第1話 居場所をなくした少女
※この作品はフィクションです。作中に登場する人物・団体・地名・その他の名称は、実在するものとは一切関係ありません。
「クロウディア王国王太子、ハインリッヒがここに宣言する。今日この場をもって、アイリーン・バルコス、貴女との婚約を破棄する。」
わたくしは、驚きと戸惑いで言葉が出ませんでした。
本日は王太子のハインリッヒ殿下の成人を祝う夜会の日です。
まさか、夜会が始まって早々、婚約破棄を突きつけられてしまうなんて。
この婚約は、国王陛下と、公爵であり宰相でもあるわたくしの父、レオポルト・バルコスとの間の取り決めで決められたものです。
それを、いくら王太子殿下とはいえ、当人の一存で一方的に破棄するなんて、異例のことではないでしょうか。
「そして、ここにリリアーヌ・クロンセチア嬢との婚約を宣言する。」
わたくしは、すっかり取り乱してしまいました。
「そ、そんな……」
ようやく口から出たのは、それだけでした。
何かの間違いであってほしい。
そう願いながら、わたくしはハインリッヒ殿下の隣に立つ女性へ視線を向けました。
淡い金色の髪に、澄んだピンク色の瞳。
まったく見覚えのない方でした。
「皆、紹介しよう。こちらはリリアーヌ・クロンセチア嬢だ。彼女とは、王都の街を視察していた際に出会った。彼女は光魔法の使い手だ。王妃として迎えるに相応しいと考えた。」
周囲から、ざわめきが起こりました。
光魔法といえば、この国の建国神話にも登場する、伝説の魔法です。
長い王国の歴史の中でも、数人にしか発現していないものです。
「しかし殿下、いくら光魔法の使い手だからと言って、貴族でもない娘を正妃として迎えるのはいかがなものかと。」
ある貴族の方が、声を上げました。
「そなたも知っているであろう。クロンセチア家は約10年前に没落した伯爵家だ。没落するまでは建国してからずっと伯爵位を守ってきた由緒ある家。家格は申し分ない。それに、私は彼女を心より愛している。正妃になる理由はそれで十分だ。」
胸の奥が、ずきりと痛みました。
わたくしは、愛されてなどいなかったのでしょうか。
殿下とは、幼い頃から婚約者として過ごしてきました。
王太子妃となるために、礼儀作法も、政治についての勉強も、魔法の制御も、人前で恥ずかしくない振る舞いも、できる限り努力してきたつもりです。
わたくしは、殿下に恋をしていたのでしょうか。
正直に申し上げれば、分かりません。
ただ、婚約者として殿下を支えることが、わたくしの役目なのだと思っていました。
「殿下。わたくしには……何か、至らないところがございましたでしょうか」
震える声で尋ねました。
「もしわたくしに問題があったのでしたら、おっしゃってください。」
周囲から、小さなどよめきが起こりました。
殿下は、眉をひそめられました。
「そういうところだ、アイリーン」
「……え?」
「君はいつもそうやって、自分を押し殺してばかりだ。私の言うことに逆らったこともない。何を考えているのか分からない」
胸が締め付けられました。
私は、そんなつもりではなかったのです。
殿下のお言葉を尊重したかった。
婚約者として恥ずかしくないようにしたかった。
それなのに。
「それに、君には王太子妃としての華やかさがない。リリアーヌは違う。彼女は明るく、誰にでも分け隔てなく接することができる。私には彼女のほうが相応しい」
「……そう、ですか」
それしか言えませんでした。
悔しいのでしょうか。
悲しいのでしょうか。
自分でも、よく分かりませんでした。
ただ、たくさんの人が見ているこの場所で、泣いてはいけない。
そう思いました。
「……承知、いたしました」
私は、ゆっくりと頭を下げました。
「今まで、お世話になりました。殿下のこれからのご幸福を……心よりお祈り申し上げます」
顔を上げました。
殿下は、何もおっしゃいませんでした。
それで終わりでした。
あまりにも、あっけないものでした。
私がこれまで積み重ねてきたものが、音を立てて崩れていくようでした。
私は、その場を離れました。
夜会の会場を出るまで、誰とも目を合わせませんでした。
廊下に出た瞬間、ようやく小さく息を吐きました。
「……大丈夫」
誰もいない廊下で、自分に言い聞かせます。
「大丈夫、きっとわたくしは、大丈夫です……わ」
そう呟いているうちに、目の奥が熱くなってきました。
でも、泣いてはいけません。
泣いたところで、何も変わらないのですから。
そう思っているのに。
「……っ」
一粒だけ、涙が頬を伝いました。
私は慌ててそれを拭いました。
そのときでした。
「アイリーン」
背後から、低い声が聞こえました。
振り返ります。
そこに立っていたのは――
「お父様……」
父、レオポルト・バルコスでした。
いつもなら穏やかに見えるその顔は、今まで見たことがないほど険しいものでした。
けれど私は、その表情を見た瞬間、なぜか少しだけ安心してしまいました。
「……お父様」
もう一度、その名前を呼びました。
すると父は、しばらく黙ったあと、
「帰るぞ、アイリーン。話はその後だ。」
それだけを告げました。
バチン
「キャッ!」
屋敷に戻って早々、私はお父様の執務室に呼ばれ、殴られました。
「この役立たずが。せっかく王太子との婚約を取り付けてやったというのに、それをむげにするとは。男の心ひとつ掴めないのか。」
悲しみよりも、驚きの方が大きかったのです。
いったい、今まであんなに優しかったお父様は、どこへ行ってしまったのでしょう。
「お前は母親を殺して生まれてきた。それだけでも忌々しかったのに、家門の役にも立たないとは、大いに失望したぞ。」
本当は、泣きたかった。
けれど、涙は出てきませんでした。
母を殺して生まれた。
幼い頃から、何度も心の中で自分を責めてきた言葉でした。
けれど、お父様の口から直接聞かされるのは、初めてでした。
「……申し訳、ありません」
それでも私は、そう言うことしかできませんでした。
「謝れば済むと思っているのか?」
お父様は冷たく私を見下ろしました。
「もういい。お前に期待するのはやめた」
「……え?」
「お前との王太子殿下との婚約は破棄された。ならば、もはやお前をこの家に置いておく理由もない」
頭が真っ白になりました。
「そんな……」
「安心しろ。バルコス家には、これから新しい娘が来る」
その言葉に、私は顔を上げました。
「リリアーヌ嬢を我が家の養女として迎えることにした」
「……リリアーヌ、嬢を……?」
「ああ。光魔法を持つ彼女なら、王太子妃、未来の王妃となる者を輩出した家として、我がバルコス家の名もさらに高まるだろう。」
淡々と告げられる言葉を聞きながら、私はただ立ち尽くしていました。
私は、お父様からでさえ愛されてはいなかったのです。
自分が権力を得るための駒としてしか、見ていただけなかったのでしょう。
つい数時間前まで、私は王太子妃になるはずでした。
けれど今は、その婚約者も、家での居場所も、何もかも失ってしまったのです。
「……では、わたくしは……」
震える声で尋ねました。
「わたくしは、これからどうすればよいのでしょうか」
お父様は、しばらく私を見つめました。
そして、まるで他人に言うように告げました。
「好きにしろ」
その一言が、何よりも冷たかったのです。
私はお父様の執務室を飛び出して、自室へ戻りました。
これから、わたくしはどうすればよいのでしょう。
幼い頃から、王太子妃になるものとして、ずっと努力してきました。
それ以外の生き方など、考えたこともありません。
でも、この屋敷に私の居場所は、もうありません。
胸の奥が、ずきりと痛みました。
ここには、私が生まれてからずっと過ごしてきた部屋があります。
大切にしていた本も、殿下にいただいたものもありました。
けれど、それらを持っていても、もうここにいる理由はないのです。
ドレスのままでは目立ってしまいます。
わたくしは、いつも魔法の訓練で着ている動きやすい服に着替えました。
髪を簡単にまとめ、トランクに持っている宝石と、お気に入りのドレス、動きやすい服を何着か詰めました。
わたくしは机の引き出しを開けました。
そこから小さな袋を取り出します。
中には、少しばかりのお金と、最低限の身の回りのものが入っていました。
何に使うつもりで用意していたのか、自分でも覚えていません。
けれど今は、それが必要でした。
わたくしはそれをそっと服のポケットに入れました。
「……行きましょう」
誰に言うでもなく、呟きました。
部屋を見回します。
ここで過ごした十数年の思い出が、そこかしこに残っていました。
けれど、もう戻ってくることはないのでしょうね。
「……さようなら」
誰もいない部屋にそう告げて、扉を閉めました。
夜の屋敷は静まり返っていました。
使用人たちに見つからないよう、裏口から外へ出ます。
冷たい夜風が頬を撫でました。
屋敷を振り返ります。
今までのわたくしの人生は、あの場所にあったのです。
けれど――
「……もう、終わったのですね」
小さく呟いて、私は王都の夜道へと歩き出しました。
辺りは薄暗く、不気味なほど静かでした。
人通りもありません。
この先は、どうすればよいのでしょう。
住むところを探さなければなりません。
でも、どう探せばよいのでしょう。
見つかるまでは宿に泊まらなければいけません。
けれど、どうやって泊まればよいのでしょう。
今まで宿など、自分で取ったことがありません。
旅行のときだって、いつも侍女や使用人がすべて手配してくれていたのです。
「……困りました」
思わず、声が漏れました。
持っているお金があれば、しばらくは生活できるでしょう。
けれど、それがどれくらい持つのかも分かりません。
そもそも、食事はどうすればよいのでしょう。
服を洗うには?
寝る場所は?
考えれば考えるほど、分からないことばかりでした。
「……わたくし、何も知らないのですね」
今まで王太子妃になるために、たくさんのことを学んできました。
礼儀作法も、政治も、魔法も。
けれど、一人で生きていくために必要なことは、何一つ知らなかったのです。
誰かに聞いてみようか。
そう思いました。
けれど、こんな夜中に出歩いている人がいるわけがありません。
私は途方に暮れたまま、夜の街に立ち尽くしていました。
すると――
「ねえ、お姉さん」
突然、後ろから声をかけられました。
「こんな時間に、一人でどうしたの?」
振り返ると、そこには一人の女性が立っていました。
私よりずっと年上で、優しそうな顔をした方でした。
「……すみません。少し、困っていて……」
私は何をどう説明すればよいのか分からず、言葉に詰まりました。
家を出たことも。
婚約を破棄されたことも。
父に見放されたことも。
何も知らない人に話す気にはなれませんでした。
「もしかして、泊まるところがないのかい?」
「……はい」
女性は少し驚いたような顔をしたあと、すぐに優しく微笑みました。
「それなら、うちに来なさいな。こんな時間に女の子一人じゃ危ないよ」
「え……ですが……」
「遠慮しなくていいよ。うちは夫と息子と三人で暮らしてるんだ。狭い家だけど、寝る場所くらいあるから」
その言葉に、私は胸を撫で下ろしました。
「……よろしいのですか?」
「ああ。困ったときはお互い様さ」
「ありがとう存じます……!」
私は頭を下げました。
今夜初めて、人の優しさに触れた気がしました。
「ほら、こんなところに立ってないで。早く行こう」
「はい」
女性の後をついて、私は歩き出しました。
しばらくすると、王都の中心から少し離れた場所に、小さな家が見えてきました。
「ただいま」
「おかえり。……その子は?」
「夜道で一人でいたんだよ。泊まるところがないらしくてね」
「そうか。大変だったな」
家の中から出てきたのは、女性の夫らしき男性でした。
その後ろから、私と同じくらいの年頃の少年も顔を出しました。
「こんばんは」
「こんばんは」
少年も穏やかに笑いました。
「お腹空いてるんじゃないか? 夕飯、まだ残ってるぞ」
「……よろしいのですか?」
「もちろん」
そう言って、女性は私を食卓へ案内してくれました。
温かな料理が並べられます。
湯気の立つスープ。
焼きたてのパン。
簡単な料理ばかりでしたけれど、今の私には何よりもありがたいものでした。
「いただきます」
スープを一口飲みます。
「……おいしい」
「ふふ、よかった」
女性が嬉しそうに笑いました。
食事をしながら、私は初めて会ったばかりのこの家族と、いくつか言葉を交わしました。
家族で笑い合う姿を見ていると、不思議と胸の奥が温かくなりました。
こんなふうに誰かと食卓を囲んだのは、いつ以来でしょう。
公爵家にいた頃だって、食事はいつも決められた時間に、決められた場所で、一人で取ることが多かったのです。
「……ありがとう存じます」
「何度もお礼を言わなくていいよ」
女性はそう言って笑いました。
「今日はゆっくり休みなさい」
「はい……」
その夜、わたくしは久しぶりに安心して眠ることができました。
世の中には、こんなに優しい人もいるのですね。
初めて、人の温もりに触れた気がしました。
翌朝。
目を覚ますと、しばらく天井を見つめていました。
見知らぬ部屋でした。
けれど、昨日のことを思い出します。
そうです。
わたくしは家を出たのです。
そして、親切な女性に声をかけてもらって、この家に泊めてもらった。
「……お礼を言わなければ」
私は身を起こしました。
昨日の夜は、本当にありがたかった。
温かい食事を用意してもらって、眠る場所まで貸してもらった。
家族の方たちも優しかった。
こんなわたくしを受け入れてくださったのです。
だから、せめてきちんとお礼を言ってから出ていきましょう。
そう思って、部屋の隅に置いていたトランクを開きました。
「…………え?」
中身を見た瞬間、言葉を失いました。
お気に入りのドレスがありません。
宝石もありません。
昨日まで入っていたものが、ほとんどなくなっていました。
「……どうして……?」
慌ててトランクの中を探します。
けれど、どれだけ探しても出てきません。
残っていたのは、替えの動きやすい服が一着。
それと、昨日着ていた服。
そして、服のポケットに入れていた、小さな袋だけでした。
「…………」
わたくしはしばらく、その場から動けませんでした。
盗まれた。
そう考えるしかありません。
けれど
「……きっと、何かの間違いです」
そう呟いて、部屋の外へ出ました。
「すみません……」
返事がありません。
「昨日、お世話になったお礼を……」
静かでした。
あまりにも静かでした。
私は居間へ向かいました。
昨日、家族みんなで食卓を囲んだ場所です。
けれど
「…………え?」
誰もいませんでした。
昨日まで置かれていたはずの食器もありません。
ただ、そこには椅子とテーブルがあるだけでした。
部屋の中は、がらんとしていました。
「……おばさま?」
返事はありません。
「……ご主人?」
返事はありません。
「……あの、男の子……」
名前すら知りません。
昨日まで人の暮らしがあったはずの家には、何も残っていませんでした。
まるで、最初から誰も住んでいなかったかのようです。
「そんな……」
私は家の中を走り回りました。
寝室にもいません。
台所にもいません。
どこを探しても、誰もいませんでした。
玄関を開けます。
外にも、ただ、人が歩いているだけで、誰もいません。
「……どうして……?」
足元から力が抜けました。
私はその場に座り込みました。
昨日の光景が頭の中を巡ります。
温かいスープ。
優しい笑顔。
「困ったときはお互い様」と言ってくれた声。
全部、偽物だったのです。
「……わたくし、騙されたの……ですか?」
声が震えました。
本当は泣きたかった。
でも、泣くことすらできませんでした。
わたくしは、本当に何も知らなかったのです。
いくらマナーを身につけていたって、王国の歴史を知っていたって、政治について学んでいたって。
それだけでは、一人で生きていくことなどできないのです。
昨日までのわたくしは、公爵令嬢でした。
何不自由なく暮らしていました。
欲しいものがあれば、誰かが用意してくれました。
困ったことがあれば、誰かが助けてくれました。
けれど今は、
家もありません。
帰る場所もありません。
頼れる人もいません。
お金も、ほとんどありません。
持っているのは、着ていた服と替えの服が一着。
そして、ポケットの中の小さな袋だけです。
「…………」
私はその袋を強く握りしめました。
どうして。
どうして、こんなことになってしまったのでしょう。
昨日まで、私は王太子妃になるはずだったのです。
それなのに。
一晩で、何もかもなくなってしまいました。
「……帰りたい」
その言葉が、初めて口からこぼれました。
「……お屋敷に、帰りたい……」
けれど、帰ることはできません。
あそこにも、もうわたくしの居場所はないのです。
「……お父様……」
名前を呼んでも、返事をしてくださる人はいません。
わたくしは一人でした。
本当に、何も持たない一人の少女になってしまったのです。
しばらくして、わたくしはゆっくりと立ち上がろうとしました。
泣いている場合ではありません。
そう思おうとしました。
けれど、足は動きませんでした。
「……どうすれば、いいのでしょう……?」
誰もいない家の中で呟きました。
答えてくれる人は、どこにもいませんでした。
これから、最低でも週に一度は出せるように、更新していきたいと思います。できたら、毎日を目標にします
よろしくお願いします!
第1話は少し長くなりましたが、次話以降はこれの半分くらいの文量にする予定です。
次回、「歩み出し」お楽しみに!




