一時間目 前半
「注目」
重低音でその一言を発した後、声の主は僕たちに背を向け、黒板に向かい右腕を上げた。一瞬ざわついた教室の皆は、だが次の瞬間あることに気付き、息を止めた。
カツ。
高質な音を鳴らしながら、
カツ。
黒板の中央に白のチョークで書かれたものは、
《
↑こんなのだった。
ヒグッと、僕たちの喉から乾いた呻きがもれる。
始め二重山括弧――ハジメニジュウヤマカッコ――「《」――それ即ち、
「「「新たな『お題』が出された――、だとっ」」」
誰かが椅子から滑り落ちる音がした。
詰めていた息を、大声と共に限界まで吐きだす者がいた。
どこからともなく「フウッ」という、諦めを伴ったであろう溜息が聞こえてきた。
『お題』――、それはこの世界を改変するもの。お題の干渉を受けた世界は、お題の実現に向け動き出そうとする。その流れに僕たちは、知らず知らずのうちに巻き込まれていることがある。それがどんな形での干渉になるのかは、今の時点では誰にもわからないのだけど、その変化はもうすでに始まっているのかもしれない。今僕たちが住んでいるこの世界はあるべき姿を失い、そして再構築される。
「そういうことです」
僕たちの叫びを受け、「《」のみを記し終えた「男性眼鏡教師」はチョークを置き、僕たちに淡々と告げた。その声と表情は、まるで生徒会執行部で決まったスローガンを書き記すがごとく淡々としたものだった。
「職員室のボードに新たなお題が記されているのを発見しました。残念ながら、今回もまたどこかの阿呆が勝手にお題受信をしてしまったようです」
眼鏡のつるに手を添え、「眼鏡教師」は眉間の皺をもみほぐすような指の動きを見せた。
そうだ、『お題』は自分からはやって来ない。誰かが自分の意思で検索し、招き寄せるのでなければ、この世界は『受諾』しない。そしてまた、一度この世界にやって来た『お題』を返還できるのは、そのお題を招き寄せた『受信者』だけだった。
――だからこれから始まるのは、その犯人探し――
「――犯人は、この場で名乗り出なさい。今ならまだ許してさしあげます」
指と指の隙間から、「眼鏡教師」の眼鏡の奥の瞳が物騒な輝きを帯びているのが見えた。
その眼光に射すくめられ、身動き一つできないでいる僕たち。
眼鏡教師は一人一人の顔を見渡していき、――そして最後に僕のところで視線の動きを止めた。
「聞こえていますか、ジェイさん? 聞こえていますね、ジェイさん?」
眼鏡は照準を僕にロックオンしたまま、ゆっくりと僕の名を繰り返した。
――思いっきり疑われているっす――。
「私は『今ならまだ許してやる』と言ったんです。その『今』という時間は、無限ではありませんよ?」
眼鏡は僕を見据えながら、もう一度チョークを取り、始め二重鉤山括弧の横に『時間は大切に』と、今度こそ本当のスローガンのような一文を書きあげた。
「……どういう意味だ、この駄メガネ。勝手に人を犯人扱いするなよ……」
気圧されそうになりながらもかろうじて放った僕の反論の声に、
「誰が駄メガネですか。この僕っ娘が」
「痛いところを突かれたぁ!?」
返す刃でとどめを刺された。
うう、愛すべき僕の一人称が低俗なものに貶められた気がする。
ちなみに僕っ娘とは、そのまんま、一人称に僕を使う少女のことで、漫画や小説等に散見される。そして僕を含めこの学校の生徒は皆、少年少女向けの小説であるライトノベル、略してラノベのキャラクターだった。だから僕がこの口調で通していても、校内だとさほど違和感はない(はずだ)。――が、改めて指摘されると確かに一瞬口ごもってしまう。
なんだよ、別にいいじゃん。女の子が『僕』って言ってもいいじゃん。これってそこまで痛いことなんだろうか。自分で自分をなんと言おうが、いいじゃん。――……駄目、なのかなぁ。
微妙な羞恥心とか反抗心とかいろんなことでモヤッとしてると、前の方に座ってる兄の頭が小さく動くのが見えた。僕の双子の兄である彼は、わずかに振り向いて僕を見、瞳で笑ってくれた。
からかうとか、そんな悪意なんかとはかけ離れた、慈母のような肯定の笑み。かすかに小さく頷いて、示してくれてる。『君はそれでいいんだよ』って。
胸があたたかさで埋まって、もやもやの成分が蒸発して、外に散っていった。
僕はうつむきそうになってた顔をさっきよりも高く上げ、僕を冷徹なまなざしで見据えたままの眼鏡を真っ向から見返した。
「眼鏡を眼鏡と言って何が悪い、この眼鏡教師。だいたいおまえだってスーツ&眼鏡のセット、そしてとどめとばかりに一人称私のナチュラル敬語喋りじゃないか。ラノベキャラでもないくせにそこまでやっていて、おまえこそ恥ずかしくないのか。おまえの前では僕の一人称など看過されるべき些細な問題だろう」
補足しておくと、眼鏡は僕らみたいな仮想世界のキャラクターなわけでも、そしてリアルの人間なわけでもない。じゃあなんなんだと訊かれてもよくわからないのだが、とにかくなんか上位存在っぽいやつらしいのだ。
だからこんなに偉そうなのか、それとも元々こういう性格なのか。
たぶん後者だな。
「他人と自分を比べてどうするんです。他者が自身に逸脱を許容しているからといって、そのことが自分自身に対する理由になるんですか? 私は、私の意思でこの喋り方を選択し、私の責任に基づきこれを続行しています。ですが、その私の行為をあなたの免罪符とする理屈には同意できません」
実によくまわる口だ。水差し用意しておいた方がいいだろうか。
ああいかん、その水差しの中に満たされている水を補給水源にし、水鉄砲をかまえてやつに相対している自分の姿が連鎖反応的に浮かんでしまう。実現させちゃいそうだからやめとこう。
もしや前世的な因縁でもあるのだろうか。思えばこいつとは出会いからして最悪だったしな。
*
(―― あなたたちにそこに溜まっていられると世界にとって迷惑なんですが、ちょっと消えていただけませんか?)
ネット上の素人小説家の投稿サイトに連載作として投稿された作品。
そこが僕と兄が生まれた場所だった。
だがその作品はぜんっぜん読者に評価されず、意欲をなくした作者は物語の途中で書くことを放棄してしまった。そしてそのまま、『プロの作家になんかなれない。しょせんこれが現実』と、小説を書くことそれ自体、諦めてしまった。
ラストまでたどり着くことなく放り出されてしまった僕たちキャラクターは、行き場所を失った。
作品世界は失われ、作者の心の中からも追い出されてしまった僕たちは、幽霊みたいな存在になって現実世界をさ迷っていた。そんな時あの眼鏡が現れて、言い放ったのだ。
(―― あなた方のようなどうしようもない存在でも、それだけ数が集まれば厄介なんですよ。どれだけ微弱なエネルギーであっても、群れられるとそこがエネルギーの吹き溜まりになり、世界に歪みが生じる可能性があります。あなた方にここにいられると迷惑なんです)
眼鏡は初対面から居丈高で、僕はまるで繁華街を巡回中の補導の先生に見つかった生徒みたいに居心地が悪かったし、『自分たちの存在が迷惑だ』って二度も繰り返されて、『なんかもういいや、疲れた』みたいな投げやりな気分になりかけていた。
(―― それにあなた方自身にとっても、今の状況は決してよいものではありません。そのままでいればいずれ変質してしまいます。人間でいえば、不成仏霊になるようなものです。更に時間が経過すれば、怨霊のようなたちの悪いものになるでしょう)
『このままでいれば自我とか人間性とか全部なくなるだろう』って言われてもぴんと来なかったんだけど、今思えば、泣いたり怒ったりする気力もなくただぼんやり眼鏡の口を見つめていたあの時の僕は、たぶんもう『そう』なりかかっていたんだろうな。
だけど『この人まだ喋るのかな』ってぼうっと見ていると、眼鏡は意外なことを言ったのだ。
(―― とりあえず、あなたたち皆、学校に来なさい。卒業まで私が面倒をみてあげます)
あの一言が始まりだった。僕たちはぽてぽてついて行き、そして今に至る、と。