鎧を着た男
休日出勤を終えたのは、日付が変わる少し前だった。
安達亮は駅へ向かいながら、くたびれたスーツに緩めたネクタイを引っ張った。
社会人三年目。
大学時代は趣味でMMAをやり、高校ではラグビー部にいた。
身体を動かすことは嫌いではなかった。
だが社会人になってから、そんな時間はなくなった。
朝から晩まで数字を追い、未達なら理由を聞かれる。
達成しても翌月には数字がリセットされる。
今日も休日だったはずだ。
時計の針は午前零時を差している。
会社を出た時には、疲労しか残っていなかった。
その男を見たのは、そんな帰り道だった。
安達は足を止めた。
甲冑?!
そうとしか表現できなかった。
黒い胴を身につけ、兜を抱えた男が、深夜の雑居ビル街を歩いている。
撮影か。
イベント帰りか。
だが男は誰かと話すでもなく、古びたビルの横へ消えた。
安達は数秒迷った。
そして後を追った。
男が入った場所には、地下へ続く階段があった。
階段を降りる。
地下一階
地下二階
さらに下
地下三階まで来ると、巨大な鉄製の扉が現れた。
その前に、黒い服を着た男が二人立っている。
「なんだ、お前」
一人が安達を見る。
「会員じゃないだろ」
「いや、その……」
「帰れ」
中へ入る余地はなかった。
安達は仕方なく階段へ戻ろうとした。
「興味あるかい?」
後ろから声がした。
振り返る。
五十代くらいの男だった。
スーツ姿
白髪交じりの髪を後ろへ流し、どこか楽しそうに安達を見ている。
「え?」
「中だよ」
男が扉を指した。
安達は少し迷ってから頷いた。
「……あります」
男は笑った。
「特別だ」
男が警備の二人に軽く手を上げる。
それだけで扉が開いた。
安達は男の後について中へ入った。
最初に感じたのは熱だった。
人の熱気。
次に音。
ゴン。
何か硬いもの同士がぶつかる鈍い音が響く。
歓声が上がった。
安達は目を凝らした。
広い地下空間。
中央には、相撲の土俵に似た円形の台座がある。
その上で二人の男が戦っていた。
武士
一瞬、本当にそう見えた。
一人は黒い甲冑を全身にまとっている。
身長は百八十センチを超えているだろう。
対する男は赤い胴丸。
身長は百六十五センチほど。
こちらは兜もなく、顔が剥き出しだった。
赤が距離を取る。
低いローキック。
黒の腿へ入る。
ゴッ。
鈍い音。
だが黒はほとんど反応しない。
足まで防具で覆われている。
安達は無意識に戦いを分析していた。
黒は重い。
その分、防御力が高い。
赤は防御が薄いが軽い。
機動力では圧倒的に上だ。
赤がもう一発ローを蹴る。
黒が前へ出る。
赤が下がった。
さらに下がる。
土俵際。
安達は息を止めた。
出たら負けか。
そう思った。
黒が両腕を伸ばす。
捕まれば終わる。
だが赤は身体を低くすると、黒の脇を一気にすり抜けた。
中央へ戻る。
観客から歓声が上がった。
安達の口元がわずかに緩んだ。
面白い。
気づけば疲れが消えていた。
さっきまで身体を覆っていた重さがない。
目の前にいるのは、会社員でも、上司でも、取引先でもない。
荒々しい男たちだった。
ただ相手を倒すために身体を動かしている。
そこにはノルマも評価面談もなかった。
男の動きそのものが、安達の奥に眠っていた何かを叩いていた。
横に立つ謎の男が言った。
「相撲みたいに、倒れたら負けってわけじゃない」
安達は視線を土俵から外さない。
「出なきゃいいんですか?」
「そう」
男が指を三本立てた。
「負けは三つだ」
一本目
「土俵の外へ出る」
二本目
「ギブアップ」
三本目
「ドクターストップ」
安達が頷く。
男は続けた。
「それとは別に、もっと大事なルールがある」
「なんですか?」
男は土俵を見ながら言った。
「生きて帰る」
安達が男を見る。
「ここに来る連中は、普段は普通に働いてる」
男は観客席を見回した。
スーツ姿
作業着
ジャージ
どう見ても普通の男達だ。
「医者もいる。教師もいる。社長もいれば、アルバイトもいる」
男は笑った。
「要するに、ストレス解消だよ」
「これがですか?」
「健全だろ?」
安達はもう一度土俵を見る。
どう見ても健全には見えなかった。
男は続ける。
「意外かもしれないが、ここで商談がまとまることもある」
「商談?」
「殴り合ったあとに仕事の話をするんだよ」
その瞬間。
会場が沸いた。
安達が土俵を見る。
黒い甲冑の男が、赤い胴丸の背後を取っていた。
両腕を締め上げる。
羽交い締め。
赤の足が浮く。
「あれは決まったね」
謎の男が言った。
赤が暴れる。
だが黒は離さない。
数秒。
赤の身体から力が抜けた。
腕が垂れる。
黒が手を離す。
赤はそのまま土俵へ崩れた。
すぐに数人が飛び込んでくる。
医師らしい。
胴丸を外し、呼吸を確認し、手際よく処置を始める。
観客は静かにそれを見ていた。
誰も騒がない。
安達だけが立ち尽くしていた。
謎の男はいつの間にか歩き始めていた。
「あ」
安達も後を追った。
男は会場を出る。
階段を上がる。
地上へ戻り、そのまま裏手の駐車場へ向かった。
一台の車のドアを開ける。
安達は足を止めた。
男が乗り込もうとする。
「待ってください!」
男が振り返った。
「どうした?」
安達は息を整える。
自分でも、何を言おうとしているのか分かっていた。
もう迷いはなかった。
「僕を……」
一度言葉を飲み込む。
「僕を会員にしてください!」
男の目が細くなった。
「やりたいのか?」
安達は即答した。
「はい!」
謎の男はしばらく安達を見た。
そして、ゆっくり笑った。
助手席のロックを外す。
「乗れよ」
安達は一度も振り返らず、助手席に乗り込んだ。




