第41話 皇太子妃候補の覚悟
夜になっても、昼間の回廊で交わされた言葉は、アリア・フォン・ルーヴェルトの胸の奥から消えなかった。
――傷があることと、立てないことは別だ。
――忘れるな。
レオンハルトの声はいつも低く静かだ。だからこそ、一度胸へ落ちた言葉は、妙に長く残る。
ルーヴェルト公爵家の自室へ戻り、髪をほどき、窓辺へ立っても、その余韻は薄れなかった。夜風が薄いレースのカーテンを揺らし、遠くで王都の灯が瞬いている。春の終わりの空気は穏やかなのに、自分の内側だけが少しずつ形を変えていくようだった。
これまでの自分は、ただ“耐える”ことで精一杯だった。
悪役令嬢の汚名を着せられた時は、濡れ衣を否定するだけで精一杯。
婚約破棄を言い渡された時は、泣かずに立っているだけで精一杯。
名誉が戻り始めたあとも、ただ周囲の手のひら返しを受け止めるだけで精一杯だった。
けれど今は、そこから一歩先を考えなければならないところへ来ている。
皇太子妃候補。
誰もまだ正式には口にしていない。
それでも、社交界も学園も、もうそういう目で自分を見始めている。
ならば問われるのは、ただ選ばれるかどうかではない。
自分が、その場所へ立つ覚悟を持てるのかどうかだ。
翌朝、朝食の席でクラウディアが娘の顔を見て、すぐに異変に気づいた。
「昨夜、よく眠れなかったのね」
「少し、考え事をしておりました」
「皇太子殿下のこと?」
あまりにもまっすぐに言われて、アリアは一瞬だけ返答に詰まった。
「……それも、あります」
クラウディアは紅茶のカップを静かに置く。
「他にもある顔だわ」
「私がもし、本当にそのような立場を考えるなら……何が必要なのだろうと」
言葉にして初めて、自分がどれだけ真面目にそこを考え始めているのかが分かる。
母は少しだけ目を細めた。
「ようやく、そこまで来たのね」
「お母様は、反対なさいますか」
「反対も賛成もしないわ」
即答だった。
「それは、家のために選ぶ話ではなく、あなた自身がどう立ちたいかの話だから」
アリアは息を呑む。
家のためではなく、自分自身の話。
少し前までの母なら、もっと現実的な損得から入ったかもしれない。
だが今、クラウディアはそこを娘へ返してくる。
「皇太子妃という立場は、ただ愛されれば務まるものではないわ」
「はい」
「傷ついた経験も、噂に晒された経験も、使い方次第では強みになる」
「強み、ですか」
「ええ。何も知らずに守られて育った女より、踏みにじられても立ち上がる術を知った女の方が、王宮では強いこともある」
その言葉は、アリアの胸を深く打った。
傷は、隠すべきものだと思っていた。
婚約破棄も、悪役令嬢の汚名も、消せるなら消したい過去だと思っていた。
だが、母はそれを違う角度から言う。
踏みにじられても立ち上がる術を知った女。
それが、自分なのだろうか。
「でも」
アリアは小さく言った。
「私はまだ、あの方の隣に立つに相応しいのか、自信がありません」
クラウディアはすぐには答えなかった。
少しだけ娘を見つめ、それから静かに告げる。
「相応しいかどうかは、先に決まっているものではないわ」
「え?」
「立つと決めて、そこから自分を作るのよ」
その一言に、アリアの中で何かが大きく揺れた。
相応しいから立つのではない。
立つと決めて、そこへ届くように自分を作る。
それは厳しい言葉だ。だが同時に、どこか救いでもあった。
最初から完璧である必要はない。
ただ、その場に立つ覚悟だけは自分で決めろということなのだから。
学園へ向かう馬車の中、アリアはずっとその言葉を考えていた。
立つと決めて、自分を作る。
それはきっと怖い。
簡単ではない。
けれど、少なくとも“選ばれるかどうかを待つだけ”ではない。
自分の意志が入る。
そこが大きい。
昼休み前、レオンハルトから短い伝言が届いた。
『放課後、来い』
相変わらず簡潔で、余計な言葉がない。
けれど、それを見ただけでアリアの胸は少しだけ落ち着いた。
考えていたことを、聞いてみたいと思ったからだ。
放課後、小会議室へ入ると、レオンハルトは机上の書類から顔を上げた。
「来たか」
「はい」
アリアは席へ着く前に、一つ深呼吸をした。
今日の自分は、少しだけ違う問いを持ってここへ来ている。
「何かあったな」
やはり、すぐに見抜かれる。
「……ええ」
「言え」
命令のようでいて、不思議と急かす響きではない。
アリアは少しだけ目を伏せ、それから顔を上げた。
「もし、私が本当に殿下の隣へ立つことを考えるなら」
その言葉だけで、室内の空気がわずかに変わる。
「今のままでは足りないと思うのです」
レオンハルトは黙っている。
だが、その沈黙は“続けろ”と言っていた。
「私は今まで、立場に振り回される側でした。悪役令嬢にもされましたし、元婚約者として値踏みもされました。けれど、もしあの方の隣に立つなら、今度はそういう目を受けるだけではいけない気がするのです」
そこまで言って、アリアは自分の指先を見つめた。
「何が必要なのか、まだ全部は分かりません。でも……ただ守られるだけのままでは、嫌なのです」
静かな沈黙。
やがてレオンハルトが口を開く。
「いい考えだ」
あまりにもすんなり肯定されて、アリアは一瞬だけ目を瞬いた。
「否定なさらないのですか」
「なぜ否定する」
「……もっと、まずは気にするなとか、焦るなとか言われるかと」
「焦る必要はない」
レオンハルトは言う。
「だが、考えること自体は必要だ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「王宮で必要なのは、従順さだけではない」
彼は淡々と続けた。
「立場の重さを理解し、自分の足で立てることだ。そうでなければ、いずれ周囲に食い破られる」
昼間、母も似たようなことを言っていた。
立つと決めて、自分を作る。
この人はもっと実務的な言い方をするが、本質は同じだ。
「では私は……何をすべきでしょうか」
問いかけると、レオンハルトは少しだけ考えるように視線を落とした。
「まず、自分が何を恐れているかを明確にしろ」
アリアは黙って聞く。
「社交界か。王宮か。皇太子妃という言葉か。あるいは私自身か」
最後の一つに、アリアの心臓がひとつ強く鳴った。
あるいは私自身か。
ずるい問いだと思う。
だが、そこを避けては通れないことも分かっている。
「……全部、少しずつ怖いです」
正直に言うと、レオンハルトはわずかに目を細めた。
「それでいい」
「いいのですか」
「怖くない方が危うい」
その返答は、この人らしい。
強がりや無謀を良しとしない。
むしろ、怖さを知った上で進めと言う。
「次に必要なのは」
レオンハルトは続ける。
「君が、隣へ立つとして何を守りたいのかを決めることだ」
守りたいもの。
その言葉は、アリアの胸へまっすぐ落ちた。
名誉。
家。
矜持。
それとも、彼の隣でしか見えない何か。
まだ答えは出ない。
だが、その問いを持つこと自体が、もう以前の自分とは違うのだと分かる。
「……考えます」
ようやくそう言うと、レオンハルトは短く頷いた。
「考えろ」
そして、一拍置いてから静かに付け足した。
「その上でなお来るなら、私は拒まない」
胸の奥が、ひどく静かに揺れた。
拒まない。
それは、来るなら受け止めるということだ。
まだ急かしはしない。
だが、門は閉じない。
それが嬉しくて、怖くて、どうしようもなくあたたかい。
アリアは小さく息を吸い、それからゆっくり吐いた。
皇太子妃候補の覚悟。
それは、まだ自分の手に完全には馴染んでいない。
けれど、少なくとも今日、自分はその輪郭を初めて見た気がした。




