆腐抜き、
お好み焼きのお好み焼きとソースとマヨネーズと青海苔抜き、
多彩なメニューだった。
ただ、タンパク質を補給できるのは本当に有り難かった。この点はかつお節を選んだ冬子に感謝するべきであろう。
だが、そろそろ寒さが限界である。
ゼロ度付近と思われる寒気は、少女たちの体力を緩慢に奪っていった。
このままでは春が来る前に少女たちの命は尽きると思われる。
まだ体力がある内に、
勝機がある内に、
行動に移さなければ、すべてが手遅れになってしまうのだ。
ではどうすればいいのだろうか?
ナナコは視線を窓にやる。
「無駄よ、いくら痩せてても大人じゃ無理よ、二重窓になっていて半分も開かないわ」
冬子が見透かしたかのようにそう言った。
窓から抜け出てかなえの虚を突こうと思ったのだが、それも無理のようだ。
「それに出入り口は正面玄関しか開いていなかった。万が一、そこもかなえに施錠されていたら、ただ凍死するだけよ」
「……なるほど、さすが外出常習犯」
その辺はお調べ済み、というわけか。
やはり外に出るには目の前の扉を通るしか道はなさそうである。
ナナコは正面突破を前提にして作戦を練り始める。
仮に正面から出たとして、そこにかなえがいればアウト、というわけではないような気がした。
かなえだって人間である。睡眠もすれば食事もする。人並みにお通じも来るだろう。
二四時間部屋の前に待機しているとは限らない。
恐らくではあるが、糸のようなものを扉に付け、その糸を生活スペースまで伸ばし、糸の先に鈴でも付けているのではないだろうか。
それが最も合理的な判断といえる。
ナナコは腹を括ると、かなえが扉の前にいないことを前提に作戦を練ることにした。大胆というよりは、それしか道が残されていなかったともいえる。
「だけど、どのみちこの館にいる以上、かなえとは出くわすわ。ショットガンを持った狂人とね」
冬子の意見はもっともだった。
仮にこの部屋から脱出できても別の部屋に逃げ込まなければ行けない状況になってしまったら、今度こそお終いである。そこにはかつお節などないであろうし、かなえは今度こそ完全な持久戦を挑み、部屋の前からテコでも動かないだろう。
この部屋出た以上、かなえを戦闘不能にするか、少なくともショットガンを奪わなければ話にならない。
ならば話はどうやってかなえを倒すか、に絞られる。
この部屋に、武器になるような物は――
「何度見れば気が済むの? 有るわけないでしょう」
ちなみに抜け道や隠し扉もないとここに明記して置こう。
「かなえ嬢と対峙する武器は、我々の肉体と勇気と知恵のみ、というわけでありますな」
「……そうなるわね、残念ながら」
冬子にいつもの強気はない。
「ただ、圧倒的にこちらが不利、というわけではありませんぞ。かなえ嬢にもちゃんと弱点はあります。腕を負傷しているということです。これは見逃せない」
「弾の装填ができないということ?」
「ええ、少なくとも素早くは。つまり、かなえ嬢は必ず二発で自分たちを仕留めなければいけないというわけです」
「一発も無駄撃ちできないというわけね」
「必殺の距離以外で撃ってくることはないでしょう。そこが我々の勝機になるはず」
「ちなみにショットガンの必殺の距離って?」
「有効射程距離はおおよそ五〇メートルくらいであります」
「……この館の廊下の長さは?」
ナナコはそれに正確には答えず、
「まあ、素人ですし、負傷していますし……」
と、だけしか言わなかった。
冬子は大きく溜め息を漏らすと、
「どのみちやるしかないのよね」
と苦笑いを漏らした。
「さあ、やるなら早いとこやりましょう。実は頭に栄養が回ってないのか、碌に頭が回らないの。物事を考えられるうちに行動に移したいわ」
だが、ナナコは首を振る。
「やるならば、夜半にしましょう。もはや昼夜など関係なくなっていますが、やはり人間です。丑三つ時にはもっとも気が緩んでいるはず」
「逆に警戒しているかも」
「まあ、そういう考えもありますが」
しかし、結局、冬子はナナコの作戦に従った。合理的だと思ったからだ。もはやこの期に及んでは合理性と己の運に賭ける以外術はない。
「じゃあ、少し仮眠を取りしましょうか」
冬子はそう言うとベッドに潜り込み、ナナコを手招きした。温もりが欲しいのだろう。
新婚の夫婦みたい、と口を滑らそうとしたが、怒られそうなので止めておく。
ただ、代わりに気分だけも甘くなれるようナナコはポケットからとある物を取り出した。
「――あなた、チョコレートなんて隠し持っていたの?」
「最後の隠し球です。決戦の前に出すつもりでした。糖分は脳の活動を活発にしますからね」
ナナコはそう前置きをすると、五つある小さなチョコの包みを、四つ、冬子に差し出した。
怪訝な顔で見つめる冬子。
「冬子嬢の方が身長も高いですし、おっぱいも大きい。それに冬子嬢は自分より無理なダイエットをしていましたしな。多めに食べないと倒れてしまいますぞ」
「これはあなたが持ってきたものよ。だから最低でも三つはあなたが食べなさい」
冬子はチョコをふたつ突き返した。
ナナコは気が恥ずかしそうに頭を掻く。
「なあんて格好いいことを言いましたが、自分、誘惑に負けて、すでにチョコを四つ口にしているのでありまして。だから今回は自分はひとつだけで」
冬子はそれでも突き返そうとしたが、ナナコは頑として受け取らなかった。
冬子は根負けし、チョコの包みを開けると、それを口に含んだ。
何週間か振りの甘さが口の中に広がる。
ビターチョコだったが、その甘さは冬子が今まで食べたチョコレートの中で一番の物だった。
冬子はナナコの目を見ずに「ありがとう」と口にすると、英気を養う眠りについた。
ちなみにこの部屋にあるチョコの包み紙はどんなに探しても五つしかない。
残り四つはどこにあるのだろうか。
亜空間だろうか、ナナコの胃袋だろうか。
それは定かではなかったが、冬子は数時間後に目覚め、そのことを確認すると、なんともいえない気持ちになったのは確かだった。




