第4話 氷室璃月
翌朝。ホームルームが始まる前。
登校中、俺はひたすらあくびを繰り返していた。もう何回目か分からない。百回ぐらいしたんじゃないか?
昨夜、ほぼ一睡もできなかった。
理由は明白。夢乃と一緒に寝たからだ。
……いや無理だろ、あんな状況で寝れるわけがない。
無防備に寝息を立てながら、ぴったり俺にくっついてくる夢乃。
途中で暑くなったのか、もこもこのパーカーを脱ぎ捨て、キャミソール一枚になっていた。
ダイレクトに伝わる柔らかい感触と、温かいぬくもり。夢乃がもぞもぞと動くたびに俺の脳は覚醒。
その結果、布団に入ってから7時間、熟睡時間ゼロ。
おかげで、朝食は喉を通らず、俺は鉛のように重たい体を引きずりながら、なんとか登校することになった。
俺は寝不足にはなってしまったが、夢乃は登校前にこう言っていた。
「陽くんのおかげでぐっすり寝られたよ~、ありがと~♪」
満足そうな笑顔だったので、まぁ……それはよかった。
そして――
「陽~、あんたもやるわねぇ^^」
にやにやしながら声をかけてきた母親には、「うるせぇ」とだけ返しておいた。
「ふはぁ……寝み……」
ふらふらと頼りない足取りで廊下を歩くたび、視界がぐにゃりとぼやける。
眠い……眠すぎる……1限目は確か世界史だったな……絶対寝よう。
生徒にぶつからないよう、重い瞼をこすっていた、その時だった。
向かい側から、ゆっくりと歩いてくる女子生徒がいた。
白い上履きに揺れるミニスカート。まっすぐ伸びた細い脚は、まるでモデルみたいだった。
銀色のロングヘアはカチューシャで前髪を上げていて、整った顔立ちがよく映えている。
透き通るような白い肌に、きっちりと着こなした制服。
――上品さを感じさせる佇まいは、さすがお嬢様っていう感じだ。
「おはようございます、氷室様!」
「今日もお綺麗ですね!」
すれ違う生徒たちが、誰もが自然に頭を下げていく。
「皆、おはよう」
銀髪の女子生徒、氷室璃月は、余裕の笑みを浮かべながら、堂々とした仕草でそれに応えていた。
すっと伸びた背筋。歩き方ひとつとっても隙がない、完璧な立ち振る舞いだ。
さすがは大企業・氷室グループのご令嬢。オーラが違う。
なんかもう、話しかけるのも恐れ多いって思ってしまうレベルだ。
「――うおっと!」
そんな彼女に見惚れていた、その瞬間。寝不足の代償が襲ってきた。
「と、とと……っ」
足元が急にふらつき、体勢を大きく崩す。
よりによって氷室の前で。
やばい、このままじゃ……いや、彼女の前でダサい醜態を晒すわけにはいかない。
なんとか倒れまいと踏ん張ろうとした、まさにその時だった。
「――きゃっ」
正面から歩いてきた氷室に、真正面から衝突してしまった。
ドサッ!
ぶつかった後、俺は彼女を押し倒す形で、その上にのしかかってしまった。
「ふふぁ~……」
体と体が触れ合った瞬間、氷室の口から妙に色気のある声が聞こえる。
「ご、ごめん!」
急いで体を動かすと、華麗な彼女にまた見惚れてしまった。
目の前には、艶やかな銀髪がふわっと広がっている。長いまつ毛に、つり目で淡いアイスブルーの瞳。
……近い。ていうか、顔、綺麗すぎだろ。
「氷室さま!……だ、大丈夫ですか!?」
周囲から上がった悲鳴のような声で、ようやく我に返る。
そして自分がしてしまった、やらかしに気づく。
やばい!やばい!やばい!
しまった!
氷室璃月を――この学園で最も神聖視されている存在を、押し倒してしまった。
美術館で数億円する壺を割ってしまった気分。
とにかく謝らなきゃ、とっさに頭を下げて――
「す、すみませんでしたぁああっ!」
そのまま、俺は全力でその場を逃げ出した。
必死にその場から去る俺の背後で、さっと黒い影が動いた。
「お嬢様に無礼を働いた不届き者として、拘束します」
「え、ちょっ、誰!?」
思わず振り向くと、そこには氷室のすぐ後ろに立っていた、無表情の女子生徒が追いかけてきた。
黒髪は肩あたりで切りそろえられている。制服越しからでも伝わる、無駄のない引き締まった体。
「私は璃月様専属のメイドです。観念してください」
俺を獲物としてロックオンした鋭い視線に、背筋が凍る。
「いや、違っ……マジで事故だったんだって!」
必死の弁明もむなしく、メイドは一切迷いなく動く。
「おわっ……!?」
メイドは急加速して、一瞬にして俺の懐へと滑り込んでくる。
次の瞬間、俺の視界は派手に一回転し、背中に凄まじい衝撃が走った。
床に盛大に叩きつけられたと気付いた時には、すでに関節技でガッチリとホールドされていた。
「痛い痛い痛い! 折れる折れる折れる!」
右手を背中側にあり得ない角度まで極められ、身動きが取れない。
「拘束完了。お嬢様、ご命令を」
俺の背中に乗っているメイドがそう告げると、氷室は腕を組み、涼しい顔でこちらを見下ろしてくる。
「あなたは名前は?」
「え?」
え、これって正直に答えたらヤバいやつ?
だが、偽名を使ってもすぐにバレるだろうし、バレたらもっと悲惨な目に遭わされそうだ。
「早く答えなさい」
「あああああ! 痛い痛い痛い!」
俺が黙り込んでいると、メイドが躊躇なく関節を締め上げてくる。
「朝倉陽……です!」
「陽……ふーん、あなたが陽なのね」
氷室はフッと鼻で笑うと、しゃがみ込んで俺の顔を覗き込んできた。
「陽。今日の私はとーっても気分が良いの。だから、特別に許してあげる」
「え!?本当ですか?」
「えぇ、私は寛大だもの」
「命乞いは無意味です。お嬢様、こいつには厳罰を与えるべきかと」
氷室は静かに目を閉じ、しばらく考える素振りを見せた。
「解放しなさい。陽の言う通り、わざとじゃないわ」
「しかし、お嬢様」
「私が解放してって言ってるの」
「……失礼しました」
「ありがとうございますっ!氷室様!」
ようやく拘束が解かれると、俺は勢いよく頭を下げた。
そしてそのまま、逃げる兎のごとく教室に向かって駆け出した。
さっきまで俺を激しく襲っていた強烈な睡魔は、いつの間にか綺麗さっぱり消え去っていた。




