第31話 消えた痕跡
「お父さん!」
村の入口に立っていたエマさんが、弾かれたように駆け出しました。
その小さな体が、村人たちの間をすり抜けていきます。
「エマ……!」
男性も、支えていた村人の肩を借りながら、娘のほうへ手を伸ばしました。次の瞬間、エマさんはお父さんの胸に飛び込みました。
「お父さん! よかった……! もう帰ってこないかと思った……!」
「ごめんな。心配かけて、本当にごめんな」
男性は、エマさんを強く抱きしめました。
エマさんは、お父さんの服をぎゅっと握りしめています。顔をうずめたまま、何度も首を横に振っていました。
「もう、どこにも行かないで……」
「ああ。約束する。もう一人にはしないよ」
その様子を見ていた村人たちの間から、安堵の声が漏れました。
行方が分からなくなっていた人々が、全員ではないにせよ、こうして村へ帰ってきたのです。誰もが胸をなで下ろしているようでした。
「本当にありがとうございました。皆さんが助けてくださらなければ、どうなっていたことか……」
年配の男性が、わたくしたちの前に進み出ました。
「わたしはこの村の村長です。皆さんには、なんとお礼を申し上げればよいのか……」
「いえ。皆さんが無事に戻られたことが何よりです」
わたくしがそう答えると、村長は深く頭を下げました。
「それでも、感謝してもしきれません。どうか、村でゆっくり休んでいってください。食事も用意させましょう」
「ありがとうございます。ですが、その前に少しお話を伺いたいことがあります」
「話、ですか?」
「はい。古い鉱山道の近くで、岩壁が崩れていたという話を聞きました。それから、見慣れない魔物の足跡もあったそうです」
その言葉を聞いた村長の表情が、わずかに変わりました。
「……古い鉱山道ですか」
「何かご存じなのですか?」
テオさんが尋ねます。
村長は少し考え込んだあと、ゆっくりと口を開きました。
「詳しいことは分かりません。ただ分かることは、あの場所には昔、鉱山があったということだけです。今では閉鎖されていて、村の者もほとんど近づきません」
「閉鎖された理由は何でしょうか?」
「鉱石が採れなくなったからだと聞いています。わたしが子どもの頃には、すでに使われていませんでしたから、詳しい事情までは……」
「鉱山の中に入ることはできるのでしょうか?」
「入口は残っているはずですが、長い間放置されています。安全とは言えませんね」
村長は心配そうに眉を寄せました。
「それに、森にはあのような巨大な魔物まで現れたのです。今はあまり奥へ入らないほうがよいと思います」
「そうですね。わたくしたちも、無理に奥へ進むつもりはありません。ただ、岩壁の損傷や足跡が確認できれば、ギルドへ報告する際にも役立つと思います」
「なるほど……」
村長はしばらく考えたあと、ひとつ頷きました。
「分かりました。ですが、どうか十分にお気をつけください。あのあたりは道も荒れていますから」
「ありがとうございます」
わたくしたちは村長に礼を伝え、いったん村の宿泊所で休ませてもらうことになりました。
負傷した村人たちの容体も気になりますし、わたくしたち自身も長い戦闘と移動で疲れています。調査をするにしても、少し体を休めてからのほうがよいでしょう。
その夜、村ではささやかな食事が用意されました。助け出された人々は、まだ疲れが残っている様子でしたが、家族と再会できた喜びからか、表情は明るくなっていました。
エマさんも、お父さんのそばを離れようとしません。その姿を見ていると、わたくしまで嬉しくなってきます。
「そういえば、御者さんに待ってもらっているんだから調査に行くなら相談した方がいいんじゃない?」
食事を終えた後、アネットさんが尋ねました。
「確かにその通りですね。御者さんにもお仕事があるはずですから。」
わたくしも頷きます。
「いや、それは大丈夫だ。もう話は通してある。」
テオさんが言いました。
「さすがだね。仕事早っ!」
「では、朝になったら、古い鉱山道へ向かうということでよろしいですか。村長のお話だけでは、まだ分からないことが多いですから」
「そうだね。村の人が見たものが本当に残っているか、確かめておきたいし」
「僕も賛成だよ。ただし、調査は慎重に進めよう。あの場所に何がいるのか分からないからね」
「はい。危険を感じたら、すぐに引き返しましょう」
三人で明日の予定を確認し、わたくしたちは早めに休むことにしました。
翌朝。
朝食を済ませたわたくしたちは、村長に挨拶をしてから森へ向かいました。
「鉱山道へは、この道を北へ進めば着きます。途中から道が分かりにくくなりますので、気をつけてください」
村長は、森へ続く道を指さしました。
「分かりました。ありがとうございます」
「どうかご無事で。何か分かったことがあれば、教えてください」
「もちろんです」
村長に見送られ、わたくしたちは森の中へと足を踏み入れました。
昨日、巨獣と戦った場所とは少し離れています。木々の間には朝の光が差し込み、鳥の鳴き声も聞こえていました。
一見すると、いつもと変わらない穏やかな森です。
「昨日の話だと、ここから一時間くらい歩いたところだよね」
アネットさんが周囲を見回しながら言いました。
「はい。古い鉱山道は、森の北側にあるそうです」
「岩壁が崩れていたっていう場所も、その近くかな」
「おそらくは。まずは村人の方が見た場所を探しましょう」
わたくしたちは、道を確認しながら先へ進みました。
しばらく歩くと、木々の間に古びた道が見えてきました。地面には草が生い茂り、ところどころに大きな石が転がっています。長い間、人が通っていないことがよく分かりました。
「ここが鉱山道かな?」
アネットさんが足元を見下ろします。
「そうみたいだね。道の幅も、昔は荷車が通れるくらいあったんじゃないかな」
テオさんは、周囲を注意深く観察していました。
「岩壁は、この先だと聞いています。もう少し進んでみましょう」
わたくしたちは、古い道に沿って歩き続けました。
やがて、道の片側に大きな岩壁が見えてきます。その周辺には、大小さまざまな岩が転がっていました。
「ここかな?」
「そうですね。村人の方が話していた場所に近いと思います」
わたくしは、岩壁を見上げました。
しかし、そこには大きく崩れた跡など見当たりません。
岩肌はところどころ風化しているものの、周囲と比べて特別に荒れている様子もありませんでした。
「……おかしいね」
アネットさんが小さく呟きました。
「村の人は、岩壁の一部が大きく崩れていたと言っていたよね?」
「はい。周囲の岩まで傷んでいたとおっしゃっていました」
「でも、そんな跡はどこにもないな」
テオさんが岩壁に近づき、表面をじっくりと調べます。
わたくしも周囲を見回しました。
大きな岩が転がっている場所はありますが、それらも長い年月をかけて落ちてきたように見えます。新しく崩れた形跡はありません。
「もしかして、場所を間違えたのかな?」
「その可能性もありますね。もう少し周辺を調べてみましょう」
わたくしたちは岩壁の周囲を歩き、地面に残された痕跡を探しました。
けれど、いくら探しても、村人が話していたような足跡は見つかりません。
獣のものと思われる小さな足跡はいくつかありましたが、あの巨大な魔物とも、見慣れない魔物とも違うようでした。
「こっちにもないよ」
アネットさんが少し離れた場所から声をかけてきました。
「こちらも見つかりません」
「僕のほうも同じだ。少なくとも、ここには何も残っていないみたいだね」
テオさんは立ち上がり、周囲を見渡しました。
「そんなはずはないと思うんだけど……」
わたくしは、もう一度岩壁へ目を向けました。
村人の男性は、確かにこの場所で異変を見たと言っていました。あの方は怪我を負い、命からがら逃げてきたのです。見間違いだったと簡単に片づけることはできません。
「テオさん。岩壁が崩れた跡が、自然に元へ戻ることはあるのでしょうか?」
「普通はないね。崩れた岩が元の形に戻るなんてことは考えにくい」
「では、誰かが片づけたのでしょうか?」
「それも考えられるけれど……」
テオさんは、岩壁の表面に手を触れました。
「これだけの範囲を修復したり、崩れた岩を片づけたりしたなら、何かしら作業の跡が残るはずだよ。けれど、それも見当たらない」
「じゃあ、足跡も同じように消されたってこと?」
アネットさんが尋ねます。
「可能性はある。ただ、どうやって、何のために消したのかは分からないね」
わたくしは、足元へ視線を落としました。
確かに、地面には不自然な跡がありません。何かを引きずった跡も、土を掘り返した跡も見当たりませんでした。
まるで、最初から何も起きていなかったかのようです。
「少し気になることがあります」
「何かな、リーネ?」
「村人の方は、岩壁の近くで複数の足跡を見たとおっしゃっていました。けれど、今はその痕跡もありません。岩壁の損傷だけでなく、足跡までなくなっているのは、偶然とは思えないのです」
「確かに。二つとも同じ場所で見つからなくなっているんだもんね」
「うん。少なくとも、ただの自然現象として片づけるのは難しそうだ」
テオさんは、岩壁から少し離れた場所へ歩いていきました。
「もう少し周辺を調べよう。何か手がかりが残っているかもしれない」
「分かりました」
わたくしたちは、さらに周囲を調べることにしました。
岩壁の反対側や、古い鉱山道の先も確認しましたが、目立った異常は見つかりません。かつて鉱山で使われていたと思われる道具の残骸や、崩れた木箱があるだけでした。
それらも、長い年月を経て朽ちたものに見えます。
結局、どれだけ探しても、村人の話を裏付けるものは何一つ見つかりませんでした。
「うーん……。これじゃあ、何も分からないね」
アネットさんが困ったように言いました。
「そうですね。ですが、村人の方々が見たものがなかったことになるわけではありません」
「そうだね。むしろ、痕跡が消えていること自体が気になる」
テオさんは、もう一度岩壁を振り返りました。
「このことはギルドに報告したほうがいい。村人が複数で確認した情報だし、僕たちも実際に現地を調べた。何も見つからなかったという結果も含めて伝えるべきだよ」
「はい。わたくしもそう思います」
「じゃあ、村に戻ろう。これ以上ここにいても、今は手がかりが見つかりそうにないからね」
わたくしたちは、来た道を引き返し始めました。
森の中は、相変わらず静かでした。
けれど、わたくしの胸には、どうしても拭えない違和感が残っています。岩壁の損傷も、見慣れない魔物の足跡も、跡形もなく消えていました。誰かが意図的に消したのでしょうか。それとも、わたくしたちにはまだ分からない何かが起きているのでしょうか。
今のわたくしたちには、答えを見つけることができません。
「リーネ」
前を歩いていたテオさんが、こちらを振り返りました。
「今回のことは、あまり軽く考えないほうがいい。村の人たちにも、しばらく森へ入らないよう伝えておこう」
「そうですね。村長にも、改めて注意を促しておきます」
「うん。私も賛成!」
アネットさんが頷きました。
わたくしたちは、森を抜けて村へ戻りました。そして、この一件をギルドへ報告することを決めたのです。
まだ何も分かっていません。
けれど、確かなことが一つだけあります。
この森では、わたくしたちの知らない何かが起きている。その事実だけは、決して見過ごしてはならないと思いました。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
次回もお楽しみに!




