お昼休み 後半
「エピローグを演出中に申し訳ありませんが」
「あ、先生」と啓。
「おや、どうしたい?」と椎。
「あ、眼鏡だ。フレーム銀色」と僕。ついでに続けて、
「飯が一瞬でまずくなる魔法の香辛料を押し売りしているのはこの眼鏡ですか?」
「私にそんな口きいていいんですかね。私はこれからあなたに恩を売ろうとしていますのに」
「いや、ま、わざわざ売られなくても一応恩義は感じてるんだけどね。泣きわめく迷い猫を保護してくれた犬のおまわりさんに対するくらいには。――で、どした? 昼時に珍しいな」
優雅な一時を邪魔しに現れた眼鏡は、たいそう綺麗な男の子を右手に引っ張って来ていた。
また新入りか。僕たちの時みたいに作者に見捨てられた子を拾ってきたんだろうな。
「どこからさらってきたんだ。人身売買にまで手を出したか。――犯行動機は、『ドナドナを声高らかに歌ってみたかったから』と見た!」
叫びながらお箸でズビッと人を指す僕の、架空の眼鏡がきらりと光った。だが対するリアル眼鏡は、「ええ、まあ。そのようなものです」と、微妙な覇気のなさだった。
「ええ、まあ、なのかよ。そこで肯定されても微妙に困るんだが」
眼鏡が連れていた子は、年の頃は十六、七くらいかな。たいがいのラノベキャラと同じだ。
それで、その男の子自身は、『どういう表情をしていいかわからない』、という感じの戸惑いがちな視線を僕に寄こしていた。『切干大根とたくあん、どっちの陣営についたらいいかわからない、もういっそ生まれ故郷の学校菜園に帰ろうかと思案している』、というような――うん、僕の比喩表現はなぜこういう具合になるんだろう。無駄な努力はやめとこう。
「思い出しませんか?」
眼鏡は眼鏡の奥から僕を窺うように見た。
「何を?」と僕。
「ん……? あれ……。え、と……?」と啓。
「おやま――」と椎。女形?
「まあ、教室に放置しておけば、そのうち世界になじんで元通りになるでしょう。では、確かに渡しましたよ。後のことは知りません」
「え? この人、僕に売られたの? ちょっ、おい、置いてくなよ。おい。まさかほんとに買ってきたのか……? なんか高そうだぞこの人!? おい待てよ!」
溜めたバネが弾けるように椅子を蹴立てて立ち上がり、
「待てってば!」
僕は眼鏡を追って教室を出た。
後ろからはにぎやかな声。声だけが耳に運ばれてくる。
「あれ……? エルだ」
「……うん」
「ハハ。まったく。ハハ。――お帰り」
「……ただいま」
「あれ……? なんか変……。何が変なのかよくわかんないけど……」
「変なのは君の頭の方だろう? ――って言いたいところだけど、やめておくよ。今の僕には全身全霊を傾けて君をからかうような気力は残されていないからね」
「そんな気力いらないよっ。中途半端に悪態吐くのやめてよっ」
「おまえさん、どんな変則技で帰って来たんだい?」
「……ルール違反が発覚して卒業認定を取り消されたんだよ」
「おやまあ。ハハ、単位が足りてないのがばれちまったかい。上層部にちくったのはやっぱあいつかい?」
「…………」
「? なんの話?」
「なんでもないなんでもない。さ、飯の続きにしようじゃないかい。エル、おまえさん、腹減ってないかい?」
「……えっと、……お昼まだなの? ……なんで一緒に食べなかったんだっけ??」
「……さあね……」
僕は戸を出たところで捕まえた眼鏡のスーツの裾を、右手でぎゅっと掴んでいた。
「皺がつくんですが」
僕は残った左手で口を覆って、こみ上げてくるものをこらえようとしていた。
「お……兄ちゃんだ」
「ええ」
「お兄ちゃんだっ」
「ええ」
「お兄ちゃん!」
「まるで私があなたのお兄さんであるかのような言い方はやめていただけませんか?」
眼鏡は僕の手を外させると、よれたスーツの裾を直した後、それ以上にくしゃくしゃになっていた僕の顔を見て、何も言わずに踵を返した。僕はその裾をもう一度掴む。
眼鏡は溜息を吐き、振り向いて斜めに僕を見下ろした。
「――どうしたいんですか、あなたは」
「それを訊きたいのはこっちだ。おまえこそ、僕にどうしろって言うんだ」
僕は両手で裾を掴んで、王様のロバの耳のことを聞いてくれていたたった一つの穴に対するように、その裾の中に顔を埋めるようにして叫んだ。
「よけいなことしやがって、この馬鹿野郎! 僕がどんな思いでっ。お兄ちゃんがどれだけの覚悟で! 今更どんな顔して会えばいいってっ。このっ馬鹿野郎!」
そして最後にぽつりと言った。
「…………ありがとう」
お兄ちゃんがいる。お兄ちゃんがいる。それ以外、何もいらない。
「――勘違いしないでいただきたいのですが。別にあなたのためにやったわけではありませんから。私はただ、ルール違反の生徒を罰しただけです」
閉ざされた視界の中、耳だけで感じる眼鏡は、やっぱり温かかった。
だけど台詞に微妙な既視感。(――なんで台詞がツンデレ風味?)
いったい何者がおまえにキャラを立たせろと命じてるんだ。
「それからあなたも、思い出したんなら、さっさとお題を返還してください。でないとまた、エル君が消えますよ? 達成条件である卒業を取り消したせいでお題が蘇ってるんですから」
頷き、眼鏡の裾から手を離し、促されるままにいつもの要領で返還を済ませる。自分が受信者だと思い出した今なら、こんなに簡単なことだ。
本当、今ならわかる。今日一日、僕が兄に近づかなかった理由。僕は意識の奥底で、兄の卒業という未来を覚えていたんだ。兄と一言でも会話を交わしていたなら、その途端、僕の決意は崩れ去っていただろう。――眼鏡には、全部お見通しだったんだろうか。
受信の記憶を持たないはずの僕に眼鏡がしつこく自白を強要していたのも、兄に聞かせるためだけでなく、本当は僕自身も覚えているということを知っていたからなのだろうか。
――啓に、謝らなきゃな。せっかく勇気を振り絞って告白してくれたのに、僕は混乱のままに八つ当たりしてひどいことを言った。啓に泣きながら叩きつけた言葉は僕たち自身に対するものでもあった。彼に、謝らない、と――。
本当に、謝れるだろうか。僕は啓のことが――、うらやましかった。感謝の思いと別に、ほとんど憎んですらいた。どんな状態にあっても本気で悲観したりせず常と変わらずそのままの彼でいられる啓は、兄の心に安らぎを生んでいた。傷つけ追い詰める事しかできなかった僕と違って。
僕が憑き物が落ちたようにぼんやりしていると、ふっと息を吐いた眼鏡は、「まあ最初から、違反を見逃すつもりはなかったんですがね」と語り出した。
「私が強制的に止めさせてもまたやらかすでしょうから、なるべく自発的に止めていただこうとぎりぎりまで待ってさしあげてたんですが――。なのにあの人、私のそんな思惑を知りもせず、恥ずかしい捨て台詞と高笑いを残して消えて行ったんですよ。彼の気まずさを考えるとさすがに私も気の毒で、消えてから連れ戻すまでに多少時間がかかってしまいました」
「――へ?」と間抜けな声を出してぽかんと見上げると、
「お兄さんにお伝えください。私に連れ戻された時のあなたの顔は見ものでした、と」
「……なんだよ、それ……」
眼鏡としばし顔を見合わせ、それから僕は「ぷっ」とふき出していた。笑うと、不思議なほどに心が軽くなった。
「あなたは、それでいいんじゃないですか?」
「え?」
「エル君の心を守りたいのなら、今のように笑っていなさい。ここしばらく、私はあなたの能面顔しか見ていません」
眼鏡は節の目立つ人差し指で、すっと僕の眉間に一本の筋を引いた。
「私はあなたに私の顔真似をしろと命じた覚えはありませんよ?」
じっと眼鏡を見つめながら、ゆっくりと今の言葉を噛みしめる。思い出す、今日の兄が見せてくれていた穏やかな笑顔。僕が何より守りたいもの。――全身が、ぶるりと震えた。
僕はタン、と体を反転させて、教室の入り口に向かった。そして扉の前で足を止めて振り返り、右手をぶんと振って、宣言した。
「もう一度、頑張ってみる! もう少しだけ、諦めるのを先延ばしにしてみる! 諦めなければ、いつか届くかもしれないから!」
戦わなければならないのは、諦めようとするこの心。諦めようとする自分自身の心を敵に回して、守らなければならないものがある。
「だから僕はこれからもお題を受信し続けるよ!」
「そういう意味で言ったのではありません。私相手に堂々とルール違反を宣言されても困るんですが。頼むから大人しく自然に任せて卒業してくれませんか?」
眉間に皺寄せ、溜息を吐き、それから眼鏡は廊下を歩きだした。
その背を見送りながら、
「ありがとう!」
もう一度言った。眼鏡は軽く後ろ手に手を振り返してくれた。それはまるで、言葉とは裏腹に、『せいぜい頑張りなさい』とでも言っているかのように感じられた。
眼鏡の姿が消えるのを見届け、扉に向き直り、深呼吸した。扉に掛けた指先が、自分のものじゃないみたいに震えていた。――その時、やっと気付いた。扉のすぐ向こうに、人の気配。……お兄ちゃん? ずっと、そこにいて聞いていたんだろうか。
合わせる顔が無くて、怖くて、逃げ出したくて、それでも会いたくて。僕は一歩も動けなくなった。たぶん、扉一枚隔てて立っている兄も、僕と同じなのだろう。
僕から、動かなきゃ。もう一度始めるために。
だって、好きだから。僕はお兄ちゃんが、大好きだから。
好きになった理由なんか関係ない。大切なのは、『好きだ』というその思い、ただそれだけ。
*****
(……ねえエル、僕たちなんでこんなとこで聞き耳立ててるの? すっごく恥ずかしいんだけど)
(一人でやるともっと恥ずかしいだろう? 我慢しなよ)
(だからってつき合わせないでよ……。なんでジェイってば、こんな人のこといっつもべた褒めしてるんだろ……)
(おーおー、担任とあの子、この半日でフラグ立たせまくってんね。いいのかい? このままじゃ可愛い妹持ってかれちまうぜ?)
(――椎)
(その綺麗な顔で凄まないどくれよ。おまえさんがお題利用の卒業未遂なんかかましてるからだろ?)
(……)
(担任は設定に縛られない治外法権だ。さて、おまえさんの魅了能力設定もどこまで有効かねぇ)
(ねえ、さっきからよくわかんないんだけど、何の話してるの? あと、先生が言ってたエルの『恥ずかしい捨て台詞』って何?)
(……)
(こうさ。――『なんとも思っちゃいない! なんてかわいそうな先生! アハハハハ!』。ククク)
(椎っ! プライバシーの侵害だろう!? 記憶を読むなとまでは言わないけど、その内容を他の人に教えないで!)
(ハハハ、すまないねえ、アッハハハハハッ)
(――くそっ、あの眼鏡野郎、僕が聞いてることをわかっててわざと言ってやがるな……。絶対許さない……、あんなやつにっ、絶対渡すものかっっ)
(ひっ――、怖……。エルのガラが悪くなってる……)
(……ねえ、お兄ちゃん達、こんなとこで何やってるの?)
(……あ、)




