第2話 取り繕われた被害者
その日の一時間目が始まるまでの教室は、ひどく息苦しかった。
窓の外では春の終わりを告げるようなやわらかな陽光が庭園を照らし、噴水の水は何事もないようにきらめいている。けれど教室の中に満ちている空気は、あまりにも不穏で、妙に湿っていた。
誰も大声では何も言わない。
だが、誰もが何かを言いたくてたまらない顔をしている。
その中心にいるのが自分だということを、アリア・フォン・ルーヴェルトは痛いほど理解していた。
教室の入口近くでは、床に落ちた教本を女子生徒の一人が拾い上げ、ミレイユ・ローゼンへ手渡している。ミレイユは涙をこらえるように唇を噛みしめ、何度も「大丈夫です」と首を振っていたが、その声はまるで大丈夫ではない者のそれだった。
「本当に何でもないの?」
「顔色が悪いわ」
「保健室へ行った方が……」
優しい声が次々とかけられる。
対してアリアの方には、明確な非難こそ飛んでこないものの、刺すような視線だけが集まっていた。
エレノアが心配そうにアリアを見た。
「アリア様……」
「私は何もしていないわ」
その一言は、自分でも驚くほど平坦な声になった。
感情を乗せれば負ける。
そんな根拠のない確信だけが、今のアリアを支えている。
だが、その言葉を聞いた何人かの生徒の表情がわずかに強張った。まるで「何もしていないと主張するには、あまりにも冷たい言い方だ」とでも思ったように。
アリアはその変化を見逃さなかった。
――違うのに。
喉元まで出かかった言葉を呑み込む。
違う。冷たくしたいのではない。ただ、これ以上取り乱したくないだけだ。狼狽えれば、責められている側ではなく、追い詰められた加害者のように見える気がした。
そんなふうに考えてしまう時点で、すでに自分は不利なのだと悟る。
やがて担当教師が教室へ入ってきて、ざわめきは一応おさまった。だが、完全に消えたわけではない。人は口を閉じていても、視線だけで十分に噂を育てることができる。
一時間目の講義中、アリアは一度も顔を上げなかった。
目の前の教本に視線を落とし、板書を写し、必要な部分に印をつける。それはいつも通りの動作のはずだったが、今日は一つひとつが妙に重い。
前方の席に座るミレイユは、教師に指名されてもか細い声でしか答えず、そのたび周囲からは心配そうな視線が向けられる。先ほどの出来事が影を落としているのは明らかだった。
それなのに、教師はアリアに何も言わない。
問いたださず、注意もせず、ただ何も見なかったふりをして授業を進めていく。
それがかえって不気味だった。
もし露骨に責められるのなら、まだ反論の余地がある。だが、誰もはっきりとは口にしないまま「そういうことなのだろう」と空気だけが出来上がっていくのは、もっと厄介だ。
授業の終わりを告げる鐘が鳴ったとき、アリアは小さく息を吐いた。
ひとつ終わった。
だが、それで何かが軽くなるわけではない。
休憩時間になると、教室の隅ではすぐに小さな輪がいくつもできた。話題はもちろん先ほどの件だろう。わざと聞こえよがしに囁く者はいないが、ちらちらとこちらをうかがう目が鬱陶しいほど多い。
「……こういうとき、何をしても裏目に出るのよね」
アリアが小さく呟くと、隣の席へ腰を下ろしたエレノアが苦い顔をした。
「今日は特に酷いですわ。皆さん、面白がっていらっしゃる」
「面白がっているだけなら、まだいいわ。正義ぶって誰かを責めるよりは」
「それ、まったく慰めになっていません」
エレノアは頬を膨らませ、それから少しだけ声を落とした。
「……でも、本当に何もなかったのですよね?」
「当たり前でしょう」
「ええ、分かっています。分かっていますけれど……状況だけ見ると、あまりにも」
あまりにも、出来すぎている。
言外にそう告げる友人に、アリアも同じことを思っていた。
ミレイユのあの怯え方は、偶然にしては過剰すぎた。まるでアリアを見た瞬間に恐怖を思い出したかのような、いや、もっと正確に言えば――周囲にそう思わせるための反応だったようにも見える。
だが、そんなことは証明できない。
相手が本当に怯えているのか、演技なのか。それを見抜く術は、少なくともこの場にはない。
そして多くの人は、涙を流す側を信じる。
「アリア様」
不意に、教室の前方から控えめな声がした。
見ると、ミレイユが立っていた。
教本を胸元で抱きしめるように持ち、こちらを見ている。その顔にはまだ不安の色が残っていたが、先ほどのように取り乱してはいない。むしろ、勇気を振り絞って話しかけようとしているように見えた。
教室中の空気がぴんと張る。
誰もが「次に何が起こるのか」を見たがっているのが分かる。
「……何かしら」
アリアは席を立たずに答えた。
ミレイユは一瞬びくりとしたように見えたが、すぐに小さく首を振った。
「あの、先ほどは……すみませんでした。私、少し驚いてしまって……」
その言葉は一見すると謝罪だった。
だが、その声の震え方、その怯えを滲ませた瞳、その場に漂う妙な間――それらすべてが、「謝罪」よりもむしろ「私は怖かったのです」と周囲へ訴える材料になっている。
アリアはそれを理解して、胸の奥が冷えた。
「そう」
「ですから、その……私、ルーヴェルト様を困らせるつもりはなくて……」
「困っているのは、あなたの方ではなくて?」
思わずそう返してしまってから、アリアはほんのわずかに後悔した。
言い方がきつかった。
だが、ミレイユは目を見開き、今にも泣きそうに唇を震わせた。
「ち、違います……! そんなつもりじゃ……」
周囲から、ひそやかな息を呑む音が聞こえた。
ああ、駄目だ、とアリアは思う。
何を言っても、どう言っても、この少女は傷ついたように見えてしまう。そしてその対面に立つ自分は、何もしていなくても冷酷に映る。
これではまるで、最初から勝敗が決まっている芝居だ。
「ミレイユさん」
エレノアが横から穏やかに口を挟んだ。
「アリア様は、あなたを責めているわけではありませんわ。ただ、今の状況ではお互いに言葉を交わさない方がよろしいのではなくて?」
それは十分に配慮のある助け舟だった。
だが、ミレイユはぎこちなくうなずきながらも、なぜか更にしゅんと肩を落としてしまう。
「……はい。ごめんなさい」
そう言って踵を返すその姿は、まるで自分が追い払われた被害者であるかのように見えた。
何人かの女子生徒がすぐに彼女のもとへ寄っていく。
「気にしないで」
「あなたは悪くないわ」
「無理しなくていいのよ」
優しい言葉が次々にミレイユへ降り注ぎ、そのたびアリアの胸には鉛のような重みが積み上がっていった。
エレノアが小声で舌打ちした。
「……最悪ですわね」
「ええ」
「私、そんなに口が下手ではないつもりでしたのに」
「あなたのせいではないわ」
アリアはそう言ったが、実際のところ、誰のせいでもあり、誰のせいでもなかった。
もっと愛想よく振る舞えていれば違ったのかもしれない。もっと柔らかな物言いができれば、少なくともここまで露骨にはならなかったかもしれない。
だが、それは結局「誤解される側が悪い」と言っているのと同じではないか。
アリアは机の上で静かに指先を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
この程度の痛みの方が、周囲の視線よりよほどましだった。
二時間目が始まる少し前、廊下がざわめいた。
聞き慣れた足音とともに、教室の扉が開く。
現れたのはセドリックだった。
明るい金髪に整った顔立ち。穏やかな微笑みを浮かべているだけで、その場の空気を支配してしまう華やかさが彼にはある。生徒たちがさっと立ち上がり、礼を取った。
「殿下」
教師ではない彼が教室に顔を出すのは珍しいことではない。第二王子としての立場もあれば、人との距離が近い性格もあって、彼はよく学年を問わず生徒たちのもとへ現れる。
だが、今日はその「いつも」が妙に嫌な予感を連れてきた。
セドリックの視線は、まずミレイユを捉えた。
「ミレイユ、少しいいか」
名指しされたミレイユは驚いたように立ち上がり、控えめに礼をする。
「は、はい……」
セドリックは彼女の顔を見て、露骨に眉を曇らせた。
「顔色が悪いな。何かあったのか?」
「い、いえ……何でもありません。殿下にご心配をおかけするほどのことでは……」
「そういう言い方をする時点で、何かあると言っているようなものだ」
困ったように微笑みながら、しかし有無を言わせぬ口調で問い詰める。その姿は、事情を知らぬ者が見れば頼もしい王子そのものだろう。
だがアリアには、それがたまらなく浅薄に見えた。
相手が「弱く見える者」である限り、彼はいつだって自分が守る側に立ちたがる。そうしている自分が好きなのだ。
ミレイユは逡巡するように俯いたあと、小さく首を振った。
「本当に、大したことではないのです……ただ、私、少し皆様の前で失礼をしてしまって……」
「失礼?」
セドリックの声がわずかに鋭くなる。
彼女はおずおずと視線をさまよわせ、それからほんの一瞬だけアリアの方を見た。
それだけで十分だった。
教室中の視線が、今度は一斉にアリアへ集まる。
何も言っていない。名指しもしていない。だというのに、まるで彼女が全てを語ったかのような空気が生まれる。
セドリックの目にも、その変化ははっきり映ったらしい。
彼はゆっくりとアリアを見た。
「アリア。何か知らないか」
その問いは、公平を装った尋問だった。
「……先ほど、ミレイユさんが突然教室へいらして、私を見て驚かれただけです。それ以上でも以下でもありません」
「それだけで、こうなると思うか?」
「どういう意味でしょう」
「君なら分かるだろう」
分からない。いや、分かりたくない。
だがセドリックは、すでに何かを確信した者の目をしていた。
「彼女は最近、学園でずいぶん肩身の狭い思いをしているようだ。平民出身であることを快く思わない者も多い。……君の周囲にも、そういう考えの者はいるのではないか」
それはつまり、アリアが直接手を下していなくとも、彼女の立場や態度が周囲に圧力を与え、ミレイユを苦しめているのではないか――そう言いたいのだろう。
なんと曖昧で、都合のいい理屈だろう。
「私は、誰かに彼女を害するよう命じたことはありません」
「だが、意図せず人を傷つけることはある」
「……それは、私に限った話ではないでしょう」
言い返した瞬間、教室内の空気がまたひやりと冷えた。
セドリックの顔から笑みが消える。
「アリア」
その声は低く、明らかに咎める響きを帯びていた。
「最近の君は、少し余裕がなさすぎる。婚約者として、私は君がもっと広い視野を持つべきだと思っている」
婚約者として。
その言葉に、アリアの胸が鋭く痛んだ。
彼は今、自分を気遣っているように見せかけながら、教室中の前で「未熟な婚約者」を諭している。しかも、それが正義だと信じて疑っていない。
アリアは一瞬だけ唇を結び、それから静かに口を開いた。
「広い視野を持つべきなのは、私だけでしょうか」
教室の空気が凍る。
エレノアが横で息を呑んだ。
セドリックも一瞬だけ目を見開いたが、すぐに不快そうに眉を寄せた。
「……言いたいことがあるなら、はっきり言えばいい」
「では申し上げます。私がしてもいないことを、したかのように扱われるのは心外です」
「誰も断定していない」
「断定していないのに、皆そのような顔をしています」
それは、この場にいる全員への非難でもあった。
実際、その通りなのだから仕方がない。
何人かの生徒が気まずそうに目を逸らした一方で、むっとした顔をする者もいた。自分たちの後ろめたさを突きつけられれば、たいていの人間は反省するより先に不快になる。
セドリックは小さく息を吐いた。
「君は、いつもそうだ」
「……何がですか」
「自分の正しさを疑わない」
その言葉は、思っていた以上に深く刺さった。
なぜならそれは、アリア自身が幼い頃から密かに恐れていたことでもあったからだ。完璧であろうとするあまり、人の心を置き去りにしているのではないか。正しさを振りかざしているだけの冷たい女なのではないか。
その不安を、婚約者の口から他者への断罪の形で返される痛みは、想像以上だった。
だがここで俯けば、本当にその通りだと認めることになる。
アリアは背筋を伸ばした。
「私は、自分がしていないことをしていないと言っているだけです」
その声音は平坦で、硬く、そしておそらく、この場にいる誰よりも冷たく聞こえただろう。
セドリックはそれ以上言わなかった。
代わりに視線をミレイユへ戻し、先ほどまでの柔らかな顔つきに戻る。
「ミレイユ。無理をするな。何かあれば、必ず私に言うんだ」
「……はい、殿下」
か細い返事。
その声だけで、周囲の同情はますます彼女へ傾いていく。
やがて二時間目の教師が入ってきて、このやり取りは一応の終わりを迎えた。セドリックも「授業の邪魔をしたな」とだけ言って教室を去っていく。
だが、残されたものはあまりにも重かった。
教師が講義を始めても、もはや誰も内容に集中などしていない。少なくともアリアにはそう思えた。
自分の言葉は、きっとまた「冷酷な否定」として受け取られただろう。
ミレイユのか細い返事は、「傷ついた少女の健気さ」として広がっていくだろう。
セドリックの態度は、「婚約者でありながらも正しく弱者を守る殿下」として語られるだろう。
何もかも、都合よく出来すぎている。
講義が終わり、昼休みになる頃には、その予感は現実になっていた。
廊下へ出ると、別の学年の生徒たちまでこちらを見てひそひそと話している。断片的な言葉が耳に入った。
「やっぱりルーヴェルト様が……」
「でも証拠はないのでしょう?」
「証拠がなくても、ねえ」
「ミレイユさん、この前も……」
この前も。
アリアはその言葉に足を止めかけた。
まるで、今日が初めてではないような言い方だ。
つまり、水面下ではすでに何かが積み上がっているのだろう。自分の知らないところで。自分が関わってもいないところで。
それは、嫌な予感というより、ほとんど確信に近かった。
「アリア様」
エレノアが、昼食の入った籠を抱えて不安そうにこちらを見る。
「場所を変えましょう。今日は食堂ではなく、サロンの方がよろしいかもしれません」
「ええ、そうね」
二人は人気の少ない令嬢用サロンへ向かった。
高窓から光の差し込むその部屋は静かで、ようやく少しだけ息がつける気がした。けれど、完全に気を緩めることはできない。
エレノアは席に着くなり、ため息混じりに言った。
「殿下、どうしてああも……」
「ミレイユさんを信じたいのでしょう」
「信じたいにしても、もう少しやり方というものが」
「彼は昔から、分かりやすく弱い立場の人に肩入れしがちだったわ」
言ってから、わずかに自嘲する。
ならば、自分が彼に理解されないのも当然なのかもしれない。アリアは涙を見せない。助けを求める言葉も上手くない。守ってほしいと甘えることもできない。
そういう女は、きっとセドリックにとって「守るべき者」ではないのだ。
エレノアはナプキンを握りしめていた。
「でも、今朝からの流れは少し異常ですわ。まるで皆さん、ずっと前から何か知っていたみたいに」
「……私もそう思う」
「でしたら、誰かが意図的に」
「まだ分からないわ」
分からない。分からないが、胸の奥では不穏なものが大きくなっている。
そんなときだった。
サロンの扉が控えめに叩かれた。
エレノアが「どうぞ」と返すと、入ってきたのはルーヴェルト公爵家から学園へ付き添ってきている侍女見習いの少女だった。顔色が悪い。
「アリア様、失礼いたします」
「何かあったの?」
「その……お机の中から、妙なものが見つかったと……」
アリアは立ち上がった。
「妙なもの?」
侍女見習いは怯えるように唇を震わせ、それでもはっきりと言った。
「ミレイユ様を侮辱する内容のお手紙が。しかも、ルーヴェルト様のお席から出てきた、と……今、教室で騒ぎになっております」
一瞬、時間が止まった。
エレノアが椅子を蹴るようにして立ち上がる。
「は?」
アリアは何も言えなかった。
ただ、胸の奥にあった不穏な予感が、はっきりと形を持って立ち上がるのを感じた。
これは偶然ではない。
誰かが、明確に、自分を陥れようとしている。
しかも今度は、言い逃れが難しい形で。
アリアはぎゅっと拳を握った。
公爵令嬢としての矜持でも、婚約者としての立場でも、これ以上は守れないかもしれない。そんな予感が骨の髄まで冷たく染みこんでくる。
「……教室へ戻るわ」
声だけは、不思議なほど静かだった。
けれどその静けさの下で、悪意は確実に、彼女の名を汚すための牙を研いでいた。
そしてその中心にはきっと、まだ誰も見ようとしていない“被害者の顔”があるのだ。
――悪役令嬢。
まだ誰もはっきりとは口にしていないその呼び名が、すでに自分の背後に忍び寄っている気がした。




