第六話 密閉
……耳を澄ませました。家族の静かな寝息が聞こえます。ゆっくりと起き上がって、自室の鍵をかけました。今までかけたことがありません。いきなり開けるというのもしない人達であるのは百も承知ですが、万が一開けようとしたら不信がられるのではないか、と、もう千分の一もないような不安ばかりが頭をよぎって、鍵をかけたくせに、布団の中に頭からつま先まで隠します。何をする前から震える唇をぐっと噛みしめ、初めて自分の体に、そういう意味で触れました。
行き場のない熱を長いこと放っておかざるを得なかった体は、簡単にその気になりました。けれど何をどうしたらいいというのもわかりません。全焼を求める指があっちこっちを這い回りますが、感覚は思いの外むらがあり、触れる端から熱が逃げてしまいます。巧く熱を集めて追い込めればいいのでしょうが、自分でしている以上先も読めてしまい、何より、熱が積み重なって勢いがつきそうになると、今度は指が鈍ります。本能的に、知らない感覚への恐怖が体を冷まそうと躍起になっているようでした。
「直哉」
試し、のつもりで呼びました。ごくごく小さい声は布団の中でくぐもります。みっともなさと申し訳なさと自己嫌悪が、冷たく心に落ちました。昨日の今日で何をやっているのか。自身の見苦しさに、あれほど呆れ果てたのに―。
やはり無理なのです。私は無理です。最初からわかっていましたが、どうしたって絶対に無理だとわかっていましたが、自分がどれほど無残で汚らしいか突きつけ、どうせ叶わない想いを穢して踏みつけたのは、他でもない自分自身でした。
仮に想いを伝えたとして、ただ伝えただけなら、彼は、普通に断ってくれるでしょう。それ以上の侮蔑など、表には出さないでいてくれるはずです。たとえその裏ではどれほど困惑し吐き気を催そうと、優しく笑ってくれるはずです。けれどだから何だというのでしょうか、それが私を一体どう救うのでしょうか、私だって彼の前では平気そうな顔をしておきながら、一人になれば、こうして、汚い妄想に彼を連れ出し世にも見苦しい姿で無様に悶えているのです。表裏を持った人間が、『裏』ではどれだけ奔放で残虐になれるか、誰よりも私が一番よく知っています。
今さら何を泣くのでしょう、どうして惨めさを重ねるのでしょう。けれど止まりません。心から勝手に噴き出た雑菌だらけの膿が、どろどろと、ただでさえ大したことの無い顔を汚します。
「直哉」
泣けば泣くだけ、縋りたくなりました。ここにいない直哉に。自分にとって都合のいい直哉に。
「直哉」
そうして縋りつく声のなんという卑しさ。どうして声だけでも美しく生まれてこられなかったのでしょう。今まで生きてきて、この神経質なびりびり来る声がここまで厭わしかったことはありません。それでも、止まらないのです。布団の中だから、鍵をかけたから、絶対に伝えないから、今だけ。今だけ。
「直哉」
みるみる声が掠れて小さくなりました。思わず目を閉じます。もっと暗闇が欲しかった。布団を突き抜けてきてしまう月の影が嫌でした。わずかにでも自分が照らされるのが嫌でした。何もかも忘れたくて、たまりませんでした。
自分の体に、また触れました。ああ無理だ、やっぱり自分は無理なんだ、そんな興ざめな思考を、駄々をこねるように頭を振って落としたつもりになってみます。
「直哉」
直哉が触れたと、思いました。絶対にありえないことです。わかっています。わかっていますが、直哉の白いチョークのついた指がさっきの続きと言わんばかりに再び口内に入ってくるのに合わせてもう片方の指を二本、咥えます。舌で触れれば予想している以上に強い感覚がありました。直哉、直哉、呼びかければ浮かび上がる直哉の顔に、私の指の感覚を流し込むように意識すると、ごくわずかに戸惑って、指が震えました。唇がうっすらと開いています。無意識でしょうか。
今度は意識を反転させて直哉の口を嬲ります。彼の唇はもっと柔らかいことでしょう。ゆったりと歯列を指でなぞって、上顎の裏を中指の関節で撫でます。さっき直哉が私にしてくれて、心地よかったのを、仕返します。直哉の舌が指に絡むたび、体全身に響く刺激が、口の中を弄り回される直哉の感覚への共感になって、何度も何度も私の中を、ぐるぐるぐるぐる回ります。
直哉、好きだよ、大好き、好き。答えるように舌がきゅっと指を締め付けてくるのに、出所の分からない涙と笑みで返しました。本当に好きだよ、直哉、ごめんなさい、好きになってごめんなさい、許してください、ごめんなさい、こんなことをして ごめんなさい、好きです。好きです。本当にごめんなさい。
唇から指を引き抜くと、直哉が指を追いかけて、唇で唾液の糸を千切ってくれました。ぎゅうっと体が締め付けられる思いでいると、当然そこは私の理想が響く世界ですから、直哉が私を抱きしめてくれました。私も抱きしめ返します。想像するしかない彼の背中に手を伸ばし、存在しない体温を必死で思い描きます。でも一人だから、どうしたって一人だから、ああ、なんにもない。
恐ろしく冷たい抱擁をやめにして、唾液で濡れた指をそっと、再び体に這わせました。
「直哉」
大丈夫です。熱はもう怖くありません。今度は直哉がいてくれます。直哉が触ってくれるし、直哉に触れられました。
快感が私と直哉をぐちゃぐちゃに駆け巡って、視点が頻繁に切り替わります。どちらともなく体重が支えられなくなって、直哉を私が抱き寄せたのを切っ掛けに二人で床に崩れ落ちました。直哉の重みは感じられなくとも、直哉の押し殺した声は耳に聞こえます。私が痛いほど歯を食いしばって、声をこらえているから、その感覚を想像上の直哉に押し付けているのです。
知らない刺激は体を這いまわって、私は確実に限界まで追い込まれていました。崩れ落ちそうな疼きが自分でもわからないような奥深くから這い上がってきて、内側から私の仕組みをぐずぐずに蕩かそうとするのに恐怖を感じないではありませんが、直哉が私を見つめて嬉しそうに笑った瞬間、背筋に走った本能的な震えが痺れに変わって一気に首筋まで貫きました。串刺しにされた私は、成す術もなく耳から頬まで火傷を作り、一度反った背中を戻すこともできないままに、直哉のくれる崩壊を受け止め、直哉にもそれをありったけ与えるばかりです。
直哉が震えるあまり私に触れられなくなるのがいじらしくて、つい直哉ばかりを熱で苛んでしまうと、直哉が激しく息をしながら私を見つめてきました。乾きに切なく細めた美しい目が正気を失して濡れ滴っている矛盾は、どんな愛撫よりも激しく刺さって、たまらず心が叫びます。
いけない、と気付いてももう遅く、私の願望そのままに、直哉が倒れ込むようにして私の唇に自分の唇を重ねてきました。
唇も舌も自分のものに指で触れた経験しかありませんから、きっとこの感触は贋作の中でもとりわけ不出来であるのでしょう。
私はそれでもそれに酔います。自分で自分にキスをして、それでも目の前にあるのは直哉の顔だから、少しぼやけてはいるけど絶対に直哉の顔だから、だから必死で、感触だけの味のないキスを繰り返します。
そのまま体に触れなおせば、箍が外れたように、心ごと快感を追うことに夢中になりました。獣です。私は人間ではありません。人としての尊厳をすべて失った獣のくせをして、恥知らずにも直哉を乞うて咽びます。
「直哉」
それに応えようと、直哉は私により一層触れます。激しく追い上げられて、私も直哉に必死で手を伸ばしました。ああ、直哉、気持ちいい、あ、ぁ、好き、好き、好き、直哉、直哉。
直哉がそっと耳に口を近づけて、かすれた声で、俺も、と言いました。嘘です。絶対にあり得ません。でもありがとう、嬉しい、好き、ごめんなさい、助けてください、許してください、どうか。
すると、息も絶え絶えの直哉が、泣き腫らした私の目を拭って、掠れに掠れた声で、私の、名前を。下の名前を呼んで。
生まれて初めて、死んでもいいと、本気で思いました。笑っていただいて構いません。
次回投稿は明日の12時を予定しております。




