第26話 崩れた“可哀想な少女”
審問が一旦終わったあとも、関係者だけはそのまま小講堂へ残された。
教師たちは別室で簡単な協議をしているらしく、室内には奇妙な静けさが落ちていた。外では授業を終えた生徒たちが帰り始めているのだろう。遠くの廊下から微かな足音が響いてくる。
アリアは席に座ったまま、指先を静かに重ねていた。
終わっていない。
まだ何も決着していない。
それは分かっている。
けれど、それでも今この場には、夜会のあの日とは決定的に違う空気があった。
自分だけが裁かれる空気ではない。
皆がそれぞれ、自分の立場と矛盾へ押し返されている。
ベアトリスは扇を開くことすらせず、固い顔で前を向いている。
セドリックは沈黙したまま、何かを考えるように目を伏せている。
そしてミレイユは――今にも壊れそうだった。
青白い頬。細く震える肩。膝の上で絡められた指先は、もう限界まで強く組まれている。
その姿を見て、アリアの胸に浮かぶのは勝利感ではなかった。
ただ、もう持ち堪えられないのだろうという、冷たい予感だけだった。
その予感は、そう長くは外れなかった。
別室から教師たちが戻り、席へついた直後だった。学年主任が穏やかながらもきっぱりした声音で告げる。
「本日の時点で、ルーヴェルト嬢への疑いについては、かなり慎重に見直す必要があると判断します」
その一言が落ちた瞬間、ミレイユが息を呑んだ。
皆が一斉にそちらを見る。
学年主任は続けた。
「特に脅迫状と証言の一部については、人為的な誘導と偽装の疑いが強く――」
「違う……!」
突然、ミレイユが叫んだ。
その声は、今までのか細い泣き声ではなかった。
張り詰めた糸が切れたような、ひび割れた悲鳴に近い。
小講堂が凍りつく。
「ローゼン嬢?」
教師が戸惑いの声を上げるが、ミレイユはもう止まらなかった。
「違うんです、私だけじゃない……! 私だけが悪いみたいに、そんなの……そんなの違う……!」
その言葉に、ベアトリスの顔色が一気に変わる。
「ローゼンさん、落ち着いて」
「落ち着けるわけないじゃない!」
ミレイユがベアトリスへ向かって叫んだ瞬間、空気が決定的に変わった。
今までならありえなかったことだ。
守られる側の“可哀想な少女”は、こんなふうに感情をむき出しにして誰かを責めたりしない。
その枠が、今まさに壊れたのだ。
「あなたが大丈夫だって言ったのに……!」
ミレイユの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。だがそれは、今までの“美しい涙”ではなかった。焦りと怒りと恐怖が入り混じった、生々しい涙だった。
「少しだけ我慢してくれればいいって……。あの人は冷たく見えるから、みんな信じるって……。だから平気だって……!」
アリアは息を呑む。
ついに出た。
決定的な言葉が。
しかも、こんなにも剥き出しの形で。
ベアトリスが立ち上がりかける。
「何をおっしゃっているの、ローゼンさん! わたくし、そんなこと――」
「言ったでしょう! 私が少しくらい泣いても、あの人は損しないって!」
小講堂の中に、重い静寂が落ちた。
教師たちですら、すぐには声を挟めない。
あまりにも生々しい暴露だった。
少しくらい泣いても。
あの人は損しない。
冷たく見えるから、みんな信じる。
それはつまり、アリアが“悪役に見える”こと自体を、最初から利用していたということだ。
アリアは椅子に座ったまま、その場から動けなかった。
自分の痛みが、こうも軽い言葉で処理されていたことに、怒りがないわけではない。
けれど、それ以上にひどく空しかった。
自分が悩み、傷つき、眠れずにいた時間の裏で、誰かは“少しくらい”という言葉でそれを計っていたのだ。
ミレイユはもう、自分が何を言っているのか半分も分かっていないようだった。
「私は……私はただ……ここで居場所がほしかっただけなのに……! 皆に優しくしてほしかっただけなのに……!」
その叫びは、同情を誘うものではなくなっていた。
むしろ、自分の欲しさのために誰かを利用してしまった者の告白に近い。
ベアトリスが歯を食いしばる。
「あなたが勝手に――」
「勝手にじゃない!」
再び怒鳴るミレイユの声に、教師たちがついに立ち上がる。
「落ち着きなさい、ローゼン嬢」
「ベアトリス嬢も席についてください」
けれど、もう遅かった。
可哀想で儚い少女の仮面は、完全に崩れていた。
そして一度崩れた以上、もう元には戻せない。
アリアはその光景を見つめながら、自分の胸の内に浮かぶ感情の正体を探していた。
怒り。
もちろんある。
悔しさ。
それもある。
だが、それだけではない。
目の前にいるミレイユは、今や自分を陥れた敵である以前に、自分が作った虚構の中で溺れかけている人間に見えた。
可哀想だ、と思ってしまう自分がいる。
そのことに気づいて、アリアは少し驚いた。
ここまでされた相手を哀れむ必要などない。
それでも、思ってしまったのだ。
「ルーヴェルト嬢」
不意に、学年主任がこちらを見た。
それは問いではない。
けれど、その視線には“あなたはどう感じているのか”という色があった。
アリアはゆっくりと立ち上がった。
皆の目が集まる。
ほんの少し前までなら、それだけで心臓が凍りついた。
けれど今は違う。
もう、自分だけが裁かれる場ではない。
「……私は」
静かな声で、アリアは言う。
「ローゼンさんを許せるかと問われれば、今はまだ無理です」
ミレイユが涙に濡れた目でこちらを見る。
「ですが」
アリアは一度だけ息を整えた。
「こうなる前に、誰かが止めることもできたのだと思っています」
その言葉に、小講堂の空気がまた静かに揺れた。
「彼女一人で出来ることではなかった。彼女自身もまた、自分に都合のいい物語へ飲まれたのでしょう」
ベアトリスの顔が強張る。
セドリックは目を上げ、アリアを見ている。
教師たちは黙って聞いていた。
「それでも、だからといって、私にされたことが軽くなるわけではありません」
そこだけは、はっきり言った。
「私は傷つきました。名誉も、立場も、信じていたものも失いました」
自分の口でそう言葉にするのは、思っていたより難しかった。
だが、言わなければならないと思った。
痛かったのだと。
何もかも平気だったわけではないのだと。
それを、自分の口で認める必要がある。
「だから、もう二度と、誰かを“少しくらい”で踏みにじるようなことが許されてはいけないと思います」
言い切ったあと、アリアは静かに席へ戻った。
胸は激しく打っていた。
だが、奇妙なほど晴れていた。
ミレイユはそこでとうとう泣き崩れた。
今度の涙は、もう誰かの同情を集めるためのものではなかった。
すべてが壊れたことを知ってしまった者の、どうしようもない涙だった。
ベアトリスが何か言い返そうとする。
けれど教師たちがそれを制し、記録係は無言で筆を走らせ続ける。
もう、物語は戻らない。
“可哀想な少女”は崩れた。
“悪役令嬢”もまた、ここで剥がれ始めている。
小講堂の高窓から差し込む夕方の光が、埃の舞う空気を金色に照らしていた。
その光の中で、アリアはようやく、自分を縛っていた鎖のひとつが確かに外れたのを感じていた。




