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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第116話 婚約者の怒りは、誰かを守るためにある

 翌朝、アリア・フォン・ルーヴェルトは鏡の前で、いつもより少し長く自分の顔を見ていた。


 顔色は悪くない。

 目元も腫れていない。

 髪も整っている。

 ドレスも、王宮へ向かうのにふさわしい落ち着いた色だ。


 どこから見ても、皇太子の婚約者として乱れのない姿。


 けれど、それは外側の話だった。


 胸の奥には、昨日の言葉がまだ残っている。


 冷酷。

 私怨。

 悪役令嬢が、本当に人を裁く側に回った。


 どれも、直接ぶつけられたわけではない。

 廊下の端で囁かれ、令嬢たちの目の奥に浮かび、手紙の遠回しな文面に滲んでいたものだ。


 だからこそ、余計に消えにくかった。


 正面から言われた言葉なら、返すことができる。

 けれど噂は違う。

 形がない。

 追えば逃げる。

 否定すれば、否定したこと自体がまた次の噂になる。


 アリアは小さく息を吐いた。


「……難しいわね」


 ぽつりと呟くと、背後でリナが髪飾りを整える手を止めた。


「お嬢様」


「何?」


「本日は、無理をなさらなくてもよろしいのではありませんか」


 その言葉は、いつものリナらしく控えめだった。

 だが、そこに心配が滲んでいるのは分かった。


 アリアは鏡越しに微笑む。


「ありがとう。でも、休めばまた別の噂になるわ」


「それは……そうかもしれませんが」


「婚約者が傷ついて閉じこもった。やはり冷静ではなかった。フェルナー家の件を気に病んでいる。……どれでも好きに言えるでしょう?」


 自分で言って、少し嫌になる。


 でも、たぶんそうだ。


 社交界は、沈黙にすら勝手な意味をつける。

 ならば、今日も出るしかない。


「それに」


 アリアは鏡の中の自分へ向き直った。


「昨日、殿下に言われたの。誰かに悪く言われることと、私が間違っていることは同じではない、と」


「殿下らしいお言葉ですね」


「ええ。慰めとしては、かなり硬いけれど」


 リナが小さく笑った。


「でも、お嬢様には届いたのですね」


「届いたわ」


 アリアは頷く。


「だから今日は、確かめに行くの」


「何をでしょう」


「私の怒りが、何のためにあったのか」


 その言葉を口にすると、胸の奥が少しだけ落ち着いた。


 怒り。

 自分は確かに怒っていた。


 自分の名を偽造されたことに。

 レオンハルトの名へ疑いを向けられそうになったことに。

 マリーナ一人へ罪を被せようとされたことに。

 エミリアの未来まで、母の野心の道具にされかけたことに。


 それを冷酷と呼ばれるなら、呼ばせればいい。

 そう強がるほど、まだ強くはない。


 けれど、怒った理由まで手放してはいけない。


 王宮へ向かう馬車の中、アリアは窓の外を見ていた。


 王都の朝はいつも通り賑やかだ。

 店先の布が広げられ、職人たちは道具箱を抱え、貴族家の馬車が石畳を渡っていく。


 この街の人々にとって、フェルナー伯爵夫人の件など遠い話だ。

 けれど社交界の中では、もう十分に大きな波になっている。


 波は、今日もどこかでアリアの足元を濡らすだろう。


 王宮へ着くと、女官たちの礼は昨日と同じように深かった。


 だが、昨日ほど硬くはない。

 アリアがいつも通りに歩いていることで、少しだけ安心した者もいるのかもしれない。


 それでも、視線はある。


 遠くから見る目。

 言葉を選びながら近づく目。

 何かを言いたげで、結局何も言わない目。


 アリアはそれらを受け止めながら、南翼の小会議室へ向かった。


 今日の午前は、王宮内の慈善委員会の追加確認がある。

 フェルナー伯爵夫人が外れたことで、彼女が担当していた部分を誰が引き継ぐか。

 そこを整える必要があった。


 皮肉な話だと思う。


 偽造署名事件の後始末をしながら、同時に慈善行事の準備も止めてはいけない。

 罪が暴かれても、王宮の仕事は続く。

 むしろ、誰かが欠けた分だけ、残った者が整えなければならない。


 会議室へ入ると、女官長補佐と数名の夫人たちがすでに待っていた。


 その中には、昨日までフェルナー伯爵夫人と近しく話していた夫人もいる。

 彼女たちはアリアを見ると、少しだけ緊張した顔で礼を取った。


「ルーヴェルト様」


「本日もよろしくお願いいたします」


 アリアは静かに礼を返す。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 会議は、最初のうちはぎこちなかった。


 フェルナー伯爵夫人の名を誰も出さない。

 だが、彼女が抜けた穴の話をしている以上、その名は常に机の上にある。


「東区の慰問先への文面ですが……」


 女官長補佐が資料を示す。


「こちらは、これまでフェルナー伯爵夫人が窓口を担っておられました。今後は王宮内務側で直接引き取る形にした方がよろしいかと」


 夫人の一人が、遠慮がちに言った。


「それがよろしいでしょうね。下手にどこかの家が引き受けますと、また余計な憶測を呼びますもの」


 また、という言葉に、場がわずかに止まる。


 夫人はすぐに口を閉ざした。

 自分でも不用意だと思ったのだろう。


 アリアは何も言わなかった。


 ここで反応すれば、かえって相手を萎縮させる。


 代わりに、資料へ目を落とす。


「東区の慰問先は、子どもたちの数が多いのですよね」


「はい」


「でしたら、窓口は内務側へ戻したうえで、贈答品の選定だけは現地の記録を持っている方に確認した方がよいと思います。フェルナー伯爵夫人が担っていた部分を、すべて消すのではなく、必要な情報だけ引き継ぐ形で」


 その言葉に、部屋の空気が少し変わった。


 フェルナー伯爵夫人の罪と、彼女がこれまで担ってきた実務。

 それを混ぜずに分ける。


 夫人の一人が、ほっとしたように頷いた。


「それなら、慰問先にも影響が少ないでしょう」


「ええ」


 アリアは静かに返す。


「子どもたちには、こちらの事情は関係ありませんから」


 言ってから、自分の胸にその言葉が落ちた。


 そうだ。


 怒りはある。

 でも、その怒りで慈善行事を止めてはいけない。

 フェルナー伯爵夫人が関わっていたものを全部忌避すれば、結局困るのは慰問先の人々だ。


 怒りは、誰かを守るためにある。

 傷つけるためだけに使えば、自分も同じように何かを壊してしまう。


 会議は、そこから少しずつ動き始めた。


 フェルナー伯爵夫人の担当箇所は王宮内務へ戻す。

 ただし彼女が残していた実務記録は確認し、使えるものは使う。

 マリーナが関わっていた文書は再点検する。

 だが、彼女の書いた全てを無条件に破棄するのではなく、内容を精査する。


 罪を犯した者が関わったからといって、すべてを燃やせばいいわけではない。


 その線引きは、思った以上に神経を使った。


 会議の終わり際、年配の夫人がそっと声をかけてきた。


「ルーヴェルト様」


「はい」


「本日は……少し驚きました」


 その言い方に、悪意はなかった。


「驚いた、ですか」


「ええ。フェルナー伯爵夫人に関わるものは、もっと厳しく退けられるかと」


 正直な言葉だった。


 アリアは少しだけ苦笑する。


「私も、そうしたくなる気持ちはあります」


 夫人の目が、わずかに見開かれた。


 おそらく、そんなふうに正直に返されるとは思っていなかったのだろう。


「ですが、怒りに任せて全部を退ければ、守るべきものまで壊してしまいますから」


 夫人はしばらく黙っていた。


 やがて、深く礼を取る。


「失礼いたしました」


「いいえ。私自身、確認しながら進めております」


 その返答で、夫人の顔が少しだけ和らいだ。


 会議室を出たあと、リナが小声で言った。


「お嬢様」


「何?」


「今のお言葉、きっと伝わりました」


「そうかしら」


「はい。少なくとも、あの夫人には」


 そうならいいと思った。


 全員に分かってほしいとは思わない。

 そんなことはきっと無理だ。


 けれど、一人でも、正しく見てくれる人が増えるなら。

 それは小さな支えになる。


 昼過ぎ、アリアはレオンハルトに呼ばれた。


 小会議室へ入ると、彼は机の前で書類を読んでいた。

 ユリウスはいない。珍しく二人だけだった。


「来たか」


「はい」


「午前の会議の話は聞いた」


「早いですね」


「早く聞くようにしている」


「隠す気がないのですね」


「ない」


 いつも通りの即答に、アリアは少し笑った。


 レオンハルトは書類を置き、アリアを見る。


「よく分けたな」


「分けた?」


「罪と実務だ」


 アリアは、午前の会議を思い出す。


「……分けられていましたか」


「ああ」


「フェルナー伯爵夫人に関わるものを全部退けたい気持ちも、少しありました」


「だろうな」


「でも、それをすると慰問先が困ります。フェルナー伯爵夫人の罪を裁くことと、彼女が担っていた仕事の記録を確認して使うことは、同じではないと思いました」


 レオンハルトは静かに頷いた。


「それでいい」


 その言葉に、胸が少しだけ軽くなる。


 アリアは、ふと昨日の話を思い出した。


「殿下」


「何だ」


「昨日、私の怒りは誰かを守る怒りだったとおっしゃいましたね」


「ああ」


「今日、少しだけ分かった気がします」


 レオンハルトは黙って続きを待った。


「怒りは、ただ相手を退けるためだけに使うものではないのですね」


 言葉を探しながら続ける。


「フェルナー伯爵夫人を許すわけではありません。マリーナの罪も消えません。でも、だからといって、二人が触れたものを全部壊してしまえば、その先にいる人たちまで傷つく」


 レオンハルトの視線が、少しだけ柔らかくなる。


「だから、怒りながらでも、残すものは残さなければならないのだと思いました」


「そうだな」


 短い肯定。


 けれど、今のアリアには十分だった。


「怒りは、誰かを守るためにある」


 レオンハルトが静かに言った。


「自分を守るためでもいい。誰かの名を守るためでもいい。秩序を守るためでもいい。ただし、怒りそのものを目的にするな」


 その言葉は、胸に深く落ちた。


「怒ることが目的になると?」


「ただ壊す」


 レオンハルトは淡々と答える。


「君は今日、壊さなかった」


 アリアは、少しだけ目を伏せた。


「壊したい気持ちがなかったわけではありません」


「それでいい」


「いいのですか」


「ああ」


 彼は迷いなく言う。


「壊したい気持ちを知っている者の方が、壊さない選択の重さを分かる」


 その言葉に、アリアはしばらく何も言えなかった。


 この人は、慰めが下手だ。

 けれど時々、本当に必要な言葉だけを置く。


 それがずるいと思う。


「殿下」


「何だ」


「今日のは、慰めとして少し上手でした」


 そう言うと、レオンハルトはわずかに眉を動かした。


「そうか」


「はい」


「なら覚えておく」


「覚えるほどのものではありません」


「君が評価した」


「評価というほどでは」


「なら、次も使う」


「同じ言葉を毎回使うと、途端に下手になります」


 レオンハルトは、少しだけ考える顔をした。


「難しいな」


 あまりに真面目に言うので、アリアは思わず笑ってしまった。


 昨日より、少し自然に笑えた気がした。


 その笑みを見て、レオンハルトの目元がかすかに和らぐ。


「少し戻ったな」


「何がですか」


「顔色だ」


「また顔色ですか」


「大事だ」


「殿下は本当に、私の顔色ばかり見ていらっしゃいますね」


「必要だからな」


 まるで公務の一部のように言う。


 だが、その言葉の奥にある心配を、今のアリアはちゃんと分かっていた。


「ありがとうございます」


 素直にそう言うと、レオンハルトは少しだけ目を細めた。


「礼はいらない」


「言いたかったのです」


「そうか」


 短いやり取りのあと、二人の間に静かな沈黙が落ちた。


 重い沈黙ではなかった。

 少しだけ息を整えるための沈黙。


 やがて、レオンハルトが口を開く。


「フェルナー伯爵夫人の処分は、まだ決まっていない」


「はい」


「重臣たちの意見は割れるだろう」


「厳罰を望む方も?」


「当然いる」


 アリアは小さく頷いた。


「私も、意見を求められるのでしょうか」


「求められる」


 即答だった。


 覚悟していたはずなのに、胸が重くなる。


「私は、どう言えばよいのでしょう」


「自分で考えろ」


「殿下」


「ただし」


 レオンハルトは続けた。


「君の怒りだけで決めるな」


「……はい」


「そして、君の優しさだけでも決めるな」


 その言葉に、アリアは顔を上げた。


「怒りだけでも、優しさだけでもない」


「ああ」


 レオンハルトは静かに言う。


「何を守るための処分か。それを見ろ」


 処分。

 罰。

 家の扱い。

 エミリアの未来。

 マリーナの証言。

 王宮の秩序。

 レオンハルトの名。

 そして、アリア自身の名。


 考えるべきものが多すぎる。


 でも、それが婚約者として立つということなのだろう。


「分かりました」


 アリアは静かに答えた。


「すぐには答えを出せないと思います」


「すぐ出すな」


「はい」


「考えろ」


「はい」


 厳しい。

 でも、逃がさない優しさでもあった。


 その日の夕方、アリアは王宮の庭を少し歩いた。


 リナは少し後ろで控えている。

 春の花は、事件のことなど何も知らないように咲いていた。


 白い小花。

 淡い紫の花。

 風に揺れる若葉。


 その穏やかさが、今日は少しありがたかった。


 怒りは消えない。

 社交界の噂も消えない。

 フェルナー伯爵夫人の言葉も、まだ胸に残っている。


 王宮で愛される女ほど、憎まれる。


 けれど、今はその言葉に飲まれきってはいなかった。


 誰かに憎まれるかもしれない。

 冷酷と呼ばれるかもしれない。

 それでも、怒るべき時に怒らなければ、守れないものがある。


 アリアは庭の先に見える王宮の白い壁を見上げた。


 婚約者の怒りは、誰かを守るためにある。


 その言葉を、今日ようやく少しだけ自分のものにできた気がした。

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