12-2 我々は自由淫主主義の国にいるのだ
部室から飛び出してきたそれは、「なにを……している」と、その声は無理に言葉を簡潔にしようと――いや、暴走しそうな感情を抑え込み飲み込まんと声帯を震わせていた。
俺と先輩は即座に半歩分身を引いた。
毅然と顔を上げ、睨み付ける女、そう、桐生幸子が俺達の眼前に立ちはだかっていた。
「さ、ちこ……」
「桐生……」
「国重せン……いや、国重……何をしにきたの? そんな人を連れてきて、まさか部に復帰の嘆願状でも書いてもらったのかしら?」
不機嫌な視線を向けたまま、幸子の口許が不自然に嗤う。
「ちがう。俺はもう、そんなつもりはない」
「じゃあなに? 用がないならさっさとその人を連れて帰ってよ!」
舞台女優のような派手な動きで、幸子は右手をまっすぐに水平に伸ばし、薙いだ。それは桐生先輩が時折見せていた男性的な威圧のパフォーマンスではなく、もっと情感的な、指先にまで悲哀を纏ったものに感じられ、俺の身をさらに退かせた。
「待て、桐生! 桐生幸子! まってくれ! そうじゃない……」
「なにが……」
「白鳥と話をしにきたんだ、いや……白鳥に言われてきたんだ――俺たちは、執筆スタイルやジャンルの垣根を越えて、いかなる文筆家だろうが仲違いすることなく、ともに歩んでいける道を模索できたらと。そうだ、先輩はずっと、その、君に謝ろうとして――――」
「っ、国重、きさま……!」背後に感じた桐生先輩の視線が痛かった。
意図的な曲解だった。そしてその台詞は、間違いであると気づかされることになる。
しかし、桐生幸子の顔がみるみるうちに歪み、怒りの形相へと変化してゆく。
「謝るですって? また上から?」
幸子のそのあからさまな煽り文句に、さすがに不快感を覚える。
「なんで謝るっってんのに上からなんだよ、ンなわけないだろ! いい加減向き合えよ!」おもわず声を荒げてしまった。先輩は勇気を出してこの問題に真摯に向き合おうとしているのだ。
「はン……謝辞ってのはね、有利な立場の者が弄する計略よ。下手に出るふりをすることで相手の出方を推し量ることができるのよ。そもそも謝る側は申し訳ないなんて気持ちを本質的には理解できていない。謝る根拠たるその感情は、むしろ謝られる側にしか分からない悲しみそのものなんだから!」
だから、あやまっても無駄、という訳か。
「謝罪行為とは、謝ったという事実を、謝られた側が初めて受け入れ、認め、許すことでしか成立し得ないのよ! 結局謝る側は何も心を痛めることなどない。我慢して、認める努力するのはいつだって謝られる側なのよ! だからあなたには謝らせてなんてあげないのよ! 私は小説家として大成したのよ、私は勝ったの! もうあなたに負い目なんて感じない、その必要もない!」
失敗した。火に油を注いだだけだった。桐生に対する言い方、伝え方を間違えたと俺は反省する。
桐生幸子の視線が痛い。真っ黒な瞳。青みがかった白目。くりんとした目頭とは逆に、猫のように鋭く尖った目尻。意志の強さを表すかのような濃い眉根。こうしてみると桐生先輩にとてもよく似ている。俺がずっと畏敬の念を称えてきたその目。
俺はわざとらしく幸子からの視線を避け、その背後で俯いている桐生先輩の手を取り、引き寄せる。それでも、あなたはこのモンスターを止めなければいけない。いや、あなたたちは、あなたたちの中のモンスターを飼い慣らさねばならない。
なぜならあなたたちは家族だからだ、そして姉妹だからだ。
「さあ、先輩、前に出て。あなたの口から……伝えてください」
顔を真っ赤にして、今にも泣き出しそうな先輩の顔は、やはり桐生と同じだ。
力がこもり、震え出す先輩のノースリーブの白い肩越しに、桐生の顔がダブって見える。
君たち姉妹は互いにまっすぐで不器用すぎるんだ。
「ほら、先輩。人と話す時は正面を向かなきゃ……」俺は先輩の肩を掴んで、百八十度回し、身体を桐生のほうへと向けさせる。
「なによ……」
今度は桐生幸子のほうが俯き、そっぽを向いてしまう。
「桐生幸子。先輩の話を聴いてやってくれ」
「あなたに呼び捨てにされるいわれはありません!」
きっと俺を睨む。
ああ、すっかり嫌われたもんだ。
俺は腰に手を当て、ふうと溜息をついた。
「少し話をしよう桐生。俺達の話だ」
俺は肩の力を抜いて幸子へと向き直り、一歩前に踏み出した。
「いつか、お前は俺の作品を好きだと言ってくれたな……」
「――――あ、あんなものは一時の気の迷いよ。あなたのような人間が書いたのだと判っていれば……そんな気持ちにはならないわ」
桐生幸子は視線を逃がした。
「桐生……お前は作品の善し悪しを作者で判断するのか? 素晴らしい芸術作品を生み出し人々に感動を与えたアーティストが薬物中毒で逮捕されたら、お前はそれらの作品を忌むのか? 社会悪として断じるのか? その作品で感動することは罪なのか?」
俺は一歩、桐生へとにじり寄った。桐生は引き下がりたいのを堪えていた。そう見えた。引き下がれば自らの主張強度が弱まると思ったのかもしれない。
「魂が穢れているのよ……穢れた魂からは、穢れた作品が生まれるのよ! 穢れた作品は人を惑わせるのよ――――だから政府もファンタジー作品を規制したんでしょ!」
「ふん……ではお前も穢れているのか……そういう事だな?」
「何を……私は……」
「お前の文脈で語るなら、穢れた俺からは穢れた作品が生まれ、作品に触れたものはすべからく惑わされる。ならばそれは穢れた俺と意識が同調したと同義であり、俺の作品を読んで心を震わせたと同時にお前は穢れたことになる。そういうことだろう? 何よりお前は時代小説などを書いている時点で穢れているではないか。血を血で洗う戦国の世をお前は描写している。お前は剣で人を斬り殺す者、斬り殺されたへ思いを馳せて文章を書き綴っているのだからな。お前の頭の中には人の血飛沫と汚物でまみれた愚かしき人々の行いが炸発するほどに詰まっているのだ。すなわちお前は人殺し同然であり、お前の作品を読むもの全てもまた同族。お前が売れれば売れるほどこの世の中は混沌へと没してゆくのだ」
桐生は半歩踵を下げた。だが、その目は抗したままだ。
「そ、そんなわけないだろ! っていうか何言ってんのよ、頭おっかしいだろ! そんなことあくまで……、あくまで! 物語じゃん!」
桐生幸子は下げた踵を踏みしめ、やや前のめりになって両手を開き、俺を言葉と共に押し返すようにに腕を伸ばした。
「そうよ! 私が書いているのは物語であり、私自身が望んでいることじゃない! テーゼよ! その凄惨な世界の中で人間を見つめ、人間を知る、理解する。人が求める共有心理の認識、時代を超える価値観の模索。人とは何か、生きるとは何か、命のやりとりを通し、私は万里の探求者として、知の深淵を知るがための媒体として時代小説を選択した。ただ闇雲に刃物で斬り合うチャンバラが書きたいが為じゃない! ラノベみたいに表層的な描写行為がしたい訳じゃない!」
さすがに俺も気圧され、逆に一歩後ずさる。
だが負けた訳ではない。
「いや、ならばファンタジーでも同じではないのか。舞台が架空の中世風西洋世界であっても、未来宇宙異次元世界であっても、そこに介在しているのはやはり人だ。人あるところにテーゼあり、人の生きるところにテイルあり。なぜなら人は物語を紡ぐ生き物だからだ。人は物語なくしては生きられないからだ――だから桐生幸子! きみは俺達と同類だ!」
桐生幸子はそれでもなお抗い、「一緒にするなぁあっ!」と、ついに両腕を使って物理的に押し返してきた。
それがあまりに不意であったせいで、俺は無様にも壁際にまで追いやられ、尻餅をついてしまった。
女の細腕に押され、恥じる間もなく迫り来る桐生を仰ぎ見た。
「ら、ライトノベル黎明期は確かにそうであったかもしれないわ。だけど水が常に低いところに流れ落ちるように、人もまた人への模索を辞め、より複雑な心理への考察を諦めた結果、自らが理解できる範囲の人物を造形し、世界を構築した。あるいは荒唐無稽な人格破綻者と崩壊した倫理観を世界の全てにし、現住する世界の常識に疑問符を投げかけるようになってしまった。彼らが至高とする“萌え”あるいは“燃え”とはまさにその象徴、人類が誇るべき大脳新皮質があらゆる情報を蓄積、統合した結果、最も良いと感じるもの、最も気持ちがよいと感じるもの、最も素晴らしいと感じるもの、それらを凝縮したものがファンタジーであるというならば、今のラノベは麻薬と同じよ! 快感快楽に至る道程を無視できる、対象者なきオナニーツールよっ!」
彼女は一気にたたみ込むつもりで渾身の言説を垂れた。さすがに的を射ている。
尻餅をついたまま後ずさりするも背後には壁、逃げ場がないと悟った。
ひやりとしたコンクリートの壁に背筋をさすりつけながら、膝の力で不格好に立ち上がろうとする俺に対し、桐生幸子は片手を壁に打ち付け制止する。もう同じ目線には立たせないという意思の表れだろうか。
息を切らし、姉と遜色ないその眼光を蓄えた女が、今目の前でギラギラと俺のことを睨み付けている。
――さて諸君、今あえてここで断らねばならない。
君たちのような文学を至高とする、初心な青少年諸君は壁際で婦女子に迫られた時、えてして巨乳に両頬を包まれるなどという仮初めの胸圧シチュエーションに翻弄されがちである。そして男ならば一度くらいはそんな状況に陥ってみたいと願うものであり、それを一度たりとも頭に描いたことがないなどという男子がいるだろうか――いや、いない。断じていない。
それは男とはもはや女には勝てない生き物であるからして、永久に男は乳の夢を見続けるのである。それは女親をあえてチチとは呼ばず、男親のことをチチと呼ぶほどに奥ゆかしくだ。
しかし、そのように、実に慣例的に、習慣的に、儀礼的に、当然のように、俺もまた諸君らと同じく、膝から下が溶けるかのようにただ跪き崩れようとしていたかというと、そうではない。
俺の眼前にあるのは残念ながら、山羊に引き連れられた羊さんが駆け回るような、小高くのどかな丘である。けしてアイゼンとピッケルを装備した髭面の山家を飲み込んでしまう、悪魔のような深い渓谷を形成する神々の山麓などではない。
正気を保てと俺の理性を司る前頭葉は声を大にする。
これはチチなどではない、単なるムネだ。
俺のものと比べたとて遜色なかろう。
いつだったか近年フランスのパリで『オッパイ革命』なるものが巻き起こったことがある。それは女達が上半身を露わにし、文字通り胸を張って市中を練り歩き「オッパイはエロいものではない!」と叫んで、いたいけなパリジャン達の股間をこれでもかと詰り、虐げ、蔑んだのである。
それによりパリジェンヌ達の胸の間に市民権が芽生え、以来オッパイという文言は使用禁止になったとされる一大革命である。
しかし、ここはパリではない。
オッパイは厳然としてそこにあり、オッパイとムネの境界線という永遠のテーマが依然横たわる世界線上に俺達はいる。革命によりオッパイという価値観を奪われたブタどもの世界ではなく、我々は自由淫主主義の国にいるのだ――




