第十一話 初恋
現実の直哉の話に移りますと、その順調そうな有様は一変しました。
私は不思議とも思わずそれを眺めました。直哉も不思議だとは思っていなかったでしょう。あの時折見せる鋭い強かさは、どんなに恋に溺れる私にもはっきりと伝わっていました。
それは、綱渡りをする人の鋭さでした。正体すら見せない、しかし確実に存在する不安を、生身の直哉はひしひしと感じていたはずでした。その結果があの能面のような笑顔で、そして今まさに、足元をすくわれたのです。
直哉が褒め称えられていたすべての理由は、直哉を追い詰めるものに変わりました。すなわち、その美しささえ。
けれど私はどうにもできません。窮地に陥る直哉に何をするわけにもいきません。
直哉に手を伸ばすことは、たとえ助けの手だとしても、絶対に有ってはいけないのです。手を取った直哉を引き寄せて、その身も心も丸ごと暴食してしまいたくなる自分を知っているからです。
だから直哉が文化祭で目立つ役を押し付けられても、それが原因でストレスをため込んでも、それが原因で誤解を招いても、それが原因であれだけ愛していた恋人に青春のすべてをめちゃくちゃにされても、好奇と批判のまなざしに絶えずさらされることになっても、私は直哉のために、何をすることもありませんでした。
私にできることは、いくらでもありました。できるのに、できないからしませんでした。私が勝手に横恋慕を抱いたために、恋してなくても助けたくなるような不運の中にいる直哉を、私は見殺しました。
私は私が手を汚したくないから、直哉が死んでいくのを見守ったのと同じことでした。それでもマシだったのです。直哉が不幸になってすべてを失って、まともな生活が何一つ送れなくなろうと、私が直哉をズタズタにしてしまうよりはずっとマシでした。他の人間ならいざ知らず、私の手にかかったら直哉は二度と立ち直りません。それが私の性分です。私は私単体で、誰よりも直哉の害悪でした。
それでも、あれだけ毎日恋人と下校していた直哉が、その道に一人きりでいるのを見かけた時、震えがくるほどの全能感が私を支配したのだから、もう、何も救えません。好きに声をかけられる、彼の特別を今なら独占できる、その状況への全能感です。この期に及んでまだそんなことを考える自分が、心底、おぞましい。
*****
直哉が一人で帰るのを遠巻きに眺めた何度目かの夜の夢で、直哉が私を殺しに来ました。詰襟の直哉なのがおかしくて、思わず笑ってしまいます。そうです。私はきちんとわかっています。とっくに夏服の半袖になった直哉が、現実の直哉が、たとえ何があろうと、私を殺してくれるはずはありません。夢にも思わないとはまさにこのことです。
他に火種になりそうな苦痛もありませんので、私はただ直哉に火をつけられて燃やされました。石崎の敵とでも言うんでしょうか。あるいは自分を助けてくれなかった私への断罪でしょうか。どちらでも結構です。私を直哉が殺してくれるならそれでいい。いっそ殺してほしかった。いっそ憎んでほしかった。それでも私は、愛憎どころか関心すら私に抱いていない、そんな直哉が好きです。ひたすらに疲弊し一人で帰る、半袖の直哉が、今もまだ大好きです。
「直哉」
詰襟の直哉を呼びます。詰襟は恐れおののいて部室の外からこちらに来ようとしません。往生際が悪いです。石崎を殺そうとする私の夢に突然割り込んできた、半袖の直哉は、迷うことなく石崎と一緒に燃え尽きました。やっぱり詰襟は駄目です。半袖の、本物の直哉の方が、よほど美しい。詰襟が半袖を殺すことなどあってはならない。不出来な害虫を肥らせてしまった責任は殺してとります。
足が火傷していてどうしようもないので、見苦しく這いずって部室の入り口に進みます。熱い、苦しい、それでも詰襟もろとも死なねばなりません。それが私の償いであり
部室のスピーカーから聞きなれた音楽が流れました。聞きなれたチャイム、違うチャイムじゃないこれは、着信、着信音、なんで、どうして、これは
飛び起きて枕元に置いた携帯電話を取る。深夜二時、なんで、着信、メッセージじゃない電話、がかかってきて、雪本直哉、なんで今、どうして
「もしもし」
『ああ―ごめん遅くに。寝てたか、やっぱり』
「いや―」
なんで、なんで直哉が。用件は。どうしてこの時間に。
直哉はいきなり深夜に電話をかけてくるような人間じゃない。常識云々以前に人からあれこれ言われるような面倒なことは絶対にしない人間だから、いらない負けはしない人間だから、そういう保身はできる人間だから、知ってる、別に無鉄砲でも純真無垢でも何でもないことは。
じゃあなんで、なんで今、まさか気付かれて
『ああ、ごめん。ちょっと、突発的に、どうしても話しておきたいことがあって。明日は土曜だし、いいかなとか思った。ごめん』
直哉の声が震える。緊張から。まるで武者震いするような声。いいかなってなんだ、話すときには深い話も多かったから多少の信用を勝ち得たのだろうか。
『助けて、欲しいことがあって』
助けて。
そう言った。直哉がそう言った。直哉から、多分自分だけに、 聞き間違いじゃない、確かに、そう言った。
直哉が、助けて欲しいと、言った。
咄嗟に手の甲に噛みついて携帯電話を遠ざける。込みあがってひきつる呼吸が熱い。直哉が自分に電話をかけた、助けを求めて、直哉だ、直哉の声だ―。
「いいけど」
努めて冷静に返すのに、一瞬の間を要したものの、幸い直哉は気にした素振りもなく、迷いのない声で切り出した。
*****
私の初恋は実に汚い。欺瞞と自己満足の中で純度を保って、いざ出てみれば腐りはて、勝手に自分で焼け爛れて、挙句は腹の中で怪物を肥やし、今もこうして嘘か真かわからないけれども確かに挟んだごくわずかな疑念にすら墨塗りをして、直哉から差し出されたその手を一も二もなくとるのです。
あれほど焦がれていたのに、あれほど直哉を渇望していたのに、たった一度助けを求められただけで、私はもう、自分では受け止めきれないほど幸福になってしまったのです。それは、今までの何もかもを壊してしまうような、これさえあれば何もいらないと思ってしまうような、怖いくらいの幸福でした。
私は、直哉を助けることにしてしまいました。怪物の息の根は未だ止められないまま、腹の奥底でしまい続けたまま、ついにその手を取ってしまったのです。これからしばらくは直哉に必要とされている幸福感で満たされてもいられるでしょうが、またいつ律せなくなるとも限りません。むしろ、今ここで直哉に甘えてしまった人間が、 今後どんな場面で自分を抑えることができるというのでしょう。
だから私は、耐える以外の最終手段を設けることにしました。
直哉を完膚なきまでに壊しそうになったその時に、自分を先に壊します。
あくまで最終手段であって、これもまた直哉に何らかの形で迷惑がかかるのは間違いありませんから、そうならないよう、できる努力はすべてします。かかる負担はそもそも軽くして、ある程度のことには耐えられるよう鍛えて、疲弊した時には休息をして、そのうえでなお、駄目だった場合には強制終了を致します。
危険を承知で手を取ってしまったのは私です。どんな対価を支払ってでも、直哉の安全は確保して見せます。
そうしてまでも、私はこの初恋を終わらせられませんでした。直哉を断ち切れませんでした。直哉を想うことは確かに苦しく、時に直哉のすべてを壊したいとさえ思えるほどに狂おしいものですが、私をそうした絶望に追いやるのも直哉なら、あの無遠慮な深夜の電話がそうであるように、私に無上の幸福を与えてくれるのもまた、直哉に他ならないのです。
宿って三か月と経たない思春期の初恋ごときに大げさすぎると、呆れる方もおられるでしょうが、それでも私は撤回しません。
初恋は二番目以降の恋に必ずしも勝りませんが、そうそう劣りも致しません。何かの間違いや若気の至りではありません。私にとっては、初恋も最後の恋も同じです。嫌と言うほど、直哉だけです。
雪本直哉が私の初恋で、これからも私の最愛の人間であることに心からの喜びを噛みしめつつ、筆を置かせていただきます。
『初恋論』は今回で最終回になります。感想等よろしければお聞かせください。この作品を読まれて、また『蜥蜴の殺し方』読み直そうかな、と思っていただけたりしたら私はより嬉しいです。たくさんの方に読んでいただけたら幸いです。




