まずは立ち上がって-1-
これが夢であるということは、もう知っています。現在では決して存在することのない少女、黒い髪に黒い瞳、奇妙な服装をした彼女は溌剌とした笑顔を私に向ける。今日はハルバードはどこにやったのかしら。
「私の世界には、もうあんなもの必要ないのかもしれない。これからは武器ではなく、学問の時代だからね」
学問は大切です。でも武器も必要では?
「魔法なんてものがあるのに武器が必要なのね。本当に不思議な世界だわ。やっぱり人間ってわかりあえないのかしらね」
そういって寂しそうな表情をした少女は、青い空を仰ぎ見ます。
「空の青も、木々の緑も、小川の透明さも、星々の光も変わらない。でも剣は、私の世界には必要なくなった。この世界にはまだまだ必要。だからここに来たのかしら」
剣がなくて、どうやって戦うのかしら。
「種子島よ。確か最新型はミネーとかライ……、なんとかいったかしら」
少女は、私たちとは違う世界から来たといいます。道理で、少女の服装は独特なのでしょう。
彼女は自分の世界の話をよくしてくれます。小さな島国で、海に囲まれていたけど限られた国としか貿易をしていなかったらしい。そこへ、大きな軍事力を持った国がやってきて取引を迫ったものだから、国が大いに荒れたという。
タネガシマ、というのは鉄砲という、鉄の弾を吐きだす小さな筒らしい。なにかの魔法かと思ったのですが、彼女の世界には魔法が存在しないみたい。少なくとも、私たちが知っている魔法は。
「この世界には鉄砲なんて必要ないわね。いつか、私自身も必要なくなるのかしら」
そう言って、少女は青空を見上げます。横顔はとても寂しそうで、悲哀に満ちていました。私はまだ、彼女の言葉の意味を図れずにいるのでした。
「明人」
学校からの帰り道。こいつとは方向が一緒なので、自然と一緒に帰る。他にも女の子の友達と何人かは一緒なのだが、たまに二人きりにされる。
意図はわかるが、こいつに限ってそういうことはあるまい。女の子連中が面白がってるだけで、当人は平然としている。
「うちの高校ってほとんどが中学校からの知り合いなんだよね。エスカレーター?」
「そんな上等なもんじゃないよ。ド田舎なだけだ」
「ふうん。ま、確かにのどかだよねぇ。私もここで生まれたかったな」
「都会は嫌いなのか」
「嫌いじゃないけど、今思えば、好きじゃなかったんじゃないかな」
なんだそりゃ。妙に遠回しな言い方だな。
「ここが好きになったからだよ。のんびりしてて、自然はいっぱいで、人は親切」
自分はずっとここにいるからわからないが、そういうものなのだろうか。都会に比べれば遊ぶ場所はずっと少ないし、商品だって古いものばかりだ。最新の流行ファッションなんか、ほとんどない。
「明人は都会に憧れたりするの?」
「どうかな。でも便利は便利だろ?」
「便利だけど、不便だよ。とっても」
矛盾したことをいいながら、でも、その横顔は今までに見たことのないものだった。寂しそうで、悲しそうで、なにか嫌なことでもあったんだろうか。
「好きになったんだよ」
目を見て言われて、ちょっとどきっとした。そういう意味ではないことはわかっている。わかっているぞ。
「ほら、明人」
走り出して、振り返ったときのあいつの笑顔は、俺の知っているあいつだった。
◇◇◇
知らない天井だ。正確には天井ではなく天蓋である。赤紫色のビロードでできているそれは、一角だけ開けられている。その開けられた一角に、微睡んでいる黒髪の女性が見える。
明人が目を覚ましたのを感じ取ったのか、舟を漕いでいた女性は目を開け、微笑んだ。
「明人。目を覚ましたのですね」
ツキミだ。彼女は手を明人の額に乗せて、熱を測り、ひとつ頷いた。
「熱は下がったようですね」
「倒れたのか……すみません」
「いいえ。明人、以前にもこのように倒れたことはありますか?」
「はい。四日ほど前に。アルザハに着いてすぐ倒れました」
「あなたの症状は魔力酔いだそうです」
魔力酔い、確か大量の魔力を浴びると、具合が悪くなると記憶している。
確かに屋敷に来る前、そしてアルザハに着く前に魔導師との戦闘があった。それによるものであろうか。しかしそうなると、ジュゼッカにも同じ症状が現れてしかるべきであろう。魔法のある世界の人間とない世界の人間の違いであろうか。
「ひとつ聞きたいのですが、あなたの世界に魔法はありますか?」
「いいえ」
「なるほど。おそらく原因はそれでしょう」
厳密には明人の世界にも魔法はあって、魔力も存在した。ただ、それはとうの昔に失われてしまっていて、明人の時代にはすでに存在しない。
そもそも魔法や魔力そのものに対する耐性がないのだ。そこへ、魔力のある世界へ来たのだから、魔力酔いを起こすのは必然であろう。無菌室からいきなり雑多な街中へ放り出されたようなものなのだ。
だが、ひとつだけ疑問が生じる。彼は魔法が直撃しても無傷で、結界をすり抜けられる。耐性がないのなら、とっくに黒こげになっているはずだ。
「おそらく、あなたは魔法無効化をお持ちです」
「魔法無効化?」
「その名の通り、あなたにはあらゆる魔法が通じません。火の玉で火傷を負うこともなければ、電撃で黒焦げになることも。しかし、体内に入ったものは別問題なのでしょう」
「体内……」
「魔力はなにも人間からのみ発せられるものではありません。動物も、植物すら魔力を持っています。そして、生きたものでなくとも、魔力はある程度残ります」
「つまり?」
「食事です。肉、野菜、あるいはパン……それらは本当に微々たるもので、残りカスといってもよいですが、それだけに、あなたには悪さをするのでしょう」
また、大気中にも魔力は存在する。呼吸することで肺に魔力を取り込んでいる明人は、常に毒を吸っていることになる。
「じゃあ、俺は頻繁に倒れなきゃならないってことですか」
「慣れるまではそうでしょう」
もし、魔力に対する耐性が皆無だとしたら、魔力酔いの症状のまま死に至っているであろう。順応性がなければ、回復することはありえない。
明人の体にも、過去に魔力が存在したという記憶が遺伝子レベルで刻まれているのだ。その記憶が呼び起されれば、最低限、熱を出して寝込むことはなくなるはずである。
現に、前回寝込んだのは三日間――これは不眠不休でアルザハに向かっていて疲労のピークだったことも考慮に入れるべきではあるが――なのに対して、今回は二時間ほどで目覚めている。体が慣れつつあるという証左であろう。
「ツキミ様」
聞き覚えのある声が聞こえる。
「"医者"が言うには、一日は絶対安静とのことです」
「そう。ありがとう」
あの老執事だ。振る舞いは彼の職務に相応しいが、明人に向ける視線はそうでもない。
「発言してもよろしいでしょうか」
これも聞き覚えがある。しばらく忘れようのない声だ。
「なぁに?スターシャ」
明人を館に迎え入れて、密かに捕えようとしたメイドは、半歩前に出て顔を上げた。表情には「不信」と書いてある。
「私はこの男を信用していません。素性もわからない人間をこの館に置いておくわけにはまいりません」
「スターシャ」
バロルがたしなめても、表情一つ変えない。彼女は彼女なりに主人を守ろうと必死なのである。
「ではどうするの?」
「真偽を確かめた後に、しかるべく処置します」
ツキミは表情をぴくりともさせなかった。変わらず穏やかな佇まいで問い返す。
「そううまくいくかしら」
「お任せください。吐くまでは殺したりしません」
しかるべく処置とはそういうことか、と明人はこのときようやく理解した。彼女は明人をどこかの国のスパイではないかと危惧している。どこの国か、誰の差し金か、どのような目的かを聞き出した後に殺害して、どこかに埋めてしまおうというわけだ。
確かに、この屋敷の敷地内ならば結界で守られているゆえに外部の人間の接触は一切ない。明人は外の警備兵に気づかれずに屋敷に侵入しているから、この屋敷の人間が口を閉ざせば、死亡は永遠に確認できない。
それに、もしスパイであるならば、スパイが死んだところで公式的には抗議ができない。使節団や留学生とでも身分を偽っているかもしれないが、その場合、おそらく国王に届け出が出ているはずだ。言わばアルザラッハの客人であるわけで、護衛もつけずに一人でほいほいと出歩けまい。だが、彼女は計算違いをしている。
「スターシャ、彼は殺せません」
「なぜです」
「明人、ここへは誰と来たのですか」
「え?えっと、ジュゼッカに連れてきてもらいました」
スターシャは最初、眉をしかめたが、記憶の裡にはっきりと人物画が飾られているのを発見すると、目を見開いた。
ジュゼッカ・フィルブランドはアルマリー・フィルブランドの孫であり、一〇年前もよくツキミと遊んでやっていた。アルマリーの名は知っていても、ジュゼッカの名は限られた人間にしか知られていない。ジュゼッカは当時一三歳で、当然、騎士ではなく兵士ですらないのだ。
「まさか……ツキミ様がお教えになったのでは」
主人に対して非礼に値する言いようだが、スターシャは頑なである。
「そうするメリットが?」
言いよどんだスターシャに助け船を出したのはバロルである。
「お言葉ですが、もしスパイであるならば、かばうメリットよりも、彼を解放するデメリットをお考えになられるはずです」
ツキミは頷いた。
当時、王位継承権の第一位ということは対外的にも公表されていない。つまり、他国にとってもツキミは第一王女なだけである。しかし、第一王女が長らく社交の場に顔を見せていないことは承知していて、アルザラッハはこれを病気療養と定めている。
現在、国家間戦争は存在しない。ただし、内戦状態にある国はヴェンデとヴォル・サルがあり、アルザラッハ、ストーチカ、セレネは一応の平和を享受している。
ただ、使節団を派遣したり、留学生という名目で情報収集は行われている。そのなかでもストーチカはスパイを送り込むことで有名である。フィルプス紀元四一五年、標準暦一二〇二年にアルザラッハとストーチカの両国は戦争状態に陥り、四年もの間戦い続けて双方疲弊しきったところで休戦協定が結ばれたが、二〇年経った今でも仲が良いとはいえないのが現状である。
ストーチカのレイルウッド、といえば、アルザラッハには最も警戒すべき人物である。ザジー・レイルウッドはストーチカ軍の最高司令官であり、優れた政治家でもあった。二〇年前戦ったとき、魔導師の二列横隊を三グループ用意して集中砲火を浴びせるという戦法で、アルザラッハ軍は初戦は大敗北を喫した。さすがにやられっぱなしというわけではなかったものの、アルザラッハは常にレイルウッドの戦術に対応してのもので、後手に回っていた。
結局、国力において劣るストーチカがある程度の戦術的勝利を収めた時点で休戦に持ち込み、後日、講和が成立した。長期的な戦争になればストーチカが自滅するのは明らかであり、ストーチカの国王はアルザラッハに互角の戦いをしたというだけで面目は保たれたと考えたのだ。
そうは考えないレイルウッドは再戦を熱望したが却下され、現在では最高司令官の職を辞して参謀になっている。他国の情勢を探る任も受けており、これは必ずしも彼の不本意ではなかった。
「バロルの言うとおりなら、私がここに監禁されていると確認した時点で本国へ戻るのじゃないかしら。わざわざ私に接近する必要が?」
「それはこの男に聞いてみなければなりますまい」
「バロル、スターシャ、私はすでにこの方を客人として迎え入れることを決めています。あなたたちも彼を信じて欲しいの」
「どうしてもそうなさるおつもりですか」
バロルの問いに頷いたツキミは、心配そうに経緯を窺う明人に向いて微笑んだ。大丈夫、なにも心配しなくてよい。あなたは私のそばにいなさい。
そう言われている気がして、明人は安堵の息を漏らした。その様子すら、執事と使用人には面白くないようで、非好意的な視線が刺さるのを自覚した。
ただ、この二人がツキミを慮る気持ちも少しはわかる。ツキミを取り巻く雰囲気や物腰、話し方、視線、そのいずれもが心地よく、自然と膝を折ってしまいそうになるのだ。ましてや彼らの忠誠心は、ツキミが追い落とされてから一〇年間、この閉鎖された屋敷で常に主人の期待に応えてきたのだ。
その一〇年の重みが、明人への不信感と敵意になっている。敵意はともかく、不信感は払拭できないであろう。異世界の人間などということを信じる人間は奇特を通り越して変人だ。
その変人の一人である黒髪の美しい女性は、一つ手を叩いて命じた。
「さあ、みんなでお茶にしましょう。とっておきのをお願いね」
ツキミの笑顔は、従者の不満を少しだけ和らげた。
◇◇◇
「父さん、もう魔女のことは忘れてくれ」
エウザレ山はアルザラッハの建国神話において非常に重要であるものの、世界的に見ればいわゆる「エレスの巡幸」の一ヵ所に過ぎず、アルザラッハ人以外では、熱心な巡礼者が年にのべ一〇人ほど訪れるくらいだ。アルザラッハ人でもそうそう訪れる機会はないが、年に一度、七月七日にアルザラッハ王がエウザレ山に登り、供物を捧げる儀式が行われるので、その日の前後だけは登山者が多くなる。
それ以外にこの周辺を訪れる人間はおらず、エウザレ方面警備というものは、左遷先として定着している。
元々、ここを警備していたのはベイブランドであり、コールブランドの遠戚にあたる。現当主、エリシュ・ルノー・コールブランドの父、エルウィン・ノアールの再従兄弟が治めていたのが、一〇年前の破局によって、領地を交換することになった。
本家がコールブランドになるから、これは皮肉といってよいだろう。
「なにを忘れよというのか」
月見明人が入れられていた石牢とは比べ物にならないほど上等な牢だが、石の上に毛布一枚なのだから、老体には堪えるだろう。それでもアルマリー・フィルブランドは腕を組んで胡坐をかきながら、その態度は毅然としていた。
檻の外から話しかけているのは彼の息子、エウザレ方面警備隊長であるアルタール・フィルブランドだ。牢の傍に侍っている見張りを下がらせて、二人だけで会話している。
明人とジュゼッカが脱出してすぐ、アルマリーは警備隊によって捕えられ、以降、一週間ほど詮議を受けたが、黙秘を続けている。息子である警備隊長、アルタールが直々に取り調べているものの、彼の父は口を割ろうとしないのだった。
このまま黙秘を続けると、尋問は拷問に変わらざるをえない。コールブランド領には軍の一個大隊が駐屯しており、監視と反乱が起こった際の鎮圧の任を受けている。ハッシュという街が領主であるコールブランドの住む街であり、大隊本部もここにある。
彼らは定期的にコールブランド領の村々を回り、警備隊や自警団たちを視察している。牢も当然、覗かれることになり、アルマリーが発見されれば罪状も問われるであろう。
まさか「ツキミの一味を逃がした」などと報告するわけにはいかない。そうなれば軍がこの村を制圧し、アルザハにある憲兵隊にも報告されて、悪くすれば極刑もありうる。なにしろツキミは未遂とはいえ大逆罪なのだ。年齢によって処刑されていないだけで、なにか問題が起これば、すぐに刑場へ送られるだろう。
そんな魔女の一味を逃がし、あまつさえ黙秘を続けているとなれば、どうなるかは想像に難くない。アルマリーのみならず、フィルブランドに縁故のある者は悉く運命を共にするかもしれないのだ。
実のところ、彼にはジュゼッカがどこを頼るのか、見当はついていた。だが、黒髪の奇妙ないでたちの少年が、どこの誰であり、ツキミにとってどういう意味を持つ何者なのかがわからない。
「あの少年は何者なんだ。なんのために来た?わかっているだろう。あの女に関わるとろくなことはない」
「アキト殿がここにいらっしゃったのは、きっとツキミ様のご命令だ。我らが立つときがきたのだ」
父は、言ってはならないことを言っている。アルタールは息を呑んで、周囲に人がいないか確認した。
「父さん、滅多なことを言うと、いくらあなたでも斬らねばならない。俺に父殺しをさせるのか」
「アルタール。我々はあまりにも雌伏のときを過ごしすぎた。エルウィン様が止めなければ、私は真っ先にフィルプス城に斬り込んでいったものを」
「父さん!」
「ツキミ様は無実だ。野心など抱くはずがない。それはお前も承知しているはず」
「ならなぜ、それを訴えない?なぜ唯々諾々として受け入れる?」
「あのお方は聡明でお優しい。妹君を気遣ったのだ」
「聡明で優しい?その聡明さも優しさも、俺たちには向けられていないようだな」
アルマリーは息子の言わんとしていることが痛いほどわかる。客観的に見て、ツキミの行動は妹だけを気遣ったものであって、他人には向けられていない。事実、コールブランドとフィルブランドはツキミに巻き込まれて、辺境まで追いやられた。
もっといえば、妹への気遣い、というのも究極的には「妹を見殺しにできない」という個人的な思いからくるものだ。それによって母が死に、コールブランドとフィルブランドが凋落しようとも押し通したわけで、自己中心的といわざるをえない。また、妹が王位継承権の第一位になり、王妃の権力が増大する際の影響というものも考慮に入れていない。王位継承権を手に入れるために八歳の少女を陥れる人間のどこに正義があるというのか。仮に妹が王座に就くとして、王妃が実権力を握るであろうことは明白ではないか。
これらはすべて、彼女の玉座に座るべき者としての資質に関わってくる。結果的に彼女は先を見通しているようで、まったくの近視眼であったといわざるをえないのだ。
そしてなにより、アルタールの妻、タリアが、こちらに来てすぐに流行病に倒れ、そのまま死亡していることが、アルタールの気をくじかせた。
彼はなにも、最初からツキミを恨んでいたわけではない。だが、妻が病死して、悲嘆に暮れているうちに、精神の均衡を保ちうるために「敵」が必要だったのだ。この状況を作り出したのはそもそものきっかけは王妃だとしても、犯してもいない罪を受け入れ、我らを巻き込んだツキミこそ、元凶といえる。
もっとも、王女とはいえ八歳の女の子にそのような完璧さを求めるのも酷というものであろう。
「父さん、奴には真実、王位継承権はなかったんだ。その素質がな」
「御歳を考えるのだ」
「歳を問題にするなら、そもそも彼女に運命を託すということがおかしいだろう」
「そうかもしれん。だがあれから一〇年、あのお方も一八歳になられる。ついに女王として君臨されるときがきたのだ」
「歳はそうだ。人間性は?精神性は?知力がどの程度かどう量る」
「私は信じている」
アルタールは憮然として、牢に入れられた父を見ている。父の意見は希望的観測に基づいた楽観、あるいは盲信に思えた。確かに幼少期のツキミは利発で、賢く、前途は明るいものと見えた。追い落とされたことを抜きにしても、その前途である今日が、続いて明らかなることを無条件で信じることはアルタールには不可能であった。
「父さん。あまり意地を張るなよ。あなたの意地が我々を滅ぼすのも、そう遠くない」
アルタールは踵を返して出て行った。やがて見張りの兵士がやってきて、興味と軽蔑が混合された視線を送ってくる。
アルタールの言い分には、アルマリーとしても反論の余地はない。事実として、フィルブランドはツキミによって凋落したといってよく、彼の妻は劣悪な環境による流行病によって死亡している。そのことは、アルマリーの心にも澱んだ泥のように沈殿している。
八歳の王女を神格化しているという点も否定できない。歳に似合わぬ立ち居振る舞い、見識、いずれも膝を折る相手に相応しい。だが父と子で、それを是とするかの意見が対立しているのは、悲劇というべきであろう。
詰所の自分の椅子に腰かけて、アルタールは手紙を取り出して読んでいる。彼は明人とジュゼッカに対して大規模な捜索隊を出すのではなく、信頼の置ける部下三人を差し向けて、密かに監視させているのだ。
手紙が出されたのは明人らがアルザハに到着して三日後、明人が魔力酔いで倒れ、ちょうど快復した頃だ。ファロンに身を寄せ、未だに動きがある気配を見せない。
息子の顔から、警備隊隊長の顔に変貌している。そろそろ誤魔化すのも限界点に達しつつある。いずれ大隊本部に事件が露呈してしまう前に、覚悟を決めねばならないかもしれない。
娘は祖父に似て、ツキミに心酔し、その使いである黒髪の少年を警護している。おそらく、彼女だけを連れ戻すことは困難であろう。
彼には選択肢があった。それは黒髪の少年もろとも、父と娘を殺してしまうか、それとも時間切れで大隊本部に事件が露呈し、刑場の露と消えるか、であった。彼がいずれを選択するか、このときはまだ誰も知る由はない。
◇◇◇
アルザハ中央部は活気のある市場だ。一日に三万人以上が行き来するここは、活気があるだけにトラブルも多い。自然と憲兵の巡回が多くなり、それなりに警備もしっかりしているが、やはり人の目だけでは犯罪を完全に抑制することは不可能である。それに、人数が人数だけに、人ごみに紛れ込まれるとどんなに人員を送っても網から逃れてしまうのは避けられない。
「あの二人、気づいているか」
紙袋に果物とパンを詰め込んで、ジュゼッカ・フィルブランドとフィリーア・セルニスは市場を歩いている。妙齢の美しい二人が歩いていると、若い男たちの目を大いに引いているのだが、赤毛のほうはともかく、金髪のほうはまったくそれに気づいていない。気づいているのは、彼女たちに色目を使うのではなく、好意とは程遠い視線だ。
視線を交わさずに問われたことに対して、赤い髪の少女は飄々としている。
「んー、誰?」
「うちの警備隊の者だな。ずっと後を尾けられている。ファロンも監視されているだろう」
「怖いなぁ。ジュゼッカ姉さま、なにやったの?」
「どうやら父は、頃合いを見て、私を連れ戻すつもりだ。なかったことにしたいのだろうが、そうはいかぬ」
時折、店先の商品を手に取りながら、フィリーアは横目で追っ手を見やっている。心のなかで「だるまさんがころんだ」などと呟いているのはジュゼッカには内緒だ。
「フィリーア、私はこのままどこか他に身を隠す。鎧と剣は置いておくが、処分してくれ。売りはするなよ。足がつくからな」
「わかってるよ。ねぇ、姉さま。アーキットはツキミ様に会えたのかな」
その固有名詞を往来で口にすることは禁忌だ。ジュゼッカは身じろぎして、妹分を見た。その表情からは微笑みも明朗さも消えて、ただ真剣な眼差しだけがあった。
「もちろんだフィリーア。アーキット殿はあのお方にお会いしている。それでなにがしかのリアクションがあるだろう」
リアクションとやらがツキミ側からだけとは必ずしも限らない。憲兵隊や親衛隊、王室衛理庁からかもしれないのだ。
今回、セルニス一家を頼ったことは、一家からすれば是非もないことであったが、巻き込んでしまったという思いがジュゼッカにはある。事が露呈すれば、セルニス一家も厳罰は免れない。他に選択肢がなかったとはいえ、責任があるのだ。
「頼ってくれなきゃ押しかけるところだよ。姉さま、くれぐれも無茶しないでね」
そう言うと、二人は抱き合った。幼馴染みであり、親友でもあるが、しばらく会っていなかった。久しぶりに再会しても、事が事だけに慌ただしく別れなければならなかった。
「アーキットによろしくね。また二人で遊びに来て」
ジュゼッカは頷いた。決して、単なる挨拶の文句ではなく、心からの言葉であった。そして、いずれそうなるだろうという確信もある。
二人は歩き出して、店の陰に隠れた。急に姿を消したものだから、追っ手は急いで人ごみをかき分けねばならなかった。
頃合いを見計らって、追っ手の前に出てぶつかったフィリーアは心底驚いた風を装った。
「きゃっ!もう、危ないなぁ」
「お前、もう一人の女はどうした」
「なにそれ。ぶつかっておいてその態度はないんじゃないの?」
「正直に言え!」
「ちょっと、怒鳴らないでよ!」
往来の激しい場所での言い合いは人目を大いに引く。追っ手の二人も、目立つ真似は避けねばならないから、ふてぶてしい赤毛の少女を放っておいて、店の裏路地を走り去った。そちらは、正確にジュゼッカが向かった方角であった。
「待ってるよ姉さま」
神はあまり信じるほうではないが、赤毛の少女は手を合わせずにはいられなかった。




