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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第115話 社交界は、婚約者を冷酷と呼ぶ

 噂というものは、雨よりも早く王都を濡らす。


 フェルナー伯爵夫人への再聴取が行われた翌朝、アリア・フォン・ルーヴェルトは、そのことを嫌というほど思い知らされた。


 王宮の中では、まだ正式な発表などされていない。

 フェルナー伯爵夫人の処分も決まっていない。

 侍女マリーナの証言も、黒い封蝋の手紙の存在も、ごく限られた者しか知らないはずだった。


 それでも、王都の社交界はもう動いていた。


 正確な事実など知らなくても、人は話を作る。

 断片だけを拾い、足りない部分を想像で埋め、都合のよい形へ整える。


 そうして出来上がった噂は、時に真実よりも強く人の口を渡る。


 朝、王宮へ向かう前に届いた手紙の束を見ただけで、アリアはそれを理解した。


 祝意ではない。

 問い合わせでもない。


 遠回しな探り。

 不自然に丁寧な見舞い。

 そして、いかにも心配しているように見せかけた牽制。


 リナが手紙を選り分けながら、眉を寄せた。


「お嬢様。こちらは……」


「読まなくても分かるわ」


 アリアは静かに言った。


 封筒の差出人を見ただけで、内容はおおよそ察しがつく。


 “ルーヴェルト様がご心労を抱えていないか案じております”

 “フェルナー家の件、まことしやかに囁かれておりますが、どうかお気を強く”

 “婚約者という立場は、時に冷静なご判断を求められますものね”


 全部、言葉は綺麗だ。


 けれど奥にあるのは、同じ問いだった。


 ――あなたは本当に、冷静だったのですか。

 ――怒りで相手を追い詰めたのではありませんか。

 ――皇太子の婚約者になった途端、裁く側へ回ったのですか。


 アリアは、手紙の束から視線を外した。


「王宮へ行きましょう」


「……はい」


 リナはそれ以上何も言わなかった。


 王宮へ着くと、空気は昨日までとは少し違っていた。


 女官たちの態度が冷たくなったわけではない。

 むしろ、深く礼を取る者は増えている。

 けれど、その礼の中に、ほんのわずかな緊張が混じっているのをアリアは感じた。


 恐れ、というほど露骨ではない。

 だが、距離を測られている。


 婚約者の名を偽造された被害者。

 同時に、フェルナー伯爵夫人を追い詰めた者。


 その二つの顔を、王宮の人々はどう扱えばよいのか迷っているのだ。


 廊下の角で、若い女官が二人、小声で話しているのが聞こえた。


「……でも、フェルナー伯爵夫人をあそこまで」

「仕方ないでしょう。署名を……」

「それはそうだけど、ルーヴェルト様はお優しい方だと思っていたから」

「優しいからこそ怒ったのでは?」

「でも、少し怖いわ」


 最後の言葉だけが、アリアの耳に残った。


 少し怖い。


 その言葉は、思ったより深く刺さった。


 リナがすぐ後ろで足を止めかける。

 アリアは小さく首を振った。


 聞こえなかったふりをして歩く。


 今ここで立ち止まれば、女官たちを怯えさせるだけだ。

 それこそ、“怖い婚約者”という印象を強めることになる。


 だから歩く。

 いつも通りに。


 けれど胸の奥は、静かに痛んでいた。


 その日の学園では、さらに分かりやすかった。


 正門を通った瞬間から、視線が集まる。

 いつものことだ。

 だが今日の視線は、祝福でも探りでもない。


 遠巻きのざわめき。


「フェルナー伯爵夫人が王宮で……」

「偽造って本当なの?」

「でも、ルーヴェルト様がかなり厳しく出たって」

「婚約者の名を使われたなら当然では?」

「でも、フェルナー家ごと終わるかもしれないって聞いたわ」

「怖いわね。悪役令嬢って呼ばれていた方が、今度は本当に……」


 そこで言葉は途切れた。


 アリアが近づいたからだ。


 令嬢たちは慌てて礼を取る。

 形は整っている。

 だが、その頬には気まずさが残っていた。


 アリアは責めなかった。

 微笑んで、短く挨拶を返す。


「おはようございます」


 それだけ。


 それだけなのに、令嬢たちはほっとしたような、さらに怯えたような顔をした。


 アリアは通り過ぎる。


 胸の中で、フェルナー伯爵夫人の言葉がよみがえった。


 ――王宮で愛される女ほど、憎まれるのだと。


 違う、とレオンハルトは言った。

 憎む者は、愛されていなくても理由を作る、と。


 分かっている。

 分かっているはずなのに、今日のアリアには、その言葉が少しだけ遠かった。


 教室に入ると、エレノアがすぐに駆け寄ってきた。


「アリア様!」


 いつもより声が大きい。

 そして、明らかに怒っている。


「おはよう、エレノア」


「おはようございます! ではございません!」


 エレノアはきっと周囲を気にして声を落とそうとしたのだろう。

 しかし怒りが勝ったらしく、結局それなりに響く声で続けた。


「なんですの、あの噂は!」


「噂?」


「とぼけないでくださいませ。朝からずっとですわ。アリア様がフェルナー家を私怨で追い詰めたとか、婚約者になってから冷酷になったとか、悪役令嬢と呼ばれていた方が今度は本当に人を裁く側に回ったとか!」


 最後の方は、もはや怒鳴る一歩手前だった。


 周囲の令嬢たちが一斉にこちらを見る。


 アリアは思わず小さく苦笑した。


「エレノア、少し声が」


「構いませんわ!」


「構うわ」


「構いません! むしろ聞こえるように言っていますの!」


 どうやら本気らしい。


 エレノアは胸に手を当て、きっぱりと言い放った。


「正しく怒る人を冷酷と呼ぶなら、社交界なんて一度全員辞書を引き直すべきですわ!」


 教室が静まり返った。


 あまりに勢いがよくて、アリアは一瞬、言葉を失った。


「辞書……」


「ええ、辞書です! “冷酷”と“正当な怒り”の違いを、赤線を引いて覚えるべきです!」


 エレノアはまだ止まらない。


「だいたい、アリア様のお名前が偽られたのでしょう? 王宮の手続きも歪められかけたのでしょう? それで怒らなかったら、逆にどうかしておりますわ。微笑んで“まあ仕方ありませんわね”などと言う婚約者の方が、私は怖いです!」


 何人かの令嬢が、気まずそうに視線を落とした。


 エレノアの言葉は、見事に周囲へ刺さっていた。


 アリアは小さく息を吐く。


「ありがとう、エレノア」


「感謝されるほどのことではありません。私は事実を申し上げただけです」


「でも、少し落ち着いて」


「落ち着いております」


「今のが?」


「はい。私が本当に落ち着いていなかったら、今ごろ黒板に社交界用語講座を書き始めています」


 思わず、アリアは笑ってしまった。


 久しぶりに、声が少し漏れた。


 その笑いに、張りつめていた教室の空気がわずかに緩む。


 エレノアも、ようやく少しだけ表情をやわらげた。


「……笑ってくださったなら、よかったです」


 その小さな声に、アリアは胸が温かくなる。


 怒ってくれる人がいる。

 自分の代わりに、噂へ腹を立ててくれる人がいる。


 それが、思っていた以上に救いだった。


 昼休み、令嬢用サロンへ行くと、空気はさらに複雑だった。


 アリアが入った瞬間、会話が一度止まる。

 それからすぐに、何事もなかったように戻る。


 だが、それがかえって不自然だった。


 少し離れた席にいた伯爵令嬢が、アリアをちらりと見て、すぐに視線を伏せる。

 別の令嬢は、近づきかけて迷い、結局別の輪へ戻った。


 誰も直接悪くは言わない。

 けれど空気が語っている。


 近づいていいのか分からない。

 慰めるべきか、距離を置くべきか分からない。

 そして少し、怖い。


 アリアは席へ座り、カップを手に取った。


 紅茶の香りはいつも通りだった。

 けれど味がうまく分からない。


 エレノアが向かいへ座る。


「アリア様」


「大丈夫よ」


「大丈夫ではないお顔です」


「今日は、あなたも遠慮がないわね」


「リナ様に弟子入りしたいくらいですわ」


 その言葉に、アリアはまた少し笑った。


 けれどすぐに、視線を落とす。


「……正しいことをしても、人はこんなふうに見るのね」


 ぽつりと漏れた言葉だった。


 エレノアの表情が変わる。


 アリアはカップを見つめたまま続けた。


「私の名を使われたことは事実よ。偽造文書もあった。マリーナの証言も、封蝋の証拠もある。フェルナー伯爵夫人が関わっている可能性は高い」


「ええ」


「でも、周りから見れば、私は皇太子殿下の婚約者で、相手は伯爵家の夫人。私が強く出れば、私怨に見える。私が黙れば、何か隠しているように見える。私が怒れば冷酷で、怒らなければ弱い」


 言葉にしていくうちに、胸の奥に溜まっていたものが少しずつ形になる。


「どう立っても、誰かは悪く言うのね」


 エレノアはすぐには答えなかった。


 珍しいことだった。

 いつもなら、すぐに勢いよく何か言ってくれるのに。


 しばらくして、彼女は静かに言った。


「それでも、アリア様が間違っていることにはなりません」


 アリアは顔を上げる。


「エレノア」


「私、全部の事実を知っているわけではありません。でも、アリア様が何かを私怨で壊そうとする方ではないことは知っています」


 その声は、いつもの勢いとは違っていた。

 落ち着いて、深く届く声だった。


「噂は、アリア様の全部を知りません。噂は、マリーナ様が泣いた理由も、エミリア様がどれほど苦しむかも、アリア様がどれほど悩んでいるかも知りません。ただ、外側だけを面白がっているのです」


 エレノアは、少しだけ唇を引き結んだ。


「だから、悔しいです」


 その言葉に、アリアの胸が熱くなった。


「……ありがとう」


「はい。何度でも怒ります」


「それは心強いけれど、黒板講座はやめてね」


「必要ならやります」


「やめてね」


「前向きに検討します」


「それは、やる人の返事よ」


 少しだけ、空気が和らいだ。


 だが、その日の午後になっても、視線は消えなかった。


 廊下を歩けば囁きが止まる。

 教室へ戻れば、誰かが慌てて話題を変える。

 教師たちは表向き何も触れないが、いつもより少しだけアリアへ気を遣っている。


 すべてが、じわじわと疲れを積もらせた。


 王宮へ戻った頃には、アリアは自分で思う以上に消耗していた。


 小会議室へ入ると、レオンハルトとユリウスがいた。


 レオンハルトはアリアを見るなり、すぐに言った。


「顔色が悪い」


「最近、そればかり言われています」


「悪いからだ」


 あまりに容赦がなくて、少しだけ笑いそうになった。


 ユリウスが席を勧める。


「社交界の噂が学園まで届きましたか」


「ええ。かなり」


「早いですね」


「早いです」


 アリアは椅子に座り、息を吐いた。


 レオンハルトが問う。


「何と言われた」


「私怨でフェルナー家を追い詰めている、と。婚約者になって冷酷になった、と。……悪役令嬢と呼ばれていた者が、今度は本当に人を裁く側に回った、とも」


 最後の言葉を言う時だけ、少し喉が詰まった。


 レオンハルトの目が冷える。


 だが怒鳴りはしない。


「誰が言った」


「殿下」


「名を言え」


「それでは本当に冷酷な婚約者になってしまいます」


 アリアがそう返すと、ユリウスが小さく咳払いをした。


 レオンハルトは不満そうだったが、それ以上は聞かなかった。


「君は、どう思った」


 代わりにそう問われる。


 アリアは少しだけ黙った。


「傷つきました」


 正直に答える。


「正しいことをしても、こんなふうに見られるのだと思いました」


「ああ」


「それから、少し怖くなりました」


「何がだ」


「これから先、私は何をしても、誰かにそう見られるのではないかと」


 レオンハルトは、すぐには答えなかった。


 少しの沈黙のあと、低く言う。


「その通りだ」


 アリアは目を瞬いた。


「殿下」


「君が何をしても、誰かは悪く言う」


「……慰め方が、本当にお下手ですね」


「嘘は言わない」


「存じています」


 思わず苦笑した。

 けれど、不思議と少しだけ気持ちが落ち着く。


 甘い慰めを言われるより、今はこの方がいいのかもしれない。


 レオンハルトは続けた。


「だが、誰かに悪く言われることと、君が間違っていることは同じではない」


 その言葉に、アリアは静かに息を吸った。


「君の怒りは、自分の名誉だけを守るものではなかった」


 低い声が、まっすぐ届く。


「王宮の手続き、使用人に押し付けられる罪、私の名へ向けられる疑い。それを守る怒りだった」


 昼、エレノアが言ってくれたことと重なる。


 噂は、全部を知らない。

 アリアが何を見て、何に怒り、何を守ろうとしたのかを知らない。


 知らない者の言葉に傷つくのは仕方ない。

 けれど、それで自分の見てきたものまで疑ってはいけないのだ。


「……私は、冷酷なのでしょうか」


 問いは小さかった。


 レオンハルトは、迷いなく答えた。


「違う」


 短い。

 あまりに短い。


 でも、その一言には一切の揺れがなかった。


「君が冷酷なら、マリーナの証言保護など望まない。エミリアの扱いに苦しみもしない。フェルナー家を家ごと潰せばいいと言ったはずだ」


 ユリウスも静かに頷く。


「冷酷な方は、自分が冷酷かどうかで悩みませんよ」


「そういうものですか」


「ええ。大抵は、自分の冷酷さを正義と呼びます」


 辛辣だった。


 アリアは少しだけ目を伏せ、それから小さく笑った。


「では、私はまだ大丈夫なのかもしれません」


「少なくとも、冷酷ではありません」


 ユリウスが言う。


「ただ、甘いだけでもなくなりました」


 それはきっと、褒め言葉なのだろう。


 レオンハルトが静かに言った。


「明日以降、噂はもっと歪む可能性がある」


「はい」


「表でどう立つかが重要になる」


「分かっています」


「一人で抱えるな」


 その言葉に、アリアは顔を上げる。


 レオンハルトは、いつも通り真っ直ぐだった。


「君が悪く言われるなら、私も聞く」


「殿下が聞いたら、相手が震え上がります」


「それでいい」


「よくありません」


 思わず即答すると、ユリウスが今度こそ小さく笑った。


 少しだけ、部屋の空気が軽くなる。


 それでも胸の痛みは消えなかった。

 きっとすぐには消えない。


 正しいことをしても、人はこんなふうに見る。


 その事実は、今日アリアの中に深く刻まれた。


 けれど同時に、もう一つ分かったことがある。


 それでも見てくれる人がいる。

 怒ってくれる友人がいる。

 正しく名前を呼んでくれる人がいる。

 隣で、嘘を言わずに立ってくれる人がいる。


 なら、まだ立てる。


 アリアはゆっくり息を整え、静かに言った。


「私は、明日もいつも通りに立ちます」


 レオンハルトは短く頷いた。


「ああ」


「でも、少し傷ついた顔をしていたら」


「していたら?」


「……その時は、また下手な慰めをください」


 レオンハルトは一瞬、黙った。


 そして、低く答えた。


「考えておく」


「それは期待できない返事ですね」


「嘘は言わない」


 アリアは、今度はきちんと笑えた。


 窓の外では、夕暮れが王宮の庭を淡く染めていた。

 社交界は、婚約者を冷酷と呼ぶ。

 けれどその言葉に飲まれないために、アリアは今日も自分の怒りの理由を、静かに胸の中で確かめ直した。

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