第50話(最終話)『最高の「新規プロジェクト」始動(ハッピーエンド)』
白亜の豪華魔導客船『アウグスト・グロリアス号』が、紺碧の海を切り裂き、アウグスト帝国の帝都ガルデアの専用港へと滑り込んだ。
他国の一大商業国家をわずか数日で完全買収(M&A)するという、大陸の歴史を塗り替える偉業を成し遂げた帰還である。しかし、港に詰めかけた文武百官や侍女たちの間に、勝利を祝う歓声はなかった。あるのは、張り詰めたような緊張感と、慌ただしく行き交う治癒士たちの足音だけである。
「お、お嬢様……っ! このセバス、お嬢様が船内でシステムダウン(昏倒)されたと聞き及び、心臓が停止するかと思いましたぞ……っ!」
帝城の奥深く、花嫁衣装の身支度を整えたあの思い出の最高級寝室。
ベッドの傍らで涙をボロボロと流すセバスを筆頭に、本国の財務省本局の若手官僚たちも一様に青ざめ、手元のマニュアルを握りしめてエルゼの無事を祈っている。
当の本本人であるエルゼ——『エルゼ・フォン・アウグスト』は、シルクの寝具に身を包み、背中にいくつものクッションを当てがわれた状態で、ひどく不満げに眉をひそめていた。
「セバス、過剰な労い(アナウンス)は不要です。私は先ほど申し上げた通り、一時的な過労によるマイナートラブル、あるいは自律神経の一次的なバグだと推測しています。体調はすでに七割方復旧しておりますので、今すぐ旧ゼムリア領の税率統合法案の最終決裁を——」
「却下だ、エルゼ」
低い、しかし絶対的な重みを持った声が、エルゼの言葉を冷徹に遮った。
ベッドの右側に立ち、エルゼの細い肩をやさしく、しかし拒絶を許さない力強さで抑え込んだのは、皇帝レオンハルト様である。その漆黒の軍服からは、いつもの大人の余裕は消え失せ、底知れぬ焦燥と心配がその黄金の瞳に張り付いていた。
「これ以上の残業は私が皇帝権限、いや、夫としての絶対命令で禁ずる。君のその小さな身体に何かあれば、私がこの手で手に入れた帝国の黒字など、一シリングの価値もなくなる」
「そうだよ、エルゼ! お前、自分の身体のパラメーターを過信しすぎなんだ!」
左側からベッドに滑り込んできたルカ様が、エルゼの左手を両手できつく握りしめ、顔を真っ赤にして怒鳴るように言った。白い皇子服を乱れさせた彼は、今にも泣き出しそうなほどに目を潤ませている。
「僕の魔力回復を毎日あんなに完璧に管理してくれてたお前が、なんで自分の『異常ログ』に気づかないんだよ……! もし、僕たちとの夜のプロジェクトが無理をさせすぎたんだとしたら、僕は一生自分を許せない……っ!」
「お、お二人とも、ですからこれは論理的な疲労の蓄積でありまして……っ」
左右から同時に注がれる、逃げ場のない極上の、そして重すぎるほどの過保護な愛情。
エルゼは顔を赤らめながらも、必死に「健康経営」の重要性をビジネス用語で並べ立てようとした。
その時。
部屋の重厚な扉が静かに開かれ、帝国の最高位宮廷治癒士が、診察の結果が記された羊皮紙を手に、厳かな足取りで一歩前に出た。
「陛下。ルカ殿下。そして、エルゼ皇后陛下。……長らくお待たせいたしました。船内から引き継いだ各種魔力パラメーター、および生命波動の精密検査(監査)が、たった今すべて完了いたしました」
部屋の中の空気が、ピタリと停止する。
レオンハルト様とルカ様の身体が、まるで見えない敵の奇襲を警戒するかのように、極限まで硬直した。
「……言え。妻の身体に、いかなる『病魔』が潜んでいる。どのような希少な魔法薬が必要であろうと、世界中を敵に回してでも毟り取ってくる」
「僕の魔力を全額投資してでも治す……! 早く原因を教えてくれ!」
二人の最高権力者からの凄まじい威圧感に、さしもの最高位治癒士も冷や汗を流しながら、しかしこれ以上ないほどの歓喜に満ちた笑みを浮かべて深々と一礼した。
「いえ、陛下、殿下。これは病魔による異常などではございません。……むしろ、我がアウグスト帝国の歴史において、最も偉大で、最も待ち望まれた『新規超大型プロジェクト』のキックオフ(始動)にございます」
「新規プロジェクト……?」
エルゼが小首を傾げる。
「はい。エルゼ様の体内で発生していた魔力の揺らぎと立ちくらみ、そのすべての原因は——『ご懐妊』にございます。エルゼ様のお腹の中に、新たな小さな生命が、確かに宿られております」
しーーーーん。
豪華な寝室の空気が、今度こそ完全に、一分子の動きすら止まったかのように静まり返った。
「ご……ご懐妊……?」
エルゼは、自分の平坦な腹部にそっと両手を当てた。
数字の鬼、論理の天才と謳われた彼女の脳内サーバーが、生まれて初めて「処理不能」を起こし、真っ白なエラー画面を表示している。
そして。
「……あ」
「……え?」
次の瞬間、レオンハルト様とルカ様は、同時に雷に打たれたように目を見開いた。
大陸を統べる冷酷な皇帝と、世界を破壊する魔力を持つ天才皇子が、まるで幼子のように呆然とした顔で、エルゼのお腹を穴が開くほどに見つめている。
「私と……君の……子供……」
レオンハルト様の大きな手が、見たこともないほどに小刻みに震えながら、エルゼの手に重ねられた。彼の目尻から、一滴の熱い涙が静かにこぼれ落ちる。
「エルゼ……っ、やった、やったよ! 僕たちとお前の、赤ちゃん……っ! 新しい家族が増えるんだ……っ!!」
ルカ様は我慢の限界だとばかりに、エルゼの左腕に顔を埋めて、子供のように声を上げてボロボロと嬉し涙を流し始めた。
「ひゃうっ!? お、お二人とも、泣かないでください! 泣くなどという行為は、水分と塩分の著しいコストロスであり——」
「うるさい、今回ばかりは君のロジックなど一切受け付けん!」
レオンハルト様が、エルゼの身体を壊れ物を扱うかのような、これ以上ないほどの極上の優しさで、正面から力強く抱きしめた。
大人の男の甘いシトラスの香りと、激しく波打つ心臓の鼓動(BPM)が、エルゼの全身を包み込む。
「愛している、エルゼ。君は国を豊かにするだけでなく、私の、私たちの人生のすべてを、これ以上ないほどの至上の幸福で満たしてくれた。……本当に、ありがとう」
「僕も、僕も世界で一番エルゼを愛してる! 生まれてくる子のために、僕、もっとすごい魔導具たくさん発明するからね! 絶対に世界一幸せな家族にしてみせる!」
ルカ様も、レオンハルト様の腕の上から、エルゼの身体を包み込むように抱きしめてくる。
右からは、人生のすべてを賭けて私を買い占めて(愛して)くれた、深い海の底のような温かい光。
左からは、私の投資によって最高の輝きを放ち、私を照らし続けてくれる、太陽のような真っ直ぐな熱。
そして今、私の身体の最奥には、この二人の最愛の夫たちとの間に産まれた、最高の成果(愛の結晶)が息づいている。
「お嬢様ぁぁぁああっ!! 帝国財務省、ならびにアウグスト皇室、これにて未来永劫、安泰にございまするぅぅっ!!」
背後ではセバスと若手官僚たちが、お祭り騒ぎの大号泣で万歳三唱を繰り返している。
エルゼは、二人の愛する男たちの腕の中にすっぽりと収まりながら、自身の真っ赤に染まった顔を隠すように、そっと目を細めた。
もう、ビジネス用語の鎧で自分を偽る必要など、どこにもない。
祖国を追放されたあの日、数字の羅列の中にしか自分の居場所を見出せなかった氷の令嬢は、今、世界で最も甘やかされ、最も愛される、世界一幸福な妻となっていた。
「……ふふっ」
エルゼは、両手を夫たちの背中にそっと回し、彼らの胸に自身の頭を預けた。
そして、計算も、打算も、一ミクロンの合理性すら介さない、ただただ幸福に満ち溢れた、とろけるような最高の笑顔を浮かべた。
「レオン様。ルカ様。……次期CEOの育成プロジェクト、無事にキックオフ(始動)ですね。有能な共同経営者(妻)として、必ずや最高の成果を『出産』してみせます。ですから……」
エルゼは二人の顔を交互に見つめ、愛おしげに囁いた。
「これからも永遠に、私の人生のすべてを、お二人の過剰な投資(愛)で満たし続けてくださいね」
「「——喜んで(契約成立だ)!!」」
二人の声が重なり、エルゼの唇に、左右から同時に、世界で最も甘く濃厚な誓いの口づけが落とされた。
愛と論理が激突し、世界をも巻き込んだ氷の令嬢の再建物語。
その第二決算期は、これ以上ないほどの特大のハッピーエンドを迎え、三人の——そしてこれから増える愛おしい家族の未来の利益(幸せ)は、永遠に、どこまでも右肩上がりでストップ高を記録し続けるのであった。
最終話です。
ありがとうございました!!




