エピローグ
この町は『子育てしやすい町』らしい。
子供が泣いているとどこからか子守唄が聴こえてくる。それは不思議とよく効いて、子供も、子育てにお疲れ気味の親も、夢見よく眠れるのだそうだ。
「やっぱあの歌さあ、教科書にも載ってないしねえ」
「ねー」
町の誰もが知っているのに、誰も知らない。作詞作曲は誰なのか、それを歌っているのは誰なのか、どこから聞こえてくるものなのか。わからないけれど、町のみんなが歌を覚えている。
一説によると、それは町の外れの『神様の森』から聞こえてくるのだそうだ。方向的にそうだというだけで、誰かが確認したわけじゃないみたいだけど。
きっと遠い遠い異国語の、意味も正確な発音も知らない言葉の連なり。
「すーひー、いざらーなるー、りーあー」
「なーりりーず、あー、らーるらー」
町民だけが知っている、音程だけは完璧なうろ覚えの歌詞。
この町で生まれた人間はその不思議な歌声で育てられているんだよ、とおばあちゃんが言っていた。
歌い終わると友人ミシャは、
「ところで『彼』とはどうなの?」
突拍子もないことを聞いてきた。
「どうなのって。別に何も」
「告白しないんだあ?」
「するわけないじゃん。お客さんだもん、困らせたらダメじゃんね」
学校鞄の持ち手を親指で弄りながら、もう一度「……困っちゃうでしょフツーに」。
ミシャは「そんなもんか」と他人事のように納得して、また歌い出した。わたしはもうそんな気になれなくて、文末の音が飛び跳ねがちのミシャの歌声を聞きながら歩く。
『彼』は自分でも知らないだろうけれど、『初恋泥棒』の称号を冠している。
初めてそれを聞いた時はくだらないと思ったけれど、わたしは悔しいことに、その初恋泥棒にまんまと惚れていた。
町のみんなが誰も彼も「がんばって」とムセキニンな応援をしてくるのが心の底から嫌だ。どうして人間って人の恋路をそんなに気にするのだろう。わたしは誰と誰が付き合ったって、どこの奥さんがフリンをしたって、当人たちで頑張ってくださいとしか思えないのに。
わたしの家はお茶屋さんだ。オーソドックスなお茶、香りをつけたお茶、果実を入れたお茶。世界中の美味しそうなお茶を仕入れてお店に出している。
九歳の時からお店の手伝いに出るようになって三年。十二歳。『彼』もわたしと同年代くらいに見えるけど、実際いくつなんだろう? わたしとしては二歳年上くらいが理想。
歳も近いことだし話してみれば仲良くなれるのかもしれないのに、彼を前にすると口がうまく動かなくて困る。お茶についての説明はできるのに、それは親から仕込まれたものでわたし自身の話じゃない。わたしはみんなよりいち早く大人の商売の手伝いをして、だからみんなより少しは大人で、だから大人っぽい彼とは少しだけ近いと思うのに。……ほんのちょっとだけ、頑張れればいいのに。
別の男子が相手なら普通の態度でいられるんだけどな。だってあいつらガキっぽいから。彼と違って。
帰宅路でミシャと別れて、家の二階で少し休んで、改めて身支度をする。
そして一階への階段を降りながら考える。
今日は来るかな。
だいたい六十日に一度くらいやってくる彼。
前に来たのは何日前だっけ。きっとそろそろだ、今日きてもおかしくない。
考えながら、最後の一段を降りきってカウンター内に入る前に、深呼吸する。万が一にも彼がお店にいた時、とても眩しい彼を視界に入れる衝撃に備えて。さあ行け、すぐ行け、緊張なんてするんじゃない、そこにあるのは見慣れすぎてつまんない地味な店舗だ。
カウンターに一歩入って、喧嘩を売るみたいに元気な声で、
「いらっしゃいませー!」
「あ、こんにちは」
彼がいた。
一際明るい金髪をさらりと靡かせて、深海みたいに青い瞳を優しく細めて、その美貌を存分に輝かせている。身なりも良くてお花みたいな良い匂いもして、今は可愛いけれど、大人になったらきっとすごくかっこよくなるってミシャも言っていた。
彼の前には、そこらの男子なんて古くなったじゃがいもだ。彼は蟻を水責めにしたり、フラれた腹いせに女子の服に鼻くそつけたり、先生の一度だけの失敗を一年中粘着質に掘り返したり、そんなことは絶対しない。
「今日もお店のお手伝いですか?」
「はい。これでも看板娘なんで」
「すごいなあ」
彼はにこ、と笑う。ほらやっぱり、笑顔ひとつにしてもトクベツだ。柔らかく上品で、上流階級の御子息サマみたいな。
誇れるのは噴水広場だけみたいな微妙な町に、どうしてこんな貴族みたいな子が通っているんだろうって、最初は不思議だった。
この町に暮らしてはいないみたいで、その実態は謎のまま。たまに町の中を歩いているけれど、その目的がうちの店のようだと聞いた時は飛び上がるほど嬉しかった。彼はいつも親に頼まれておつかいに来ているそうだ。
おや、と後ろからお婆ちゃんの声がした。
「また来たんだねえ、もう顔を忘れるかと思ったよ」
「あははは」
「おばあちゃん!!!」
もうやだ、冗談でもそんな失礼なこと言わないで!
おばあちゃんが彼を眺めて、楽しそうに「やっぱり可愛い子だねぇ」。
彼は淀みなく答える、
「僕が可愛いのは当然です。両親が両親なので」
彼は己の両親に謎の信頼をおいている。
いわく、母親はとても優しくて少し間抜けな綺麗なひと。怒ると怖い。
いわく、父親は穏やかで人が苦手な引きこもりだけど綺麗なひと。怒るとすごく怖い。
どちらも接客の最中にぽろぽろっと零してくれた彼の証言だ。加えてどちらも「人間離れしている」のだそうだ。会ってみたいとは言わないから、一度見てみたい。
「それで今日はどんなのがいいんかね」
「ええと、……薔薇をイメージした華やかなお茶。もう一つは香りがあまりツンとしないもの、です。元気な女の子と、鼻がすごくいい男の子だそうです。お土産にするので個別に包んでもらうことってできますか?」
「はいよ」
聞くなり、わたしはラッピングの紙とリボンを用意する。こういうちょっと難しい話はおばあちゃんに任せるべきなのだ。
「にしても、あんたの親はいつも忙しいんだねえ? 贈り物なら自分たちで選んだほうが確実だろうにね」
「ああ、いえ。今日は親のお使いじゃなくて、僕が個人的に用意したかったんです。身内らしいんですが、初めて会うので、何かしたくて」
そうしてちょっと面映ゆそうに笑う彼。尊い。
お茶の葉を選んでお会計を済ませた彼を見送って、はっとした。
「おつり……!」
渡し忘れた二百十六リル。
よりによって彼の買い物で! こんな失態を!
わたしっていつもこうなんだから!!!!
「おばあちゃん! ごめんちょっとやらかしたちょっと行ってきていい!?」
「いいよぉ、気を付けといでねぇ。ついでにお野菜の安いやつ見てきてねぇ」
「はい!」
「あと卵の安いやつ残ってるかと花屋さんの雨戸が開いてるかも見てきてねぇ。卵は残ってたらお取り置きお願いしといてねぇ」
カウンターから飛び出して、外に置いてある立て看板を危うく跳ね飛ばす勢いで外に出ると、左右に伸びる道の右を見て、左をみて、綺麗な金髪を発見した。彼はとても目立つのだ。もうずいぶん遠い所まで歩いていってしまっていて、これは走らなきゃ追いつけない。
わたしは走った。
そうしながら、このままいけば彼の家がわかるかもしれないと考えた。
いやいや誤解はしないでほしい。わたしはそんな怪しい女じゃない。だって彼は町の七不思議にも数えられる謎の塊で、みんな気にしていたことだし、出来心で。
わたしはたったの二百十六リルを口実に、彼を追った。わざと一定の距離を保ったまま。
彼はうちの店の紙袋を持って右を曲がって直進し、入り組んだ細い道に入って、町の外れに行って、やがてついたのは、
「……ここ」
入ってはいけないよと言われている森だった。
ここには神様がいるから、不用意に近づいてはいけませんと。それを町の誰もが知っているのに、彼は当然のように入っていく。
どういうことなの。
困惑したまま、わたしもついにその森の入り口に来てしまった。入り口といっても扉らしいものはない。木々がたまたま程よく隙間を空けていて、人が通るのにちょうど良さそうな道ができている。ぽっかりとした開口部は誰でも歓迎でございと言いたげなのに、ここに入る人を見たことがなかった――つい三十秒前まで。
地面に落ちている葉っぱは柔らかく均されて、太陽光を反射して、森の中を照らしてる。緑の鮮やかな広葉樹が透けるように明るい。苔生した太い木々がみんなこっちを見て、どうするの? 入るの? って興味津々にこっちの様子を窺ってる。どこかで鳥が鳴いている。風が吹けばちろちろ揺れる木漏れ日が、わたしの間近で視界いっぱいに広がっているような錯覚があった。
そこに、入りたいけど入れない。踏み出せない。
二百十六リルを握ったまま立ち竦んでいたら、ふと歌声が聞こえてきた。
『 』
『 』
『 』
風みたいだった。存在感がないのに、その声に気付いたら聞き逃したくなかった。奇妙なのに優しくて、温かみはなく透明な、女の人の歌。
彼を追うことなんてとっくの昔に忘れていた。
――一説によると、それは町の外れの『神様の森』から聞こえてくるのだそうだ。
――この町で生まれた人間はその不思議な歌声で育てられているんだよ。
町で生まれた人はみんな知っている。
いつかどこかで、その歌声を覚えて眠る。
それを、ここにいる私、たった一人のために聞かせてくれているみたいだった。恐れ多くて光栄で、言いようのない感情がこみ上げる。涙が一粒だけ流れたけれど、それだけだった。
どこかで知っている歌。
懐かしい歌。
ずっとずっと遠くの昔に、揺りかごの中で微睡みながら聞いていたような。
ふと気づいた時には、もう何も聞こえなかった。
いったいどれだけ突っ立っていたのか、とっくに夕暮れ時だった。
夢を見ていたみたい。いや夢だったんじゃないか。立ちながら寝ていたのかもしれないと落胆するわたしの手の中で、体温が移った二百十六リルの温もりだけが確かだった。
神様の森の入り口は、変わらずぽっかり口を開けている。
「……帰ろ」
踵を返した。一人なのをいいことに、ひっそり口ずさむ。
「すーひー、いざらーなるー、りーあー」
ふと、見られている気がして森を振り返った。
高い木が一か所だけ、風もないのに揺れていた。そこにいた大きな鳥が今しがた飛び立ったみたいだった。青い光の粒がきらきら散っていて、やがて消えた。
気のせいだろう、と思う。
【ハッピーエンド・完】
歌エンドでした。
以降はちょこちょこ誤字脱字とか表現の薄いところに加筆とか文章を修正していくのみとなります。たぶん。
エピローグは、
・街中に『彼』と母親がやってきていて、成金おっさんに絡まれたので父親が助けにきてやんややんや。
というやつとシンプルな話の二通りあったのですが、収拾がつかなくなったので結局シンプルな方にしました。書かなかった方は閑話としてではなく、番外編の方に投稿するかもしれません。(この本編の他に番外編を投稿するだけのページがあるので興味ある方は探してください)
長々とありがとうございました。




