第49話 その手を取った翌朝
翌朝、アリア・フォン・ルーヴェルトは目を覚ました瞬間、胸の奥に残る熱で、自分がもう昨日までとは違う場所へ来てしまったのだと知った。
夢ではない。
王宮の大広間。
大勢の視線。
差し出された手。
そして、自分の意志でそれを取った瞬間。
あれは全部、夢ではなく現実だった。
天蓋の向こうから差し込む朝の光はいつも通りやわらかい。鳥の声も、窓の外の庭師が枝を払う音も、屋敷の朝の気配も、何一つ変わらない。なのに、自分の中だけが大きく変わっていた。
悪役令嬢と呼ばれ、婚約破棄を宣言され、どこにも行き場がないと思った日々を越えた先で、今度は“自分の意志で皇太子の隣を選んだ令嬢”になった。
その事実は、思っていた以上に重い。
けれど同時に、思っていた以上に静かな充足もある。
「……本当に、取ってしまったのね」
誰に聞かせるでもない小さな呟きが、朝の静かな部屋に落ちた。
迷いがなかったわけではない。
怖さが消えていたわけでもない。
それでも、自分は手を取った。
選ばれるだけでは終わりたくなかったから。
自分で選びたかったから。
そして何より――あの人の隣へ行きたかったから。
そこまで思い至った瞬間、頬が少し熱くなる。
侍女のリナが部屋へ入ってきたのは、ちょうどその時だった。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう」
リナは普段よりずっと抑えた声で挨拶しながらも、目元には明らかな高揚がにじんでいた。たぶん、昨夜の出来事はもう屋敷中に広がっているのだろう。もちろん皆が言葉にするわけではない。けれど、誰もが知っているはずだ。
お嬢様が、王宮の公の場で、第一皇太子殿下の差し出した手を取った。
それが何を意味するのか、ルーヴェルト公爵家の使用人に分からぬ者はいない。
「本日は、少し早めに学園へ向かわれますか?」
身支度を整えながら、リナが慎重に尋ねる。
「どうして?」
「本日は……たぶん、普段以上に視線を集めるかと」
やはり、とアリアは思う。
そうだろう。
昨夜のことは、たった一晩で王都中へ広がっていてもおかしくない。
今日の学園は、どんな空気になるのか想像するだけで少し胃が重くなる。
けれど、逃げるわけにはいかない。
「いいえ。いつも通りでいいわ」
「かしこまりました」
リナはそれ以上何も言わなかった。だが、その返答にはどこかほっとしたような色があった。
朝食の席へ行くと、クラウディアはすでに座っていた。
公爵夫人としていつもと変わらぬ姿だが、その視線には昨夜までとは違う静かな確認があった。
「おはようございます、お母様」
「おはよう、アリア」
席につく。給仕が朝食を整える。銀器の触れ合う音がやけに澄んで聞こえた。
「眠れた?」
クラウディアが最初にそう訊いた。
アリアは少し考えてから答える。
「……あまり、深くは」
「でしょうね」
母の返しは落ち着いていた。叱るでも、心配を大仰に示すでもない。ただ当然だと言うように。
「後悔している?」
その問いはまっすぐだった。
アリアは目を伏せる。
昨夜から何度も自分へ問い直してきたことだ。
怖かった。今も怖い。
けれど。
「いいえ」
答えは、思っていた以上にはっきり出た。
「後悔はしておりません」
クラウディアはそれを聞いて、ほんのわずかに表情を和らげた。
「なら、それでいいわ」
短い言葉だった。
だが、その一言に多くが込められているのが分かる。
あなたが自分で選んだのなら、それを支える。
そういう母の意思だ。
「ただし」
クラウディアは続ける。
「今日からは、周囲の見る目がまた変わるわ」
「ええ」
「好意的なものだけではない。祝福、嫉妬、計算、敵意、全部が増すでしょう」
「分かっています」
「本当に?」
問い返され、アリアは小さく息を吐いた。
「分かっているつもりです。でも、たぶん実際に浴びるとまた違うのでしょうね」
クラウディアは頷く。
「そうね。けれどもう、“どう見られるか”だけに振り回される必要はない」
その言葉に、アリアは顔を上げた。
「あなたは昨夜、初めて“誰かに与えられた役”ではなく“自分で選んだ立場”に立ったのだから」
胸の奥が、静かに熱を持つ。
悪役令嬢という役。
婚約者という役。
元婚約者という役。
それらは全部、周囲が勝手に与えたものだった。
だが昨夜は違う。
自分で選んだ。
その違いは、想像以上に大きい。
学園へ向かう馬車の中、アリアはずっと窓の外を見ていた。
王都の朝は静かで、どこか何事もなかったような顔をしている。だがその静けさの下で、もういくつもの噂が走っているのだろう。昨夜のことは、今ごろ令嬢たちの朝食の席でも、貴婦人たちの居間でも、使用人たちの間でも語られているに違いない。
“ついに決まった”
“まだ正式ではない”
“それでも、あれはもう同じことだ”
そんな声が、まだ聞こえないうちから耳の奥に残響している気がした。
正門へ着くと、その予感は一瞬で現実になった。
馬車が止まり、扉が開いた瞬間、周囲の空気が明らかに変わる。
それはもう、ここ最近の“見られている”とは比べものにならないほど露骨だった。
「いらした……」
「本当に……」
「昨夜のこと、やっぱり……」
「ご自分で手を取られたのよね?」
「皇太子殿下の隣を、あの方が……」
囁きが波のように広がる。
アリアは深く息を吸い、顔を上げたまま歩き出した。
心臓はうるさいほど鳴っている。
けれど、足は止まらない。
自分で選んだのだ。
ならば今日のこの視線も、自分で受けるしかない。
校舎へ入ると、今度はざわめきがあからさまに止まる。
廊下で話していた令嬢たちが口を閉じる。
男子生徒たちまで、いつもより妙に静かだ。
その沈黙の中を歩いていると、不意に背後から勢いのある声が飛んできた。
「アリア様!」
振り向くと、エレノアが半ば駆けるようにやってくる。
彼女はいつも以上に頬を紅潮させ、目を輝かせていた。
「おはようございます!」
「おはよう。……朝から元気ね」
「元気にもなりますわ! 昨夜のこと、学園中が大騒ぎですもの!」
声を潜めているつもりなのだろうが、少しも潜まっていない。
その勢いに、アリアは思わず口元を緩めそうになる。
「そうでしょうね」
「そうでしょうね、ではありませんわ! 皆様、もう完全に“次”だと思っていらっしゃるのです!」
「……言い方を選んでちょうだい」
「今さらです」
エレノアはきっぱりと言い切ったあと、少しだけ真顔になった。
「でも、本当に大丈夫ですの?」
その一言で、彼女がただ面白がっているわけではないのだと分かる。
「怖くないわけではないわ」
正直にそう言うと、エレノアはやわらかく頷いた。
「それでいいと思います」
「そう?」
「ええ。怖くても、行くと決めたのでしょう?」
アリアは小さく息を吐く。
「ええ」
「でしたら、それが答えですわ」
そのまま二人で教室へ入る。
扉が開いた瞬間、今度こそ教室のざわめきが完全に止まった。
何十もの視線が一斉にこちらへ向く。
以前なら、その視線に押し潰されそうになった。
悪役令嬢として見られていた頃は、視線の中に断罪があった。
今は違う。
今は、期待と嫉妬と戸惑いが入り混じった重い熱だ。
それでも、ただ一つ救いがあった。
もう自分は、周囲の物語の中で勝手に役を与えられるだけの存在ではない。
少なくとも、自分ではそう思っていられる。
席へ着くと、普段なら遠巻きにしていた令嬢たちが、今日はさすがに黙っていられないらしい。すぐに数人が近づいてくる。
「ルーヴェルト様……」
「昨夜のこと、おめでとうございます、でよろしいのかしら」
「本当に、その……」
皆、言葉の置き場に困っている。
祝福したいのか、探りたいのか、自分でも分からないのだろう。
「ありがとうございます」
アリアは静かに答える。
それ以上は言わない。
すると彼女たちは少し拍子抜けしたような顔をして、それでもどこか安心したように会釈して散っていく。
「本当に変わりましたわね、アリア様」
エレノアが小さく呟く。
「何が?」
「前なら、もっと“どう返せばいいか”と考えすぎていたでしょう?」
そう言われて、アリアは少しだけ考えた。
たしかにそうかもしれない。
今も何も考えていないわけではない。
けれど、以前のように“相手がどう受け取るか”ばかりを優先して、自分の軸を見失う感じは薄れていた。
「……少しだけ、慣れたのかもしれないわ」
「視線に?」
「自分で選んだ結果を受けることに」
その言葉を口にすると、エレノアが少しだけ目を見開き、やがてふわりと笑った。
「でしたら、もう大丈夫ですわ」
一時間目が始まり、授業が進んでいく。
けれど教師までもがどこか落ち着かない。
形式上はいつも通りでも、教室の空気が“ルーヴェルト嬢をどう扱うべきか”を測り直しているのが分かる。
そんな中、アリアはふと窓の外へ目を向けた。
空はよく晴れている。
風も穏やかだ。
何も特別ではない朝のようでいて、もう戻れない朝でもある。
昨日までは、“もしかするとそうなるかもしれない”だった。
今日からは、“自分でそうすると選んだ”になる。
その差は大きい。
昼休み前の短い休み時間、教室の外がざわついた。
何事かと思って顔を上げると、廊下の先に見慣れた濃紺の礼装が見えた。
レオンハルトだった。
その姿を見つけた瞬間、教室の空気がぴんと張る。
王宮での出来事の翌朝に、第一皇太子が学園へ現れる。
それだけでも十分に意味がある。
レオンハルトは廊下のざわめきなど意に介さず、まっすぐ教室の前まで来た。
教師が慌てて立ち上がる。
生徒たちは呼吸すら潜めている。
そして彼は、扉のところで静かにアリアへ視線を向けた。
「少し、来い」
ただそれだけ。
けれど、その一言に教室中の空気が揺れた。
昨日の出来事に、今日のこの呼び出し。
周囲にとっては、もう答え合わせに近いのだろう。
アリアは立ち上がる。
胸はやはり鳴っている。
けれど、もうそれを隠そうとは思わなかった。
「はい」
廊下へ出ると、レオンハルトは一瞬だけアリアの顔を見て、それから低く言った。
「朝からひどく見られただろう」
問いではなく、確認だった。
「ええ。かなり」
「それでも来たな」
「自分で選びましたから」
そう答えると、レオンハルトの目がほんのわずかにやわらいだ。
「そうだな」
短いやり取り。
けれど、今のアリアにはそれで十分だった。
昨日の一歩は、夢ではなく現実だった。
そして今日、その現実を自分の足で歩いている。
その手応えが、確かに胸の中へ残っていた。




