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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第125話 婚約者の名は、もう軽くない

 まだ軽くはありませんのね。


 ヴァレリア男爵夫人が去り際に残したその一言は、王宮の廊下を歩いている間も、アリア・フォン・ルーヴェルトの胸の奥で静かに沈み続けていた。


 声は柔らかかった。

 挑発というには甘く、称賛というには冷たい。


 だが、聞き流していい言葉ではない。


 婚約者の名は、まだ軽い。


 フェルナー伯爵夫人の私室から見つかった黒い封蝋の手紙。

 その燃え残りにあった一文と、ヴァレリアの言葉は、明らかに響き合っている。


 まだ軽い。

 まだ軽くはない。


 それは、アリアの名が何かの秤に載せられているということだった。


 誰かが、彼女の婚約者としての重さを測っている。

 以前は軽いと見ていた。

 けれど今は、そう簡単に軽いとは言えなくなっている。


 そういう意味なのだろう。


「お嬢様」


 隣を歩くリナが、小さく声をかけた。


「先ほどの言葉……」


「ええ。聞こえていたわ」


「黒い封蝋の手紙と、同じ意味合いでしょうか」


「おそらく」


 アリアは前を向いたまま答えた。


「でも、まったく同じではないわね」


「違うのですか?」


「ええ」


 まだ軽い、は見下しだ。

 まだ軽くはない、は評価の更新。


 認められたわけではない。

 味方だと思われたわけでもない。


 ただ、以前のようには扱えない相手だと認識された。


 それだけのことなのに、胸の内側に妙な重さが生まれている。


 嬉しいとは違う。

 怖いとも少し違う。


 自分の立っている場所が、一段高くなった。

 そのぶん、風も強くなった。


 そんな感覚だった。


 小会議室へ戻ると、レオンハルトはすでにそこにいた。


 机の上には、今日の相談会の出席名簿、セルディア若夫人から届いた書状、そして黒い封蝋の燃え残りに関する記録が並べられている。


 ユリウスが、アリアの到着を待っていたように顔を上げた。


「お戻りですね」


「はい」


「ヴァレリア男爵夫人との会話は、廊下で聞いた分だけでは足りません。詳しく聞かせてください」


「分かりました」


 アリアは席に着き、順に話した。


 名簿にない出席者だったこと。

 香油や文具商に詳しいと自ら語ったこと。

 黒葉は喪ではなく再生の意匠だと言ったこと。

 落ちた葉が土を肥やすように、と表現したこと。

 そして、去り際に残した一言。


 まだ軽くはありませんのね。


 そこまで話すと、ユリウスは目を伏せた。


「やはり、黒い封蝋の文言とつながりますね」


 レオンハルトも短く言った。


「偶然ではない」


「はい」


 ユリウスは燃え残りの記録を指先で軽く叩いた。


「“婚約者の名は、まだ軽い”。フェルナー伯爵夫人を焚きつけた何者かは、当時そう見ていた。ところが今、ヴァレリア男爵夫人は“まだ軽くはない”と言った」


「つまり」


 アリアは静かに息を吸った。


「黒枝会の中で、私の評価が変わっている?」


「そう見るべきでしょう」


 ユリウスの声は冷静だった。


「フェルナー事件の処理、王宮内での立ち方、今日の相談会での返答。それらを見て、彼女たちはあなたを以前より重い存在として測り直している」


 重い存在。


 それは、望んでいたことだったのだろうか。


 アリアは一瞬、答えを見つけられなかった。


 婚約者の名を軽く扱わせない。

 確かに、そう思ってきた。


 自分の署名を偽造され、殿下の名に疑いを向けられ、王宮の手続きを歪められた。

 だから、自分の名は誰かの道具ではないと示さなければならなかった。


 けれど、名が重くなれば、今度は別の意味で見られる。


 取り込めるか。

 利用できるか。

 危険か。

 潰すべきか。


 軽くないということは、守られるだけの存在ではないということだ。

 同時に、狙う価値があるということでもある。


「嬉しくは、ありませんね」


 ぽつりと漏れた。


 レオンハルトがこちらを見る。


「何がだ」


「軽く見られなくなったことは、悪いことではないのでしょう。でも……」


 アリアは言葉を探した。


「重くなれば、それだけ誰かの秤に載せられるのですね」


 ユリウスが小さく頷く。


「ええ。王宮では、軽い者は踏まれます。重い者は測られます」


「どちらも大変ですね」


「はい。ですが、踏まれるよりは測られる方がいい」


 ユリウスの返答は現実的だった。


 レオンハルトは、少しだけ低い声で言った。


「君の名が重くなった証拠だ」


「殿下」


「何だ」


「それは、喜ぶべきことですか」


「喜ぶ必要はない」


 即答だった。


「だが、受け取る必要はある」


 アリアは目を伏せた。


 喜ぶ必要はない。

 受け取る必要はある。


 その言葉は、今の自分にちょうどよかった。


 婚約者として積み重ねてきたものが、周囲へ届き始めている。

 それは確かに成果なのだろう。


 だが、成果には影がつく。


 名が重くなるとは、そういうことなのかもしれない。


「ヴァレリア男爵夫人は、黒枝会の中心でしょうか」


 アリアが尋ねると、ユリウスは首を振った。


「おそらく違います。中心というより、香油や紙、封蝋といった道具を通じて夫人たちをつなぐ役目。連絡役、あるいは周辺の通訳者に近い」


「通訳者?」


「黒葉の意匠に意味を与え、若い夫人たちへ広める者です」


 黒葉は、喪ではなく再生の意匠。

 落ちた葉が土を肥やす。


 あの言葉は、ただの個人的な解釈ではなかったのだろう。


 誰かが与えた意味。

 あるいは、黒葉を身につける者たちの間で共有されている物語。


「セルディア若夫人は?」


「彼女は黒葉に近すぎます」


 ユリウスは少し考えるように言った。


「自分が黒葉であることを見せたがっている。胸元の刺繍、書状の香り、相談会の場づくり。どれも少し目立ちすぎる」


「つまり、中心ではない?」


「中心に近づきたい者、かもしれません」


 アリアは、セルディア若夫人の柔らかな笑みを思い出した。


 こちら側の空気に慣れていただければ。


 あの言葉は、誘いのようであり、試しでもあった。


 けれど本当に彼女が黒枝会の中心なら、あそこまで分かりやすく黒葉を見せるだろうか。


 答えはまだ出ない。


「黒枝会は、私を潰したいのでしょうか」


 アリアは、ずっと胸に引っかかっていた問いを口にした。


 レオンハルトとユリウスが、ほぼ同時にこちらを見る。


 アリアは続けた。


「フェルナー伯爵夫人は、私を揺らそうとしました。婚約者として不適切に見せようとした。でも、今のセルディア若夫人やヴァレリア男爵夫人は、それだけではない気がします」


「どう見える」


 レオンハルトが問う。


「測っているように見えます」


 アリアは言った。


「潰せるか。取り込めるか。利用できるか。危険視すべきか。それを見ているように」


 ユリウスが、静かに目を細めた。


「同意見です」


「そうですか」


「黒枝会が単純に敵対するだけの集まりなら、もっと分かりやすく攻撃してくるでしょう。ですが、彼女たちは意匠や香りや言葉で距離を測っている。つまり、あなたを“対象”として見ている」


「対象」


「観察対象から、試験対象へ移りつつある」


 試験対象。


 その言葉に、アリアの背筋が少し冷えた。


 フェルナー事件の時も、確かに試されていた。

 怒るか。

 崩れるか。

 レオンハルトの名を私物化するか。

 使用人を切り捨てるか。


 そして今度は、黒葉の意匠を受け入れるか、香りに気づくか、名簿にない人物を見逃すかを試されている。


「迷惑ですね」


 思わず本音が出た。


 ユリウスが軽く咳払いをする。


「それは、かなり率直ですね」


「すみません」


「いえ、正しい感想です」


 レオンハルトも短く言った。


「迷惑だな」


 そのあまりに普通の言い方に、アリアは少しだけ笑ってしまった。


 重い話をしているはずなのに、彼が当然のようにそう言うだけで、妙に息がしやすくなる。


「ただ」


 ユリウスが名簿へ視線を落とした。


「迷惑であっても、相手が測っているなら、こちらも測れます」


「相手を?」


「ええ。今日の相談会で、相手は黒枝樹脂の香りを場全体に広げた。これは危険です。けれど同時に、手がかりを残した」


 そこへ、扉が叩かれた。


 入ってきたのは女官長補佐だった。

 彼女の表情は、いつもより少し硬い。


「失礼いたします」


「何か出たか」


 レオンハルトが問う。


「はい。西小サロンの片づけ後、花瓶と布飾りを確認いたしました」


 アリアは思わず身を乗り出しそうになり、途中で自分を止めた。


「黒枝樹脂の香りは、どこから?」


 ユリウスが聞く。


「花瓶の水です」


 部屋の空気が一瞬で変わった。


 女官長補佐は続ける。


「四つの花瓶のうち、三つから極薄い香料が検出されました。花の香りに紛れる程度ですが、部屋全体へ広げるには十分です。人体に害はありません」


「黒枝樹脂そのものか」


「正確には、黒枝樹脂に似せた香料です。香油に薄く溶かしてあります」


 やはり。


 アリアは胸の奥で静かに息を吐いた。


 誰か一人が身につけていたのではない。

 部屋そのものが、黒枝の香りをまとわされていた。


「誰が花瓶を準備した」


 レオンハルトの声が低くなる。


「王宮の花係です。ただし、通常の水に加えて“花を長持ちさせる水”を入れるよう指示されたと」


「誰から」


「現在確認中です。花係は、セルディア若夫人側の侍女から渡された小瓶を使ったと話しています」


 ユリウスが低く言った。


「小瓶は?」


「空です。残留香料はわずかにあります」


「花係は、香料だと知っていたのか」


「知らなかったようです。花持ちをよくする薬液だと説明されたと」


 アリアは、フェルナー事件の時のマリーナを思い出した。


 そして同時に、違いも感じた。


 マリーナは罪を理解した上で手を動かした。

 だが、この花係は本当に知らなかった可能性が高い。


 また、弱い立場の者へ罪が落ちかけている。


「その花係を、責めないでください」


 アリアは反射的に言っていた。


 女官長補佐がこちらを見る。


 アリアは言葉を整え直した。


「もちろん、事実確認は必要です。でも、知らずに使わされたのであれば、黒枝会の枝として扱うべきではありません」


 レオンハルトの視線が、静かにアリアへ向いた。


 ユリウスが頷く。


「同意します。まずは保護と聞き取りですね」


 女官長補佐も深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 アリアは胸の中の緊張を押さえた。


 相談会は、ただの接触ではなかった。


 花瓶の水に香料を混ぜ、部屋全体へ黒枝樹脂の気配を漂わせる。

 それは、その場にいる黒葉の者たちへの合図でもあり、アリアへの試験でもあったのだろう。


 あなたは気づくか。

 気づいても、誰を責めるか。

 花係を疑うか。

 セルディア若夫人を問うか。

 ヴァレリア男爵夫人の言葉に乗るか。


 すべてが、測られている。


「……本当に、迷惑ですね」


 今度は、ユリウスが少しだけ笑った。


「ええ。かなり」


 しかし笑みはすぐに消える。


「ですが、はっきりしました。相談会そのものが、ルーヴェルト嬢への試験です」


「試験」


「はい。黒枝会は、あなたが黒枝樹脂の香りに気づくか、黒葉の意味をどう受け取るか、そして名簿にないヴァレリア男爵夫人をどう扱うかを見ていた」


「その結果は、もう報告されているのでしょうか」


「おそらく」


 ユリウスは答えた。


「ヴァレリア男爵夫人が、その役目を持っていた可能性が高い」


 アリアは窓の外を見た。


 夕方の光が、王宮の庭に淡く落ちている。

 花は美しい。

 けれど、その水に何かを混ぜれば、香りも意味も変わってしまう。


 王宮の社交も同じなのだろう。


 見た目には華やかな花の場。

 その下で、誰かが水に香りを落としている。


「殿下」


「何だ」


「私の名が重くなったというなら」


 アリアは静かに言った。


「その重さで、まずは弱い立場の方に罪が落ちないようにしたいです」


 レオンハルトはしばらくアリアを見た。


「ああ」


 短く、けれど確かな返事だった。


「それでいい」


 黒枝会は、アリアを測っている。


 ならばアリアも、自分が何を重さとして持つのかを示さなければならない。


 婚約者の名は、もう軽くない。

 だからこそ、その名を誰かを踏むためではなく、誰かに余計な罪が落ちるのを止めるために使う。


 それが、今のアリアの答えだった。

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