御人形様 (3)
雪が降っているせいで空自体はどんよりとしているが、夜になったわけではない。まだ日が暮れる時間ではないということに驚きを禁じ得なかった。
ぼんやりと雪の降る空を見上げていた私は、ハッとして着ていた上着を脱いだ。そして、私を抱いて黙々と山を下りるジンの肩にかけた。
「あなたの服を持って出たんだけど、失くしちゃったの。ごめんね。とりあえずこれ、羽織ってて。家に着いたら髪とか……体も拭いたほうが良さそうね」
ジンは体温のない人形だが、私の上着と彼が着ている服のおかげか、腕の中に抱かれていると不思議と温かかった。危険なことももうないだろう。彼が突然理性を失って私を攻撃する確率も低いはずだし、もう少しだけ密着していよう。
「それに……服を脱ぐと私が寒いから、もう少しだけくっついてるわね。嫌なら下ろしてもいいわよ」
ジンの濡れた髪をかき上げながら言うと、彼の視線が私の顔に止まった。濡れた髪のせいだろうか。彼の顔が、少しだけ人間味を帯びて見えた。暗い洞窟の中でも光一つ通さず真っ黒だった瞳は、明るい場所に出ても相変わらず光を吸収するように黒かった。
「……ジン? どうしたの?」
「……」
天気が晴れているわけでもないのに、何が問題なのか、ジンは眩しいものを見るように目を細めていた。それは一体どんな感情の表れなの?
(というか、こいつ元々こんなに表情が……いえ、表情筋を多彩に動かせたかしら?)
そもそも、ジンは人形なのだ。人形で目が細くなったり眉が上がったりなんて、筋が通ら……いや、そう言えば動き回っていること自体、筋が通らないわね。体を動かすのと同じように、表情筋……あるいは何かが動いているのでしょう。そうよ、きっと。
触れてはならない世界の真理に足を踏み入れてしまうような予感がして、思考を適当な結論で締めくくった私は、雪が積もっていく彼の頭を自分の服で払ってあげた。
濡れた髪を指でかき上げてあげると、私をじっと見つめていたジンが再び歩き出した。山を完全に下りた私たちは、家まで続く広い道を進んだ。人っ子一人いない道には、雪を踏む音と衣擦れの音、そして雪が降り積もる音だけが響いていた。
(それにしても……ジンはどうしてあの洞窟にいたのかしら)
祖母は、行くべき場所へ行って、すべきことをしているだけだと言っていた。振り返ってみれば、ジンがいた空洞は祭壇のような佇まいだった。あそこで儀式でも執り行っていたの? だとしたら、怪物は本当に偶然ジンに出くわしたってこと?
怪物との会話から推測するに、あいつはジンが洞窟の内部にいることを知らないようだった。だとしたら、私を洞窟の近くまで追い詰めた理由は何? あの洞窟は行き止まりだったのだから、あいつが言ったように、かくれんぼの振りをしながら獲物を追い込んでいたのかもしれない。
(状況的にはそれが正解っぽけれど……どうも腑に落ちないのよね)
ジンが動き始めた瞬間から、納得のいかないことばかりが起きていて、頭が混乱しきっていた。ただでさえ頭がパンクしそうなのに、正木刑事に状況説明までしなきゃいけないなんて。
(はぁ……何かスッキリ解決する方法があればいいんだけど……ん? 待てよ……おばあちゃんが……)
山に登る前……確かにおばあちゃんが、家に行けばジンのことが分かると言っていなかったかしら? 確か家に関連する書籍があると言っていたはず。
顔を上げて家までの距離を確認すると、遠くない場所に、懐かしく安らげる我が家が見えた。庭に入ったジンは、私を連れて母屋へ向かい、ようやくそこで私を地面に下ろした。おかげで、大変な目に遭った割には非常に快適で温かく家に帰ることができた。
「連れてきてくれてありがとう」
私の感謝の言葉に、ジンは私が彼にかけてあげた上着を私の肩にかけ直した。「もう大丈夫だ」と言わんばかりの彼の行動に、心のどこかがじんわりと温かくなるのは……きっと、死ぬような思いをしたせいでメンタルが弱っているせいだろう。
玄関に立ったまま私を見つめていたジンは、私が靴を脱いで部屋に入るのを確認するや否や、踵を返した。それに私は反射的に彼の服を掴んで問いかけた。
「ちょっと待って、ジン。どこへ行くの?」
「……」
「自分の部屋に戻るの? 行かないで。もう少しだけ、傍にいてよ」
私としては、今彼に部屋に戻られるより、ここで洗ってから帰した方が楽だという、大した意味のない言葉に過ぎなかった。しかし、私の言葉にジンの黒い瞳に何らかの感情がよぎるのが見えた。私がその感情の意味を悟る前に、彼の姿は元の状態に戻ってしまい、瞳に宿ったのがどんな感情だったのかは分からずじまいだった。
静かに私を見下ろしていたジンが、ゆっくりと歩み寄ってきた。彼の視線に射抜かれていた私は、ワンテンポ遅れて彼の姿を観察した。
そして、あまりにも今更ながら気づいたことが一つあった。ジンは今まで、素足で歩き回っていたのだ!
(えっ!)
それだけじゃない。服、主にズボンが血まみれだ。黒色だから目立たなかっただけ。上着が無事なのは私を抱いていたから? 待って、じゃあ、もしかして今私の上着も血まみれなの?
私は血まみれの上着をジンに着せてあげてたの? さっきのあの表情は、不快感だったってこと!?
(なんてこった!)
空気が妙に美味しく感じられたのは、外に出たからじゃなくて、血の臭いが薄まったからだったのかしら!?
血まみれの人形に抱かれて太平楽に帰宅し、誰かと鉢合わせでもしていたら……想像するだけで恐ろしい。恐ろしい想像を慌てて打ち消した私は、無茶苦茶になったジンを世話しなく眺めながら言った。
「ジン、あなた、足は大丈夫!? 凍傷……いや、凍傷にはならないかしら? 寒くなかった? 寒さは感じないの? 体は? 血を浴びて気持ち悪かったでしょ? ごめんね。だから……ちょっと待って、10秒だけ待ってて!」
確かにジンがいなくなった当時は、彼が素足であることを認識していたのに、とんでもない災難の連続ですっかり忘れてしまっていた。
私は急いで浴室へ駆け込み、浴槽に湯を張った。そしてタオルを用意して彼の足元に置くと、残りのタオルで頭の水分を拭き取った。
「ジン。服に血がたくさん付いてるから、体にも付いてるはずよ。タオルで拭くより、お湯に浸かって洗った方がいいと思うんだけど。もしかして、その……自分でシャワー浴びられる?」
私の問いに、ジンが眉をひそめた。ふむ。あれはどういう意味かしら。
「あ、私がやってあげた方がいいってこと? じゃあ、とりあえず浴槽に入っててくれる? あなたは浸かってるだけでいいから。私が全部やってあげる。こっちへおいで。お風呂場に行って、まず服を脱がせてあげ……」
私の言葉が終わる前に、私を追い越したジンはそのまま浴室に入り、扉を閉めてしまった。カチャリと音がしたのを聞くに、鍵をかけたに違いない。
(え……あれ?)
行動の意味が理解できず、私はしばらく呆然と立ち尽くし、彼が浴室の扉を開けてくれるのを待った。しかし、いくら時間が経っても扉が開く気配はなかった。一人で洗えるってことなの、どうなの?
ぼーっと待っているわけにもいかないほど私の身なりも酷かったので、仕方なく奥の部屋にある別の浴室へ向かい、光の速さでシャワーを浴びてから浴室を出た。
血まみれになった服は、その場ですぐにゴミ袋に放り込み、証拠隠滅をすることも忘れなかった。
その間に浴室の扉が開いていないかリビングの方の浴室を覗いてみたが、固く閉ざされた扉は開いた形跡一つなかった。うーん、困ったわね。することもないし、おばあちゃんが言っていた本でも探して……いや、まずはジンが着る服を持ってこなくちゃ。
ちょうど買ってすぐに洗濯して干しておいた彼の服が母屋にあったので、私はそれを取り込んで浴室の前に置いた。それから奥の部屋へ行き、おばあちゃんの本棚を調べた。
それほど多くの本があるわけではないので、おばあちゃんが言っていた「題名のない本」を見つけるのは簡単だった。
本を取り出してリビングへ戻った私は、浴室がよく見える位置に腰を下ろし、本の中身を調べ始めた。




