数値化できない距離、あるいは脇腹の警笛
結局、昨日はダンジョンに行かなかった。
結衣との気まずい別れの後、家で同田貫を磨きながら「……なんであんなに怒ってたんだ?」という自問自答を繰り返し、気づけば宿題の山を前に力尽きて寝落ちしてしまったのだ。
月曜日の朝。良太は戦々恐々としながら教室のドアを開けた。
(ヤバい……昨日の制圧、誰かに動画を撮られて掲示板に晒されてたらどうしよう。タイトルは『美髪クレープ侍』か? それとも『チョコバナナの守護神』か……!?)
顔を伏せ、極力オーラを消して席に着く。もし晒されていたら、今ごろクラス中がスマホを囲んで爆笑しているはずだ。(よく考えたら超痛いじゃん…)と昨日の夜良太は悶絶していた。
だが、数分経っても誰も話しかけてこない。陽介も赤木も、いつも通り自分のグループで騒いでいるだけだ。
「……なぁ、高橋。昨日、駅前で何か話題になってないか?」
隣の席の親友に小声で尋ねると、高橋は眼鏡をクイと上げ、タブレットの画面を閉じた。
「いいえ、特に。昨日のひったくり事件自体はニュースサイトの片隅に載っていますが、犯人を捕まえたのは『通りすがりの探索者志望の少年』とあるだけです。動画も画像も一切上がっていませんね」
「……え、マジで? 誰か撮ってなかったか?」
「現場はパニックでしょうしね。それに、あなたの髪のツヤが夕日を反射して、周囲の視界を一時的に奪った可能性もあります。皮肉にも、四条氏の『事故』が最高の目くらましになったわけです」
良太は胸を撫で下ろした。正体がバレなかった安心感。……だが、それと同時に、自分の中の「承認欲求モンスター」が少しだけ寂しそうに鳴いた。
(……そうか。誰にも撮られてなかったのか。俺のあの完璧なステップも、クレープを一口もこぼさなかった神業も、世界で俺と結衣しか知らないのか……)
「赤木氏は『最近のひったくり犯は、市民にタックルされただけで気絶するのか。情けないな』と鼻で笑っていましたよ。あなたが関わっているとは微塵も思っていないようです」
「……あいつ、相変わらずだな」
ふと視線を上げると、結衣が自分の席で教科書を広げていた。
昨日の別れ際、彼女は何かボソッと言っていた気がするが、駅や人々の騒音で全く聞こえなかった。ただ、その後あからさまに不機嫌になったことだけは覚えている。
(……やっぱり怒ってるよな。せっかくクレープ奢って、ひったくりからも守ってやったのに。女心ってやつはアイアンビートルの装甲より難解だ……)
「おはよ、結衣」
「…………おはよ」
返ってきたのは、短く、そして温度の低い挨拶だった。
(覇気がない……。やっぱり怒らせたかな。守ったつもりだったんだけど、難しいな)
結局、一言も本音を交わせないまま放課後になった。
良太は、逃げるように学校を飛び出して「はじまりの洞窟」へと向かった。
(……モヤモヤするから、全部、二層の闇の中に置いてきてやる)
受付には、例の冷徹な眼鏡の女性スタッフが座っていた。良太がF級探索者証を提示すると、彼女は良太の髪を一瞥し、事務的な声で告げた。
「……四条さん。二層の深部、今日行かれるのですね。アイアンビートルは『倒せる』だけでは足りません。……死なないように。」
「……はい」
良太は短く答え、二層への階段を下りていった。
階段を下りるたびに、甘いクレープの香りが、湿った土と獣の匂いに上書きされていく。
――ガギィィィンッ!
洞窟内に、硬質な金属音が木霊する。
アイアンビートルの突進を、良太は「筋力29」の剛腕で真っ向から受け止めていた。だが、その頭の半分は、依然として「結衣を怒らせてしまった理由」についての不毛な推測に占拠されたままだった。
……なんであんなに怒ってたんだ? 結局、俺がひったくりを捕まえるのに夢中で、あいつを放ったらかしにしたのがまずかったのか? それとも、俺が強くなりすぎて、怖がらせたのか……?)
思考が、実戦の場から日常の些細な謎へと滑り落ちる。
目の前のアイアンビートルが、弾き飛ばされた勢いを利用して、すぐさま壁を蹴った。本来の良太なら即座に反応できたはずだった。しかし、脳内に浮かんだのは、昨日の別れ際の結衣の、あの覇気のない横顔。
「あ――」
一瞬の思考の空白。それが、ダンジョンでは致命的な隙となる。
ビートルの鋭い角が、回避しようとした良太の脇腹を浅く掠めた。
「ぐっ……!?」
衝撃と共に、革の胸当てが引き裂かれる嫌な音が響いた。脇腹に焼けるような熱い痛みが走る。良太は反射的に間合いを取り、荒い息を吐きながら冷や汗を拭った。
(……クソ。何を考えてるんだ俺は。……ここは二層だぞ、一層とは訳が違うんだ!)
順調すぎるレベルアップが、どこかで自分の慢心を育てていた。一層の主すら倒したのだから、二層の魔物も敵ではないはずだ――そんな根拠のない全能感が、一瞬の油断を招いたのだ。脇腹の傷は、幸いにも浅い。だが、もしあと数センチ深ければ、内臓に達していただろう。
「……調子に乗るなよ、四条良太。お前はまだ、最強でもなんでもないんだ」
自分に言い聞かせるように呟き、良太は傷の痛みで頭を強制的に「戦場」へ引き戻した。
今度は、迷いはない。ビートルの次の突進。良太は重心を沈め、鋼の重みを一点に込めて、最短距離で突きを放った。
パキィィィン! と殻が砕ける音が響き、魔物が光の塵へと還る。
《レベルが18に上がりました》
《レベルアップボーナス:2ステータスポイントを獲得しました》
網膜に浮かぶ文字。良太は迷わず、得た2ポイントを全て『筋力』に叩き込んだ。
【筋力:29 → 31】
30の大台を突破した瞬間、腕の筋肉が脈打ち、同田貫の重量がさらに希薄になった。だが、先ほどの脇腹の傷口がズキリと疼き、その昂ぶりを冷ややかに鎮めた。
「……今日は、ここまでだ」
ゲートを抜け、地上へと戻る。
役所の出張所内にある簡易救護スペースで、良太は冷徹な眼鏡のスタッフから処意を受けていた。
「……傷は浅いですが、二層の魔物の角には雑菌が多いです。この軟膏を塗って、今日は安静にしてください」
手際よくガーゼを固定され、新しい包帯の圧迫感に良太は小さく顔をしかめた。
「……四条さん。その怪我、慢心から来るものですか? それとも、力不足からですか?」
「……両方だと思います」
良太は、絞り出すように答えた。
結衣のことで集中を乱し、慢心して傷を負った自分。
良太は、未だに不気味なほどツヤツヤと輝く自分の髪を一度だけ強く掻き上げ、ゲートを後にした。
帰り道、コンビニの棚に並ぶ「限定アイス」を見つめる。
(……結局、何も分かんねえよ。昨日だって、せっかく一緒にクレープ食ったのに。俺に分かるのは、ステータスの数値だけだ)
良太は、アイスを一つ買い、夜風が、駅前の並木を揺らす。
良太は空の手を握りしめ、沈んでいく夕日に背を向けて、家路を急いだ。
こっからはペース落としていきます!




