第126話 花瓶の水は、香りを隠す
花瓶の水に、香りが混ぜられていた。
その報告を聞いた瞬間、アリア・フォン・ルーヴェルトは、黒枝会というものの厄介さをまた一つ思い知らされた気がした。
香油を身にまとうだけなら、まだ分かりやすい。
誰かの袖口、髪、手袋、封筒。
香りの持ち主を探せばいい。
けれど、水は違う。
花瓶の水は、そこにあることが当たり前すぎて、誰も疑わない。
美しい花を生かすためのもの。
部屋を整えるためのもの。
客をもてなすための、無言の背景。
その水に、黒枝樹脂に似せた香料が溶かされていた。
つまり、昨日の西小サロンは、誰か一人が黒枝の香りをまとっていたのではない。
部屋そのものが、黒枝の気配をまとわされていたのだ。
「……嫌なやり方ですね」
小会議室で、アリアは思わずそう言った。
言葉を選ぶ余裕はあった。
けれど、あえて飾らなかった。
レオンハルトは机の前に立ち、女官長補佐から上がってきた報告書を読んでいる。
ユリウスはその隣で、相談会の席順表と花瓶の配置図を並べていた。
四つの花瓶。
窓際に二つ、暖炉のそばに一つ、丸卓の後ろに一つ。
そのうち三つから、黒枝樹脂に似せた香料が検出された。
「害はないのだな」
レオンハルトが確認する。
ユリウスが頷いた。
「直接的な毒性はありません。香りも、ごく薄いものです。花の香りに紛れれば、普通の者は気づかない程度でしょう」
「普通の者は、ですね」
アリアが言うと、ユリウスは少しだけこちらを見た。
「あなたとリナは気づいた」
「はい。ただ、私も最初は部屋全体から漂っているとしか分かりませんでした。どこからかまでは」
「十分です」
ユリウスは、配置図の窓際を指した。
「香りの流れを見る限り、窓際の二つと暖炉そばの花瓶に仕込まれていた。部屋全体に広げるなら、悪くない位置です」
悪くない位置。
その淡々とした言い方に、アリアは少しだけ眉を寄せた。
「慣れている方の配置、ということですか」
「少なくとも、何も考えずに入れたわけではないでしょう。風の流れ、席の位置、茶の香りとぶつからない濃度。どれも計算されています」
アリアは、昨日のサロンを思い返した。
白い小花。
淡い桃色の薔薇。
薄紫の花。
若葉を添えた枝もの。
見た目には、どこまでも春らしかった。
そして、その春の美しさの底に、黒枝の香りが沈んでいた。
「目的は、何でしょう」
アリアは静かに尋ねた。
「私に気づかせるためでしょうか」
「それもある」
レオンハルトが答えた。
「だが、それだけではない」
ユリウスが続ける。
「この香りは、黒枝会に関わる者同士への合図でもあるはずです。“この場は見られている”“この場は黒枝の空気の中にある”。そう知らせるには、十分でしょう」
アリアは小さく息を吸った。
「では、昨日あの場にいた方々の中で、香りに気づいていた人もいたのですね」
「おそらく」
「気づいていて、何も言わなかった」
「言えないのか、言わないのか、あるいは言う必要がないのか。そこはまだ分かりません」
アリアは配置図を見つめた。
サロンの中で笑っていた若い夫人たち。
セルディア若夫人。
ヴァレリア男爵夫人。
黒葉の刺繍片を見つめていた視線。
そのうち何人が、この香りの意味を知っていたのだろう。
自分は今、どれほど大きな輪の端を見ているのだろう。
「花係の女官は?」
レオンハルトが問う。
ユリウスは別の紙を取った。
「すでに別室で保護しています。名はミーナ。王宮に勤めて二年目の若い花係です。女官長補佐の部下が付き添っています」
「保護、ですね」
アリアが確認すると、ユリウスは頷いた。
「ええ。現時点では、責める対象ではなく、聞き取り対象です」
その言葉に、少しだけ胸が落ち着いた。
フェルナー事件の時、マリーナは罪を理解して手を動かした。
だが、今回はまだ違う。
花を長持ちさせる水だと言われ、渡された小瓶を入れただけなら、それは利用された可能性が高い。
弱い立場の者へ、また罪が落ちかけている。
そう思うと、アリアの胸には怒りより先に冷たい不快感が生まれた。
「会えますか」
自然に言っていた。
レオンハルトがアリアを見る。
「花係にか」
「はい」
「君が直接会う必要はない」
「分かっています」
アリアはすぐに頷いた。
「でも、昨日の場に私もいました。もし彼女が怯えているなら、私が責めるつもりはないと伝えたいのです」
ユリウスが少し考える。
「悪くはありません。ただし、聞き取りの主導は女官長補佐に任せます」
「もちろんです」
「あなたは、彼女を安心させる役です」
「はい」
そこでレオンハルトが短く言った。
「それでいい」
その言葉に、アリアは小さく頷いた。
別室は、小会議室から少し離れた控えの間だった。
扉の外には女官が一人立っている。
中へ入ると、若い花係の女官が椅子に座っていた。
年は、アリアとそう変わらないように見える。
薄茶の髪を後ろでまとめ、簡素な女官服を着ている。
指先には、花の茎を扱った時につく小さな傷がいくつかあった。
彼女はアリアの姿を見るなり、青ざめて立ち上がった。
「ル、ルーヴェルト様……!」
「座ってください」
アリアはできるだけ静かに言った。
「責めに来たわけではありません」
その一言で、ミーナの目に涙が浮かぶ。
よほど怖かったのだろう。
王宮のサロンで使われた花瓶に、怪しい香料が混ざっていた。
それを準備したのは自分。
そう聞かされれば、若い女官なら足元が崩れたような気持ちになるはずだ。
女官長補佐が、アリアに一礼してからミーナへ向き直る。
「先ほどの続きです。ミーナ、昨日の西小サロンの花瓶には、あなたが水を用意しましたね」
「はい……」
「水に何かを加えましたか」
「はい。花持ちをよくする薬液だと聞いて、小瓶の中身を少しずつ」
「誰から渡されましたか」
ミーナは唇を震わせた。
「セルディア若夫人の侍女だと名乗る方です。私は、その方を直接存じ上げてはいませんでした。でも、若夫人側からの差し入れで、花が長持ちするようにと」
「その時、他に誰かいましたか」
「いえ……準備室の前で受け取りました。忙しい時間で、私も急いでいて」
声がどんどん小さくなる。
「確認を怠りました。申し訳ございません」
ミーナは深く頭を下げた。
アリアは、すぐに言った。
「頭を上げてください」
ミーナは恐る恐る顔を上げる。
「確かに、確認は必要でした」
アリアは、甘い言葉だけを置かなかった。
「王宮の花瓶に入れるものなら、出所を確かめるべきでした」
「はい……」
「でも、あなたが黒枝樹脂の香りだと知って入れたわけではないなら、そこはきちんと分けて確認されるべきです」
ミーナの目が揺れる。
「私は……処罰されるのでしょうか」
「それを私が決める立場ではありません」
アリアは正直に言った。
「ただ、知らずに使わされた者を、黒枝会の枝にしてはいけないと思っています」
ミーナの頬を涙が落ちた。
女官長補佐の表情も、少しだけやわらぐ。
「ミーナ。今必要なのは、正確に話すことです」
「はい……」
「その侍女の特徴は覚えていますか」
ミーナは涙を拭い、必死に思い出すように目を閉じた。
「背は、私より少し高いくらいでした。髪は濃い栗色で、左側でまとめていて……声は低めでした」
「服装は?」
「王宮の侍女服ではありません。外の貴族家の侍女服でした。濃い灰色で、袖口に刺繍が」
「刺繍?」
アリアの胸が、かすかに鳴った。
ミーナは頷く。
「黒い葉の刺繍が入った手袋をしていました」
部屋の空気が止まる。
黒葉の手袋。
リナが背後で小さく息を呑んだのが分かった。
女官長補佐はすぐに記録役へ目配せする。
「黒い葉の刺繍入り手袋ですね」
「はい。綺麗だったので、覚えています。細い枝のような模様も一緒に」
「枝?」
「はい。黒い葉が三枚ほど、細い枝につながっているような」
三枚の黒葉。
アリアは、その意匠を頭の中で描いた。
黒葉の刺繍片。
セルディア若夫人の胸元の黒葉。
そして、黒い葉の手袋。
黒枝会は、完全に隠れているわけではない。
分かる者には分かる印を、あえて残している。
「その侍女は、セルディア若夫人の侍女で間違いありませんか」
女官長補佐が問うと、ミーナは迷った。
「私は……そう名乗られたので。でも、若夫人のおそばで見たことがあるかと言われると、分かりません」
「名乗っただけ」
「はい」
つまり、セルディア若夫人の侍女とは限らない。
誰かがそう名乗っただけ。
それだけで、花係は信じてしまった。
悪意ある者にとって、王宮の忙しさと若い女官の遠慮は格好の隙になる。
「小瓶はどんなものでしたか」
「小さな透明の瓶です。口に白い布が巻かれていて、封はありませんでした。花持ち用だと聞いたので、疑いませんでした」
「残りは?」
「使い切りました。空瓶は片づけの時に……」
「回収しました」
女官長補佐が補う。
「残留香料を調べています」
ミーナはまた頭を下げた。
「申し訳ございません」
「ミーナ」
アリアは名前を呼んだ。
「はい」
「あなたが今話したことは、大切です」
ミーナは泣きそうな顔でアリアを見る。
「小瓶を受け取ったことも、確認しなかったことも、きちんと報告する必要があります。でも、あなたが思い出した手袋の刺繍は、手がかりになります」
「手がかり……」
「ええ」
アリアは静かに頷いた。
「だから、もう一度よく思い出してください。怖がって隠すより、話した方が自分を守ることにもなります」
ミーナは震えながらも、しっかり頷いた。
「はい。私、思い出します。全部、できるだけ」
その声に、ほんの少しだけ力が戻っていた。
控えの間を出ると、廊下の空気が冷たく感じた。
アリアはしばらく歩かず、壁際で小さく息を吐いた。
「お嬢様」
リナがそっと声をかける。
「大丈夫ですか」
「ええ」
アリアは頷く。
「ただ……また同じだと思って」
「同じ?」
「弱い立場の人に、最初に疑いが落ちる」
マリーナ。
ミーナ。
もちろん、二人は同じではない。
マリーナは罪を理解して手を動かした。
ミーナはおそらく知らなかった。
それでも、構図は似ている。
上にいる者は香りや意匠や言葉を操り、手を汚す場所には下の者を置く。
何かあれば、その者が最初に責められる。
「黒枝会は、そういう隙を使うのですね」
アリアが言うと、リナは静かに頷いた。
「おそらく」
「なら、私はそこを見なければいけない」
怒りではなく、決意に近いものが胸の奥に生まれた。
小会議室へ戻ると、レオンハルトとユリウスが待っていた。
アリアが入るなり、レオンハルトが問う。
「どうだった」
「花係のミーナは、知らずに使わされた可能性が高いです」
アリアは聞き取りの内容を伝えた。
セルディア若夫人の侍女を名乗る人物。
花持ちをよくする水だと言われたこと。
黒い葉の刺繍入り手袋。
三枚の黒葉と細い枝の模様。
話し終えると、ユリウスが資料に書き込んだ。
「黒葉の手袋、ですか」
「見覚えはありますか」
「今のところは。ただ、意匠としてはかなり重要です」
「なぜですか」
「黒葉の刺繍片や胸飾りは、社交上の装飾として言い逃れができます。ですが、侍女の手袋に同じ意匠があるなら、それは連絡役や下働きにも共有される印かもしれません」
「つまり、黒枝会の外側の枝」
「そうです」
レオンハルトが低く言う。
「セルディア若夫人の侍女を名乗っただけか」
「はい」
「本人の侍女ではない可能性があるな」
「あります」
ユリウスは頷いた。
「むしろ、そう見せるために名乗った可能性も」
アリアは眉を寄せた。
「セルディア若夫人へ疑いを向けるため?」
「ええ。あるいは、彼女が黒葉の表に出る役であることを利用している」
セルディア若夫人は、黒葉を見せたがっている。
その分、疑いを引き寄せやすい。
彼女が中心ではないのなら、誰かに使われている可能性もある。
「黒枝会の中でも、利用する者とされる者がいるのですね」
「どの集まりでも同じです」
ユリウスの声は冷静だった。
「意匠を誇示する者ほど、外側かもしれません。本当に中心にいる者は、自分の葉を見せない」
アリアは、ふとグランディル侯爵夫人を思い出した。
彼女は黒枝樹脂の香りをまとわなかった。
黒葉を見せもしなかった。
だが、黒葉の意味を知っているような目をしていた。
古い樹は、自分で葉をつけなくても枝を伸ばせる。
昨日、自分が口にした考えが、また胸に戻ってくる。
「次は、手袋の意匠を追うのですね」
「はい」
ユリウスが答える。
「黒葉の手袋を作れる刺繍工房、あるいは侍女用手袋の調達先を洗います」
「花係ミーナは」
「保護します。確認不足の処分は軽く問われるでしょうが、黒枝会関与としては扱いません」
アリアは少しだけ安心した。
「ありがとうございます」
レオンハルトがアリアを見た。
「君の名が重くなったと言ったな」
「はい」
「その重さの使い方を、今日も間違えなかった」
アリアは一瞬、言葉に詰まった。
褒められたのだと分かるまでに、少し時間がかかった。
「……私は、ただ彼女を責めるのは違うと思っただけです」
「それが大事だ」
レオンハルトは短く言う。
「黒枝会は、誰かに罪を落とす。その度に君がそこを見れば、向こうはやりにくくなる」
「やりにくくなる」
「ああ」
彼の目が静かに鋭くなる。
「枝の先を切るだけでなく、枝を伸ばすやり方そのものを見られるからだ」
アリアはゆっくり頷いた。
黒枝会の怖さは、黒い意匠そのものではない。
香りでも、封蝋でも、手紙でもない。
誰かを利用し、弱い立場の者へ罪を落とし、社交の美しさの中にそれを隠すこと。
ならば、そこを見る。
花瓶の水は、香りを隠す。
けれど、水を見れば、何かが混ざった跡は残る。
アリアは、机の上の配置図を見つめながら静かに思った。
次は、黒葉の手袋だ。




