世界で一番うまい
目を覚ました瞬間、安達は顔をしかめた。
背中に鈍い痛みが走る。肩も腰も重い。
「いてぇ……」
昨夜、鯱に投げられた場所だった。
起き上がってみると、それだけではない。
腿も張っているし、腕にも疲労が残っている。
それでも、不思議と気分はよかった。
身体のあちこちに残った痛みが、
昨日の出来事を現実のものとして感じさせてくれる。
自分は本当に土俵に立った。
甲冑を着て戦い、そして勝った。
安達はベッド脇のスマートフォンを取った。
専用サイトを開く。
《衝動 1戦1勝0敗》
昨日までゼロだった数字に、一つだけ勝ち星が付いている。
たった一勝。
それでも、誰かから与えられた数字ではない。
自分で取った一勝だった。
安達は画面を閉じた。
「勝ったんだよな」
口に出してみると、ようやく実感が湧いた。
シャワーを浴び、スーツに着替える。
ワイシャツへ腕を通すと肩が痛み、
ジャケットを羽織れば背中が突っ張った。
三か月前なら、朝から身体が重いだけで
その日一日が嫌になっていただろう。
今日は違う。
身体は痛い。
だが、その痛みまで悪くなかった。
いつもの駅。
いつもの通勤電車。
眠そうにスマートフォンを見る会社員。
吊り革につかまったまま目を閉じる男。
作業着姿で座っている男。
景色は三か月前と何も変わっていない。
以前の安達なら、この人たちを見ても何も思わなかった。
会社へ行き、働き、夜になれば帰る。
自分もその中の一人だった。
今は、少し違う。
この中にもいるのだろうか。
夜になれば甲冑を着る武者が。
そう考えてから、安達は小さく笑った。
少なくとも一人はいる。
自分だ。
今はスーツを着ている。
昨夜は胴丸を着ていた。
会社では安達。
土俵では《衝動》。
別人になったわけではない。
ただ、三か月前の自分にはなかったものが、
今は増えていた。
会社に着けば、いつもの一日が始まった。
メールを確認する。
資料を直す。
会議に出る。
昨日の歓声も、甲冑も、この場所には存在しない。
椅子へ座った瞬間、背中が痛んだ。
「っ……」
向かいの同僚が顔を上げた。
「どうした?」
「筋肉痛」
「またジム?」
「まあ、そんなとこ」
「やりすぎじゃない?」
安達は笑って誤魔化した。
数分後には、何事もなかったように仕事へ戻る。
昨夜は《衝動》と呼ばれていた男が、
今日はパソコンの前で資料を直している。
その落差が、少し面白かった。
昼休み。
安達は専用サイトを開いた。
《衝動 1戦1勝0敗》
続いて鯱のページを見る。
《鯱 8戦5勝3敗》
あの三敗目を、自分がつけた。
勝ったという事実と同時に、
自分に足りないものも分かっていた。
打撃はまだ弱い。
経験も足りない。
タックルが通らなければ、どう戦うのか。
一勝したことで、次にやるべきことまで見えてきた。
ただし、今日は休む。
身体を作ることを覚えた三か月で、
休むことも練習の一つだと分かるようになっていた。
仕事を終え、駅へ向かっている途中だった。
赤い看板が目に入った。
家系ラーメン。
安達の足が止まった。
三か月間、ほとんど食べていない。
酒もほぼ飲まなかった。
禁止していたわけではない。
朝と夜に身体を動かし始めてから、
何を食べれば身体が動くのかを考えるようになった。
その結果、自然と遠ざかっていただけだった。
安達は店の前で少し考えた。
昨日、初めて勝った。
今日くらいはいいだろう。
店へ入り、家系ラーメンと生ビールを注文した。
先にビールが運ばれてくる。
冷えたジョッキの表面を、
細かな水滴が流れていた。
安達はジョッキを持ち上げる。
三か月ぶりと言っていいくらい、
まともに飲んでいない。
一口。
冷たいビールが喉を落ちていく。
「……うまっ」
思わずジョッキを見た。
こんなにうまかっただろうか。
もう一口飲む。
苦味も、冷たさも、喉を通った後の感覚も、
全部がやけに鮮明だった。
そこへラーメンが運ばれてきた。
濃い豚骨醤油の匂いが立ち上る。
海苔、ほうれん草、チャーシュー。
レンゲでスープをすくう。
一口飲んだ。
安達は黙った。
麺をすする。
もう一度ビールを飲む。
そして笑った。
「犯罪的だな、これ……」
三か月、身体を戻すために生活を変えた。
朝起きてジムへ行った。
仕事をして、夜も身体を動かした。
食事も考えた。
その先に初めての試合があった。
身体にはまだ、その名残がある。
肩も背中も痛い。
そして戦績には、一勝が残った。
その翌日に飲むビール。
その翌日に食べる家系ラーメン。
安達はまた麺をすすった。
世界で一番うまい。
本気でそう思った。
店を出ると、夜風が心地よかった。
駅前には、仕事を終えた人間が溢れている。
三か月前にも同じ街を歩いていた。
同じ会社があり、
同じ駅があり、
同じ電車が走っていた。
何も変わっていない。
変わったのは安達だった。
三か月前は、仕事が終われば一日も終わっていた。
今は違う。
身体には戦った痛みが残っている。
専用サイトには一勝がある。
そして、その先に次の試合がある。
安達は人混みの中を歩いた。
同じ街だった。
それなのに、
三か月前とは見える景色がまるで違っていた。




