第74話 私は、隣に立つために
王宮に問われる言葉の場を終えた翌日、アリア・フォン・ルーヴェルトは、妙に静かな朝を迎えた。
昨夜は疲れていたはずなのに、目覚めは不思議と澄んでいた。
もちろん身体には緊張の名残がある。
王宮の年長者たちを前に、自分の意思を、自分の傷を、自分がなぜ隣へ立ちたいのかを言葉にするのは、簡単なことではなかった。
けれど、ひとつだけはっきりしている。
もう、自分の中で隠すべきものはない。
好きだから。
でも、それだけではなく。
傷を知ったまま立てる者として、責任も引き受けて隣へ行きたい。
その言葉を口にした以上、今さら曖昧な顔へ戻ることはできない。
そして、不思議なことに、それを怖いとはあまり思わなかった。
鏡の前で髪を整えながら、アリアは自分の目元を見る。
悪役令嬢と呼ばれていた頃より、きっと強くなった。
でも、冷たくなったのではない。
ただ、自分の言葉に少しだけ責任を持てるようになったのだと思う。
「お嬢様」
リナが髪飾りを整えながら、小さく言う。
「本日は、お顔が晴れていらっしゃいます」
「そう?」
「はい。……何か、ひとつ越えられた方のお顔です」
その表現がしっくりきて、アリアは少しだけ微笑んだ。
「そうかもしれないわ」
王立学園へ向かう馬車の中でも、胸の奥は不思議と静かだった。
王宮の年長者たちの前で、自分の気持ちを言葉にした。
それは、レオンハルトへ想いを返した時とはまた別の重さがあった。
恋としての答えではなく、立場としての答え。
その両方を、自分はもう切り離して考えないと決めたのだ。
正門へ着くと、いつものように視線が集まる。
けれど今日の空気は、これまでとは少し違っていた。
「王宮で何かあったらしいわ」
「昨日、年長の方々と面談があったとか」
「それで、どうだったのかしら」
「でも……ルーヴェルト様のお顔を見れば、悪い結果ではなさそう」
噂はもう回っているらしい。
王宮の奥の話ですら、この速さで学園へ届くのだから、やはり社交界と学園の距離は思っているより近い。
アリアは足を止めず、そのまま校舎へ向かう。
廊下へ入ると、遠巻きにしていた令嬢たちの視線が、探るというより確かめるものへ変わっているのが分かった。
値踏みだけではない。
何かを見直し始めている目だ。
「アリア様!」
エレノアが、いつものように駆け寄ってくる。
だが今日は、その勢いの中に明確な好奇心が混じっていた。
「おはようございます!」
「おはよう」
「昨日、王宮で……!」
言いかけて、エレノアは周囲を見回し、慌てて声を落とした。
「何か、ございましたのよね?」
アリアは少しだけ迷ったあと、素直に頷いた。
「ええ」
「やっぱり」
エレノアの目がきらりと光る。
「どうでしたの?」
それは、友人としての心配半分、読者のような興味半分の顔だった。
けれど今のアリアは、それに少しだけ笑える余裕があった。
「かなり問われたわ」
「どんなことを?」
「なぜ殿下の隣なのか、責任を分かっているのか、なぜ私なのか……そういうこと」
そこまで聞いたエレノアが、さすがに表情を引き締める。
「それは……かなり重いですわね」
「ええ」
「それで、アリア様は」
アリアは静かに息を吸った。
「私の言葉で答えたわ」
その一言に、エレノアの目が少しだけやわらかくなる。
「そうですのね」
「完璧だったとは思わない。でも、誤魔化さなかった」
それが今の自分にとって、何より大きかった。
教室へ入ると、ざわめきは一度止まり、すぐに静かな波となって戻る。
けれど今日は、以前のような露骨な探りは少なかった。
代わりに、妙に慎重な空気がある。
数人の令嬢たちが、目を合わせるなり小さく会釈した。
それは単なる礼儀以上のものに見えた。
昼休み、令嬢用サロンへ入ると、その変化はさらに分かりやすかった。
いつもなら何かしら遠回しな探りが飛んでくる。
だが今日は、まず一人の侯爵令嬢が、明らかにいつもと違う態度で近づいてきた。
「ルーヴェルト様」
「何でしょう」
「昨日の件……お疲れさまでした」
その言葉に、アリアは一瞬だけ目を瞬いた。
お疲れさまでした。
それは探りでも嫉妬でもなく、評価に近い言葉だった。
「ありがとうございます」
静かに返すと、令嬢は少しだけ頬を染めたように目を伏せる。
「わたくし、少し前まで、ルーヴェルト様はただ殿下に庇われているだけなのかと……思っておりました」
正直な物言いだ。
周囲の空気が少し張る。
だが、アリアはその続きを待った。
「でも今は……違うのだと分かりました」
短い一言。
けれど、それは十分だった。
ただ庇われているだけではない。
その見方が、少しずつ崩れている。
別の席から、ルヴァリエ侯爵夫人の姪だという令嬢が声をかけてくる。
「伯母が申しておりましたの。ルーヴェルト様は、思ったよりずっと“立つ言葉”をお持ちだと」
今度こそ、サロンの空気がはっきり変わった。
ルヴァリエ侯爵夫人。
王宮内でそれなりに影響力を持つ年長の貴婦人の名が出れば、周囲の令嬢たちは意味を理解する。
つまり、王宮の中で一定の評価を得たということだ。
その瞬間、少し離れた席にいた数人の令嬢たちが、明らかに表情を固くした。
嫉妬。
焦り。
そして、今までの見下しが通じなくなりつつあることへの戸惑い。
ざまぁ、とまではいかない。
けれど、胸の奥が少しだけすっとするのを、アリアは否定できなかった。
「……見方が変わり始めていますわね」
席へ戻ったあと、エレノアが小さく言う。
「ええ」
「昨日まで“皇太子殿下に選ばれた令嬢”だったのが、今日は“自分でその場所へ行く令嬢”へ変わりつつあります」
その言葉が、ひどくしっくりきた。
そうだ。
そこが違うのだ。
誰かに庇われて、押し上げられたのではない。
怖くても、自分で隣へ立つと言った。
昨日の言葉は、ようやくそこを王宮の側へ示したのだ。
その日の放課後、王宮からの呼び出しが届いた時、アリアはもう以前ほど身構えなかった。
小会議室へ入ると、レオンハルトはいつものように机の前に立っていた。
だが、その視線がアリアを捉えた瞬間、ごくわずかにやわらいだ気がした。
「来たか」
「はい」
「今日は、学園の空気も違っただろう」
問いではなく確認。
それが何だか可笑しくて、アリアは少しだけ口元を緩めた。
「ええ。かなり」
「どう変わった」
アリアは今日あったことをかいつまんで話した。
王宮の年長者の言葉が、学園の令嬢たちの見方に影響し始めていること。
“ただ庇われている娘”ではないと言われたこと。
そして、少しだけ空気が変わったことを。
レオンハルトは最後まで黙って聞き、やがて短く頷いた。
「当然だ」
その一言が、いかにも彼らしい。
「王宮の評価が動けば、外も動く」
「ええ。……でも」
アリアは少しだけ目を伏せてから、続けた。
「嬉しかったです」
「何が」
「私が、ただ選ばれたからそこにいるのではないと、少しでも見てもらえたことが」
その本音に、レオンハルトはしばらく何も言わなかった。
それから、低く、しかしはっきりと告げる。
「君は、隣に立つために動いた」
アリアは顔を上げる。
「だから評価が変わるのは当然だ」
その言葉が、胸の奥に深く落ちた。
隣に立つために。
そうだ。
自分はもう、ただ恋をして夢を見ているだけの令嬢ではない。
その場所に見合うように、自分で歩いてきたのだ。
「私は」
アリアは、静かに言った。
「殿下の隣にいるために、自分を変えたかったわけではありません」
「知っている」
「でも、隣に立つために、立ち方は変えました」
自分でも驚くほど、その言葉は自然に出てきた。
悪役令嬢と断じられた時、立ち方すら分からなくなっていた。
婚約を切られた時は、ただ傷ついて立ち尽くした。
けれど今は違う。
自分で立ち方を選び、自分で隣を選ぶ。
それが、今の自分なのだ。
「それでいい」
レオンハルトの返答は短い。
だが、だからこそ揺るがない。
「私は、隣に立つためにここへ来ました」
アリアはもう一度、今度ははっきりと言った。
「ただ好きだからだけではなく」
「ええ」
「ただ選ばれたからでもなく」
「ええ」
「私は、自分でその場所へ行くために」
その言葉を聞いた時、レオンハルトの瞳の奥に、ごく小さく、しかし明確な熱が灯る。
「なら、もう十分だ」
そう言って彼は、机越しではなくまっすぐ一歩近づいた。
以前なら、その一歩にひどく鼓動が乱れた。
今も胸は鳴る。
けれど、もう逃げたいとは思わない。
「殿下」
「何だ」
「昨日より、少しだけ分かりました」
「何を」
「私があなたの隣にいる理由を」
アリアは静かに微笑んだ。
「私は、隣に立つためにここまで来たのですね」
レオンハルトは一瞬だけ目を細め、そして低く言った。
「そうだ」
その肯定が、今のアリアには何より強かった。




