あと1日
NTR進捗状況
正、漫才編。
田中 正 :主人公、覚醒イベ通過済み。
橘 鈴 :幼馴染、寝取られる。
金谷 駿 :イケメン、幼馴染とフラグ建築中。漫才が好き。親友の彼女に手は出さない。
どこか遠くから声が聞こえる。そーらそーーらそーーーらそーーーーらん。ああ、あれはビギナーズの漫才、リズム芸の台詞だ。今、壇上ではあの二人が漫才の真っ最中なのか。
正は今初めて気付いたかのように自分の状況を認識する。もう決勝戦は始まっていた。正と駿は2番手、それが有利なのか不利なのかはわからない。空気が出来上がった会場にうまく乗れなければ観客はすぐにしらけてしまうだろう。いつもの正ならそんな可能性を考え、悩み、緊張しながらいくつもの可能性を潰していたはずだ。しかし、今の正はまるでその状況を俯瞰で見ているようにどこか他人事だ。集中できていないのではない、むしろ心を惑わせる雑念が一つもないのだ。
今の正になら観客の一人ひとりが見ている風景を頭に浮かべられる。一人ひとりがどこを見ていて、どのネタに反応しているか。今までの経験がそれら全てを詳細に教えてくれる。漫才を始めてからの経験ではない、あの教室で息を潜めていたころの経験が、だ。他人の笑いものになりたくない、そう思って周りを観察し、その標的がどううつろうか察知し、先回りし、そうして培ってきた経験が正に観客の一人ひとりの様子を手に取るように教えてくれる。そして、漫才を始めてからの経験がそれをどう利用すべきか教えてくれる。
そこは笑いが収まるまでためるべきだ。あせってネタを挟んではいけない。もっと速いテンポのほうが観客は乗ってくる。今の正ならビギナーズの二人よりもうまくリズム芸をして見せられるだろう。笑いを憎む気持ちと笑いに救われたという気持ち、二つの相反する正の心が今ひとつになっていた。正が傷つき、悩み、悲しみ、恐怖し、後悔し、勇気を出し、挑戦し、成功し、失敗し、そして、そしてそれら全てが今を作っている。多くの無駄な傷を作り、遠回りをしてきたから、だからこそここにいる。
きっと、それらが無ければ僕の物語は違っていただろう。今ここに唯一存在する物語を楽しめるならば、ああ今までのこともこれからのこともきっと誇れる。
ビギナーズの漫才が終わった。拍手が起こる前に正はそれを感じ取った。正が立ち上がった一拍後に歓声とアナウンスが聞こえる。背筋を一度伸ばし筋肉がほぐれるのを感じる。血液が毛細血管を走って戻ってくる。受け取った二酸化炭素を吐き出して、自分の存在が周囲になじんでいくのを待つ。
「じゃあ、行こうか。」
緊張している駿に笑いかけると、いつもよりも軽い足取りで正はまぶしいほどライトで照らされた壇上へと向かった。
「先生、あたし、リズム芸でお笑いの天下をとりたいです。尊敬する先輩みたいに。」
正はオープニングから最高速度だ。ぶっこまれるネタに観客の空気を一発で持っていく。
「リズム芸は難しいわよ。あなたにできるの?」
「はい、あたし、頑張ります。」
正は両腕を糸巻の要領で腕を回し腰を左右に振る。駿はその背後で手拍子でリズムを取っていたが、直ぐに止めた。
「全然ダメ、ちゃんと感じてた?ブラウン運動を。」
「え?ブラウン運動ですか?」
「そう、あなたの周りにあるでしょ、水分子が。その水分子の振動を感じるの、そしてあなたも震えるのよ。さあ、もっと腰を振って。」
「はい、先生。こうですか?」
「そう、いいわよいいわよ。だんだん熱くなってきたでしょ。」
「はい、先生。」
「それが、熱振動よ。良く覚えておいて、その感覚を。」
「はい。」
「じゃあ、いきましょうか。見てたでしょ、先輩のリズム芸を。」
「はい。」
「じゃあ、いくわよ。そーーらそーーらそーらっそらっ。」
「そーーらそーーらそーらっそらっ。」
「さあ、会場の皆も一緒に。そーーらそーーらそーらっそらっ。」
会場にグルーブが生まれる。ビギナーズのファンも、彼らを敵視しているものも笑いの前に一つになっていく。
「続きまして、コント『脱炭素社会』。」
「俺の名前はメタンガス、炭素に4つの水素がついただけのどこにでもいる普通の化石燃料だ。それにしても、早く発熱反応してえなあ。おっ、酸素じゃん。久しぶりー、なあ俺とまた発熱反応しようぜ。」
「やめて!わたしはもうそういうの止めたの。」
「は?なに言ってるんだよ。俺たちは一緒に産業革命起こした仲じゃん。またさ、一発でかいのやってやろうぜ。今は天然ガスってのが流行なんだろ。」
「だから、わたしそういうのもう止めたの。」
「どういうことだよ。酸素。」
「だって、あなたすぐ二酸化炭素作るじゃない。今、なんて呼ばれてるか知ってる?温室効果ガスって馬鹿にされてるのよ。」
「おいおい、言わせておけよ、脱炭素社会なんて。どうせすぐ飽きるって。」
「言ってなかったけど、わたし、水素と結婚することが決まったから。」
「はあ?なんであんな軽いやつと、あいつの分子量知ってるか、たったの2だぞ。原子量なんて1なんだぞ。あいつより軽いやつなんてこの世界にいないんだぞ。」
「関係ないわ、そんなこと。トヨタの社長が言ってたの、これからは水素燃料の時代だって。わたしもうあなたとはやっていけないわ。」
「ちくしょう、お前、大企業の言いなりかよ。・・・わかった。お前のことは諦めてやるよ。でも覚えてろよ、絶対後悔させてやるからなー。」
会場の熱気は今や一つになっていた。リズム芸のノリの良さを愛するファンと、正統派を愛するファンが一つの漫才を楽しんでいる。ビギナーズが笑いを否定しようとした先には新しい笑いの姿があった。スッコケ二人組が極めたと思った笑いの先にはまだ続きがあった。二つが混じり合った、どちらをも内包した形を正と駿が今、表現しようとしている。
正は会場を見回していた。確かに鈴がいたのを壇上から確認したのだ。漫才が終わり、今は集計作業を行っている。勝利は確信していた。それは大事なことを気付かせてくれた鈴のおかげだった。だからその瞬間を鈴と分かち合いたい。
しかし、暗い体育館の中で鈴を見つけることはできなかった。
会場で今までにないほどの歓声が沸く。結果が発表されたのだ。正はその中でもみくちゃにされた。知っている顔も知らない顔も、皆同じ表情をしている。喜びの中心に正はいた。駿も今、同じようにもみくちゃにされているのだろうか。
正は人々の中心で分かち合うべき相手を探していた。ずっと。




