第十話 恋愛体質
ゆっくりと体を起こすと、部屋は随分暗くなっていました。時刻は午後四時ごろです。二時間のうちに見た夢にすっかり現実の体も毒されたようで、涙が幾筋か通った感覚がありました。
直哉を想うのを、やめにしようと思います。
できるかどうかはわかりませんが、少なくとも、やめる努力を死に物狂いでもしなければなりません。なんと言っても恋愛体質です。恋愛体質、響きばかり甘ったるくっても仕方がありません。
恋愛体質の人間が叶わない恋をして、それでも諦めずにいたところ、行きつく先はどうなるでしょうか?諦めないからどんどん進み、どうしようもないほど激しくなって、自殺だったらまだマシでしょう。意中の相手に対するストーカーもレイプも軟禁も監禁も殺害も心中も、つまりは恋愛体質の賜物であるはずです。先程の夢は、私の病状が、そうした直哉を想っての蛮行に踏み切りかねない段階にまで進行していることの証に違いありませんし、さらには左腕の痣となって、現にまでその影を落としつつあるのです。
ましてや私は一度やり始めたら最後までやりきってしまう幼稚な人間です。弾みがついてしまえばもう取り返しはつきません。
安全装置はもとから無く、実弾は常にこもっていて、狙いはいよいよ定まりかけていました。だから拳銃を持つことさえやめるべきなのです。直哉を想うことを、今こそ本気でやめにかかるべきなのです。どれほど苦しく苛まれようと、心が傷ついていようと、甘いからと言って自ら口に毒を運び続けたのは私の罪であり、結果としてそれが狂おしいほどの衝動になって私の体の制御を奪いつつあるのですから、私はもはや被害者ではないのです。
恋わずらいをともかく直すべきでした。成就させるつもりのない人間に、拗らせる権利はありません。
授業中に直哉を見てしまうこと、直哉を勝手に助けること、すべてを一切合切やめる必要があります。毎日毎時毎分毎秒直哉を想い浮かべることも、直哉、と呼んでしまうことも。
「直哉」
髪に突き立てた指の隙間から声が漏れました。膝に埋めても闇の中でもう一度混みあがりそうになるそれを掻きむしって噛み千切ります。まだ許しを請う気なのか、まだ助けてもらえるつもりでいるのか。病人気分も大概にしろ。誰のためにもならないくせに、ただ一方的に欲しいからよこせと言っているだけのくせに、『わずらい』などと、病に伏すすべての人間に失礼です。
―自室の灯りをつけ、窓を開けて深呼吸しました。
今はどんなに自分を責めることを考えても、却って被害者意識を育ててしまいそうです。落ち着くのが先でしょう。
居間に降りると、当然にまだ誰も帰ってきていませんでした。適当に目についたスポーツドリンクを手に取って、喉に流し込みます。
やけに甘いです。好きではない種類を飲んだようでした。
「俺は好きだけどな」
「……」
ハッキリと、直哉の声がしました。当然家の中にいるはずがありません。私は半ば諦念交じりに目を閉じます。
詰襟の直哉が、暗いどこかにいました。やけに襟が開いています。思わず舌打ちをしました。これは私が腹で飼っている怪物です。私の欲求を喰らって直哉の毒を毒のまま飲み込んで成長する、引き金を引きうる怪物です。私が舌打ちをしたのを嬉しそうに眺め、べー、と舌を出しました。
私が一口、また甘ったるい電解質の水を注ぎこむと、どこからか注がれているのか、直哉は膝をついて舌を差し出し、行儀悪くそのまま横着に受け止め始めました。口の端から零れる水をそのままにして、気持ち良さそうに喉を鳴らす様は野性動物のようです。飲み干せば、感嘆めいた息を一つ漏らします。
吐き気がするほどわざとらしいそのしぐさに、いよいよ嫌悪が湧きます。直哉にではなく、私にです。
「言ったじゃん、こないだ」
確かに言ってはいました。それこそ例の友人と議論をしていたような気がします。好きなスポーツドリンクについて。
「ねえ、冷たいの飲んで、落ち着いたよね」
詰襟はニタニタと笑って、寝っ転がって頬杖をつきました。今さら気付いたわけでもないだろうに、口の端に零れた水を中指でゆっくりと拭き取り、舌で舐めとって唇で指を拭いました。
「ねえ、しよう。俺はお前のこと好きだよ。」
「しない」
心で強くそう叫ぶと
「助けて」
と、また、いつもの言葉を繰り返します。酷い願望です。
こんなものは直哉ではありません。これに縋って、これを完成させることだけに終始して、私はそれを初恋と呼んでいたのです。彼に伝えないこと、ただそれ自体が悪いことかどうかはわかりませんが、それを言い訳にして、知らず知らず自分の中だけで引きこもっていたのでした。現実の彼は、何も私に与えてはくれないから。けれど、私が彼を想うのをやめられない以上、そうでもしなければ、現実の彼に具体的な迷惑をかけていたかもしれません。自分の中で暴れまわる欲求を制御してもう一人の直哉を作ったからこそ、私はまだまともでいられたのかもしれません。現実を見なくて済むからです。夢に、幻に、居場所を見つけることができたからです。
それももう終わりです。終わりにするのです。現実の直哉にも夢の直哉にも、もう用はありません。やがて死んでゆくだろう私の中の彼を見限って、目をそっと開きます。
以降、夢は今までとは全然違う様相を呈しました。
詰襟は相変わらず出てきます。けれど、なんにもしません。つまらなそうにじっとしています。けれど時折思い出したように、ただ言ってみただけのように、助けて、と呟きます。
「何が?」
たまに問いかけると、うーんと首をひねります。とりあえずなにも言わないまま、また退屈そうにするのです。
その静けさが、私には、恐ろしくてたまりません。私の気持ちが揺るげば、欲をかけば、また必死に詰襟が助けてと言ってくるのはわかりきっています。助けて、と言いつつ、何をどうしたいのかの自覚に乏しい直哉の態度は、私が単に、それをうやむやにしているからでした。敢えて感情も考えもまとめないまま無理に頭から追いやろうとするので、直哉も居心地が悪そうですが、勝手ながら私自身にいてほしい気持ちがある以上、彼は出ていくこともまたできません。迷惑そうな空気をわざと出して、客が帰るのを待つばかりの空気は、酷く虚しくて冷たくて、苦しいと思った瞬間、詰襟の直哉が、助けてと、また呟くのです。
それを必死で無視します。現実の直哉に何もしない以上、夢の直哉を助けるわけにいきません。
次回の投稿は17:30投稿となります




