第1話 学園で囁かれる“悪役令嬢”
朝の光は、王都の空を磨き上げた硝子のように澄ませていた。
ルーヴェルト公爵家の馬車が王立学園の正門をくぐると、両脇に植えられた白薔薇の並木が、春の終わりを惜しむように風に揺れた。石畳は朝露をわずかに残し、その上を行き交う生徒たちの靴音が、規律正しくもどこか華やかな響きを返している。
王立学園――それは、この国の貴族子弟が学び、繋がり、やがて王宮と社交界へ羽ばたいていくための場所だ。
格式は高く、礼節は厳しく、そして噂が広がる速度は、火のついた紙片よりも早い。
馬車が止まると、扉の外で待っていた侍女が静かに手を差し出した。
「お足元を、お嬢様」
「ありがとう、リナ」
アリア・フォン・ルーヴェルトは、そう短く告げて馬車を降りた。
朝日に照らされたその姿は、確かに人目を引くものだった。長い亜麻色の髪は丁寧に結い上げられ、学園指定の制服も、誰より隙なく着こなしている。無駄な装飾はない。けれど、背筋の伸びた立ち姿と、すべてを見透かすような青灰色の瞳が、彼女をただの一生徒ではなく、由緒ある公爵令嬢として際立たせていた。
それは誇りの表れであると同時に、しばしば距離の壁にもなる。
「あ……ルーヴェルト様だわ」
「今日も綺麗……」
「でも、なんだか近寄りがたいのよね」
「第二王子殿下の婚約者だもの。私たちとは住む世界が違うわ」
小声のつもりなのだろう。だが、朝の澄んだ空気の中では、そうした囁きは驚くほどよく届く。
アリアは足を止めなかった。
聞こえないふりをすることには、もう慣れている。
幼い頃から、彼女は「公爵家の令嬢」として育てられてきた。歩き方、食器の持ち方、微笑みの角度、ダンスの一歩、言葉遣いの端々に至るまで、常に家の名に恥じぬよう求められてきたのだ。
そしてその努力は、少なくとも表面上は報われている。
成績は常に上位。礼儀作法も模範。教師たちの評価も高い。さらに、彼女の婚約者はこの国の第二王子セドリック・ヴァルディス。誰もが羨む立場であり、いずれ王家に連なる女性として歩む未来を約束された身だ。
けれど、羨望はしばしば親愛には変わらない。
完璧であればあるほど、人はそれを勝手に「冷たさ」と呼ぶ。
感情を表に出さなければ、「高慢」だと囁かれる。
隙を見せなければ、「人を見下している」と決めつけられる。
そんなことを、アリアはもう何年も前に理解していた。
だからこそ、余計なことで心を乱してはならない。そう自分に言い聞かせながら、彼女は校舎へ向かって歩き出した。
「アリア様、おはようございます!」
明るい声が飛んできて、アリアはわずかに視線を上げた。
そこにいたのは、伯爵家の令嬢であるエレノア・シルヴェストルだった。栗色の髪をゆるく編み込み、どこか華やかな空気をまとった少女である。社交的で人当たりがよく、学園でも顔が広い。
「おはよう、エレノア」
「まあ、今日も完璧なお返事ですこと。もう少しこう……春らしくやわらかく微笑んでいただけると、殿方がさらに騒ぎますのに」
「あなたは朝から元気ね」
「ええ。だって、朝の学園は噂話が一番おいしい時間ですもの」
言いながら、エレノアは悪戯っぽく笑った。彼女のこういうところは、アリアには少し眩しい。
「また何かあったの?」
「ご存じないのですか? 最近、皆さんの話題はひとつですわ」
エレノアは周囲をさりげなく見回してから、声を潜めた。
「ミレイユ・ローゼンさんのことです」
その名に、アリアは小さくまばたきをした。
「……平民出身の特待生だったかしら」
「ええ、その方です。可憐で、儚げで、守ってあげたくなる方――と、殿方の間ではたいそう評判だそうで」
エレノアの言い方には少しだけ棘があった。露骨な悪意ではないが、面白がっている気配もある。
アリアは学園の生徒全員と親しくしているわけではない。むしろその逆だ。だが、ミレイユという少女の名は最近よく耳にしていた。
平民出身でありながら優秀な成績を修め、特待生として王立学園に入学した少女。
身分差の厳しいこの学園で、その存在は珍しく、目立つ。好奇の目も向けられれば、反発も買う。だからこそ彼女は「健気な努力家」として、特に一部の男子生徒や教師から好意的に扱われているのだと聞いていた。
「それだけなら、別に珍しい話でもないでしょう」
アリアがそう言うと、エレノアは「ところが」と眉を上げた。
「そのミレイユさんを、第二王子殿下がずいぶん気にかけていらっしゃるのです」
その一言に、アリアは足を止めかけた。
「……セドリック殿下が?」
「はい。教本を運ぶのを手伝われたり、図書室で声をかけられたり、先日は階段でよろけたところをお支えになったとか」
いちいち細かい。さすが噂好きの令嬢たちだと、アリアは内心で嘆息した。
だが、同時に胸の奥で小さな棘が引っかかるような感覚もあった。
セドリックは社交的で、人当たりもよい。弱き者を気にかける自分、という在り方を好むところもある。だから、平民出身の少女に親切を向けること自体は不思議ではない。
――ただ。
婚約者である自分には、ここ最近ずいぶん素っ気ないくせに。
その言葉は喉元まで上がってきたが、アリアは飲み込んだ。
そんな感情を表に出すことは、みっともない。
嫉妬しているように見えるのは、もっとみっともない。
「アリア様?」
「いいえ、何でもないわ。殿下が誰に親切になさろうと、私がとやかく言うことではないもの」
そう答えた声音が思いのほか冷たくなっていたのか、エレノアは目を丸くした。
「まるで氷ですわね。でも、そういうところが誤解を呼ぶのですよ」
「誤解?」
「本当は怒っていても、悲しくても、顔に出さないでしょう? だから皆、アリア様は何を考えているのか分からないって」
「分かってもらう必要があるの?」
「……そうおっしゃるところですわ」
エレノアは呆れたように肩をすくめた。
アリア自身、分かってはいる。自分が人付き合いに長けた性格でないことくらい。
けれど、下手に心を見せれば、そこを突かれるだけだと教え込まれて育ったのだ。誰にでも柔らかく笑い、愛想よく振る舞えるような器用さは、彼女にはない。
そんな話をしているうちに、正門の方が不意にざわめいた。
視線が吸い寄せられる。
そこには、群青の制服を品よく着こなした金髪の青年――第二王子セドリックがいた。彼は朝の光を受けて眩しいほどに華やかだった。整った容姿、朗らかな微笑、誰に対しても気さくに言葉をかける態度。社交界でも学園でも、彼は好かれやすい。
その隣に、小柄な少女が立っている。
薄い蜂蜜色の髪。華奢な肩。どこか不安げに伏せられた瞳。簡素ながら清潔な学園制服を着たその少女こそ、ミレイユ・ローゼンなのだろう。
セドリックが彼女に何かを言うと、ミレイユは驚いたように目を見開き、それからはにかむように笑った。
その笑みは、確かに可憐だった。
周囲の生徒たちがまた囁き合う。
「見て、また殿下が……」
「本当にお優しいのね」
「でも、婚約者のルーヴェルト様がいらっしゃるのに」
「ルーヴェルト様って、きっと平民の子なんてお嫌いでしょう?」
「なんとなく、ありそう……」
最後の一言に、アリアの眉がわずかに寄る。
何となく、で人を語らないでほしい。
けれど、それを口にしたところで、きっと「図星だから怒った」とでも言われるだけだ。
アリアは息をひとつ整え、歩を進めた。
彼女が近づいていくのに気づいたのか、セドリックが顔を上げた。
「アリア。おはよう」
「おはようございます、セドリック殿下」
公の場にふさわしい礼をもって応じる。
婚約者同士とはいえ、ここは学園だ。必要以上に親しげにするべきではない――少なくともアリアはそう教わってきたし、その通りに振る舞ってきた。
だが、セドリックはその距離感をあまり好まない。
今日も彼は、どこか不満げに口元を歪めた。
「相変わらず堅いな。もう少し肩の力を抜いたらどうだ?」
「学園内での礼節は必要かと存じます」
「ほら、そういうところだ」
まるで軽い冗談のように言われたそれに、アリアは返答に迷った。
どういうところなのか。堅苦しいところか。面白みがないところか。可愛げがないところか。
どれも、今さら指摘されずとも分かっている。
セドリックはすぐ気を取り直したように、隣の少女へ視線を向けた。
「紹介しよう。こちらはミレイユ・ローゼン。最近、学業で困っていることが多いらしくてな。少し相談に乗っていた」
ミレイユは慌てたように頭を下げた。
「は、はじめまして、ルーヴェルト様……!」
声は小さく、震えているようにも聞こえた。緊張しているのだろう。
アリアは相手を見つめた。
近くで見ると、たしかに守ってやりたくなるような雰囲気の少女だった。肌は白く、瞳は潤みがちで、どこか怯えたような表情が常に張りついている。こういう少女を前にすれば、多くの人は無条件に「弱い立場の子」と認識するのだろう。
「はじめまして、ミレイユさん」
アリアはできるだけ穏やかな声で言ったつもりだった。
しかし、ミレイユはびくりと肩を震わせた。
ほんの些細な反応だ。けれど、それは周囲の目には十分すぎるほど意味深に映った。
ざわ、と空気が揺れる。
エレノアが小さく息を呑む気配がした。
アリア自身も、一瞬何が起きたのか分からなかった。
「……どうかなさったの?」
問いかけると、ミレイユは慌てて首を振った。
「い、いえ……! 何でも、ありません……っ」
何でもないという態度ではない。
だが、それ以上追及すれば、こちらが責めているように見える。そう判断して、アリアは口を閉ざした。
するとセドリックが、さりげなく一歩ミレイユの前へ出た。
その動きは小さい。しかし、庇うような意図はあまりにも明白だった。
アリアの胸の奥に、冷たいものが落ちる。
「アリア」
セドリックの声音は低かった。
「彼女はまだ学園に慣れていない。君も分かっているだろうが、立場の弱い者にあまり圧をかけるような態度は感心しないぞ」
その言葉に、今度こそエレノアが目を見開いた。
アリアはしばし沈黙した。
圧をかけた?
今のどこに、そのようなものがあったというのか。
ただ挨拶をしただけだ。
けれど、ここで感情的に否定すれば、ますます「図星」になる。アリアはそう考え、唇を引き結ぶしかなかった。
「承知いたしました」
それだけを返す。
セドリックは、納得したようなしないような曖昧な顔をした。
「……まあ、君が分かっているならいい」
そしてミレイユへ向き直ると、先ほどまでのやわらかな表情を戻した。
「では、教室まで送ろう」
「で、でも殿下、ご迷惑では……」
「構わない」
二人はそのまま並んで歩き出した。
朝日に照らされた後ろ姿は、まるで一幅の絵のように穏やかで、美しかった。
だからこそ、周囲の目にはなおさら「正しいもの」に映るのだろう。
弱き少女を気遣う優しい王子。
その対比として立ち上がる、冷たく気位の高い婚約者。
物語の配役としては、あまりにも分かりやすい。
「……ひどい言いがかりですわね」
二人が離れていってから、エレノアが憤ったように呟いた。
「アリア様、ただ挨拶なさっただけではありませんか」
「気にしていないわ」
反射的にそう答えたが、エレノアはじっと彼女を見つめた。
「そうやって、また平気なふりをなさる」
「ふりではないもの」
「本当に?」
問い返されて、アリアは少しだけ言葉を失った。
本当に平気なのか。
そう聞かれれば、平気ではない。婚約者に人前でたしなめられて、何も感じないはずがない。しかも、その理由が曖昧で理不尽ならなおさらだ。
けれど、ここで傷ついた顔を見せて何になるというのだろう。
「学園に遅れるわ。行きましょう」
話を終わらせるように歩き出すと、エレノアは小さくため息をついてからついてきた。
校舎の中に入ると、ひんやりした石の空気が肌を撫でた。高い天井、磨き込まれた床、壁にかけられた歴代卒業生の肖像画。どこを見ても整っていて、乱れはない。
そのはずなのに、今日はなぜだか、あちこちに目に見えない糸が張り巡らされているような息苦しさがあった。
廊下を進むたび、視線を感じる。
完全な敵意ではない。好奇心、憶測、面白がり――そんなものが混ざった視線。
アリアは顔を上げ、まっすぐ前を向いて歩いた。
教室へ入ると、一瞬ざわめきが止み、それからすぐに何事もなかったかのように再開される。あまりにも分かりやすい反応に、さすがの彼女も少しだけ疲れを覚えた。
自席へ向かい、机の上に教本を置く。
窓際の席からは庭園の一部が見えた。噴水の水音が遠くにきらめき、朝の陽射しが芝生に柔らかく落ちている。平和な景色だった。
なのに、その平和の中で、自分だけが少しずつ場違いな存在になっていく気がする。
「……気のせいであればいいのだけれど」
誰にも聞こえないほど小さく呟いた、そのときだった。
廊下の向こうから、ばたばたと駆けてくる足音がした。
何事かと教室中の視線が扉へ向く。
そこに現れたのは、ミレイユだった。
頬を上気させ、今にも泣き出しそうな顔をしている。制服の袖口は少し汚れ、手元には教本を抱えていた。その背後からは、彼女を追うようにして数人の女子生徒もやって来る。
「ミレイユさん!?」
「どうしたの?」
「また何かあったの?」
また。
その言葉に、アリアの胸がざわついた。
ミレイユは教室の中を見回し――そして、アリアと目が合った。
その瞬間。
彼女はまるで、最も見たくないものを見てしまったかのように、びくりと体を強張らせた。
腕に抱えた教本が、ぱさりと床へ落ちる。
教室中の空気が、ぴたりと止まった。
数拍遅れて、ざわめきが広がる。
「え……」
「今の、見た?」
「まさか……」
アリアは席を立ちかけたが、ミレイユは小さく息を呑んで一歩後ずさった。
まるで、近寄られることそのものを恐れているかのように。
何かがおかしい。
そう思ったときにはもう、周囲の視線は完全にアリアへ向けられていた。
理由も、事情も、真実もまだ何ひとつ明らかではないのに。
それでも皆、物語の続きを勝手に決めていく。
完璧で冷たい公爵令嬢。
怯える平民の少女。
どちらが悪役に見えるかなど、最初から決まりきっているとでもいうように。
アリアはゆっくりと息を吸った。
ここで動けば不利になる。だが動かなければ、それはそれで認めたことにされるかもしれない。
ほんの一瞬の迷い。
その間に、ミレイユの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
誰かが、小さく言った。
「――やっぱり、ルーヴェルト様が……?」
その声は、春の終わりの朝には似つかわしくないほど冷たく、はっきりと、アリアの耳に届いた。
彼女は何も言い返せなかった。
言葉を失ったのではない。
自分が今、何を言っても、きっともう遅いのだと本能で悟ってしまったからだ。
王立学園の朝は、今日も美しかった。
その美しさの下で、アリア・フォン・ルーヴェルトの足元には、まだ名もない悪意が、静かに口を開け始めていた。




