王太子の葛藤
私は書類に目を通さなければと思いながら集中出来ないでいた。あの夜、ナタリーを抱いてからどうも気分が落ち着かない。
ナタリーは嫁いできた当初、とても皇女らしくは見えなかった。しかしスティーヴンが色々世話をした甲斐があったのか、レヴィの風土があっていたのか、徐々に王太子妃らしくなった。ぎこちなかったダンスも踊れるようになったし、食事作法も不自然ではなくなった。育った環境のせいか常に低姿勢なのは直っていないが、もうあれは彼女の個性として受け入れるべきだろう。
ナタリーは政略結婚に一切夢を持っていない。恋愛感情は不要だと思っているような気さえする。だからこそ私達は上手く仮面夫婦が出来ているのだと思う。公務の時だけ仲良さそうに振る舞い、それ以外はお互いに無関心。彼女の王太子妃としての態度は申し分ない。だからあの夜、何故彼女があそこまで意地になったのかが私にはわからない。もしかしたら私の顔が思った以上にひどかったのかもしれない。作り笑顔を作る気力がなくて晒した素顔が、心優しき彼女の何かに引っかかってしまったのかもしれない。あの時、私は強引にでも手を振り払うべきだと頭ではわかっていた。わかっていたのに出来なかった。そして案の定こうして自己嫌悪している。
私は自分に好意を抱いている女性にしか手を出さないと決めていたのに、あの時どうしようもなく彼女を抱きたい衝動から逃げられなかった。最初はすっきりしたいと思って寝室へ向かった。我ながら最低だと思う。しかし彼女が懸命に自分を思っていてくれるような錯覚をしてしまった。彼女はあくまでも妻という立場で私を心配したのであって、別に私に抱かれたいなどとは思っていなかったと今ではわかるのに、あの時は冷静な判断が出来なかった。実際彼女は私が何を望んでいるのか一切理解していなかった。傷付けるというのは暴力的な行為だと思っていた節がある。その勘違いを訂正してあの手を振り払うべきだった。そうすれば私は今も普段通り仕事が出来ていたであろうに。
ナタリーは状況を察しても嫌がらず私を受け入れてくれた。政略結婚ならば男女の関係があるのは普通であるし、ましてや女性が男性を拒否する事など出来ない。彼女は夫婦であるが故の義務を果たしたに過ぎないと考えているのだと思う。しかしそれがどうにもすっきりしない。純潔だった彼女を穢してしまった事を後悔してももう元には戻らない。修道女になるには処女が絶対条件なのにその道を塞いでしまった。この政略結婚はいずれ終わる。だからその時彼女に選択肢が持てるようにと思っていたのに、彼女は大聖堂へ行けなくなってしまった。私の勝手で彼女の自由になる権利を奪ってしまった。
「殿下? いかがされましたか?」
スティーヴンの声で我に返る。考え込んで手が止まっていた。やはりどうも集中出来ない。
「いや、気にしなくていい」
「帝国に向かう事に抵抗があるのですか?」
「それはないと言ったら嘘になる」
別に皇帝即位祝賀会に参加する事に抵抗はない。先方の狙いがわかっているからこそ、今は殺されることもないだろうから怖くはない。問題は移動だ。ナタリーと二人きりの馬車でどうしたらいい?
「ナタリー様と何かあったのですか?」
「何故そこでナタリーの名前が出てくる?」
私はあの夜以降彼女と接触しない、その前までと同じように振る舞っていた。彼女もそう振る舞っている。不自然な所はないはずだ。だいたい彼女は私に言いたい事があれば枕元に手紙を置くのにそれがなかった。次の日の夜、手紙が見当たらなくて私は落胆した。本当は心のどこかで彼女が何か反応してくれるだろうと期待していたのだ。服を誂えた時は必ず感謝の手紙を置く彼女がペンを執らなかったのだから、彼女はただ義務を果たしただけとしか感じなかったのだろう。出来るだけ彼女を傷付けないように優しく抱いたつもりだけれど、そのせいか彼女の心には何も残らなかったのかと思うと、もっと乱雑に傷付けるように抱けばよかったなんてくだらない事を考えてしまう自分が嫌になる。
「ナタリー様がそろそろ殿下に側室が必要ではと仰っておられまして」
スティーヴンの言葉に私は眉を顰めた。それはつまり私の横で寝たくないという事か? あの夜以降私はもう手を出していない。今まで気にしていなかった彼女の寝顔を見るようにはなったけれど、それに彼女は気付いていないはず。
「私は愛してもいない女性を傍に置く気はない。それはスティーヴンも知っているだろう?」
「えぇ、存じております。ですがそう私がナタリー様に説明するのも憚られましたので、適当に誤魔化しておきました」
母に愛されなかったからなのか、初恋が実らなかったからなのか、私は愛するという事が怖い。それでも誰かに受け入れて欲しくて、自分に気がありそうな女性に期待して声を掛けるものの、この人だと思える女性は未だに見つかっていない。見つかればすぐ側室にするつもりでいる事をスティーヴンもわかっている。ナタリーは違う意味で私を受け入れてくれるとは思うが、そんな虚しいものは欲しくない。彼女はルジョン教の教えの通り夫を愛そうと努力しているだろうけど、それは私が欲しい愛情とは違う。博愛に似た別物だ。
「初恋の件が片付いたかと思えば、次も拗らせてしまったのですね」
スティーヴンが私を馬鹿にしたようにそう言った。この男は本当に腹が立つ。私は奴を睨んだが、余裕のある笑みを返してきた。面白くない。
「最近裏仕事が増えましたからね。ですがシェッドとの関係の清算は時期尚早かと思いますよ」
「わかっている。ジョージがもう少し隊長らしくなるのは待つ。しかしその時に備えて打てる手は全て打っておきたい」
「それでしたらナタリー様に優しくされたらいかがですか? こちらが実行に移すまでに陛下が亡くなる可能性は低いでしょうし」
「そのような指図はされたくない」
優しく出来るならしている。今まで表面上の付き合いだったものを急に変えられるわけがない。しかも身体の関係が出来てから優しくするなど、たとえ夫婦といえども不自然だ。彼女はまるで何事もなかったように振る舞っている。それはあの夜の事を忘れたいのだろうし、それなら私も忘れた方がお互いの為なのだ。今まで何も言わなかったのに急に側室を勧めてきたのなら、理由は私の横で寝たくないしかない。私は今までの女性とは違う何かを彼女に感じたけれど、初めての彼女に何かを感じろという方が無理があるのもわかっている。その違う何かを確かめたくてもう一度彼女を抱きたいけれど、どう切り出していいのかわからず何も出来ないでいたらこのざまだ。私はやはり誰かと愛し合うという事は出来ないのだろう。
私は書類に目を移した。シェッドへ往復するのに約一カ月かかる。今終わらせられる仕事は全て片付けておかなければ。王太子の責務を恋煩いで放り出すわけにはいかない。




