1:行き先は事故物件
ベアトリスは自分がすっかり寝入っていたことに、数秒ほど気付けなかった。馬車の窓ガラスにもたれ、しばらく爆睡していたらしい。左に傾けていた首筋が、少しばかり痛かった。あとよだれも、一筋垂れている。
幸い車内は一人である。だって侍女も護衛も付けてもらえなかったのだ。ベアトリスは座席で座り直すと、軽く伸びをして首を回す。真っ赤な髪に手櫛も入れた。
「わたくしとしたことが。実家以外の馬車で寝入ってしまうだなんて、一生の不覚ですわ」
我ながら疲れていたのだろうか、と馬車で運ばれるまでに至った一連の大騒ぎを思い返す。
ベアトリスは、この国の王太子であるエドワードの婚約者――だった。そう、彼女は元婚約者なのだ。
彼女は幼い頃から未来の王太子妃、ひいては王妃となる運命を押し付けられていた。しかしここ数か月で、栄光の架け橋からあっという間に転落してしまったのだ。登り詰めるまでは十数年かかるのに、落ちるのは瞬く間である。人生って儚いね。
彼女はエドワードの元学友であり、彼の専属侍女も勤めているキティ嬢に嫉妬して暴行を繰り返した末、決闘などという野蛮な行為まで強要したため婚約破棄されたのだ。
そしてついでとばかりに、修道院での謹慎も言い渡されてしまった。
ちなみにこちらの罪状は、ほぼ冤罪である。決闘だけは一応、事実だけれど。
ここ数か月の出来事を思い返すついでに、自分の嘘九割な悪評を触れ回っているエドワードのバカ面まで思い出してしまった。ベアトリスは窓の縁に頬杖を突いたまま、チッと舌打ちをこぼす。
「疲れはしていましたが、精神的な疲労一択ですわね。忌々しい」
彼女は別に、王太子妃にも王妃にもなるつもりなんてなかったし、なりたくもなかった。幼い頃から、将来の夢はトレジャーハンターまたは、バウンティハンターだったのだ。家すなわち王城から自由に出られない王族になったら、ハント欲が満たせなくなる。
そのためエドワードが嘘八百を並べ立てている現場を見かけても、好きにさせていた。それで婚約解消が出来るなら万々歳、と考えていたのだ。
しかしまさか、か弱い女性への傷害や脅迫容疑で修道院に島流しされるとまでは、考えていなかった。あのバカ王子、やることが案外ビッグである。
「まあ、わたくしとしましても。いい静養になるので有難いのですが」
一応は修道院でお世話になるため、侍女たちは連れてこれなかったが。両親の手回しと、国王夫妻の気遣いによって、ベアトリスが向かっているのはフルユーワ修道院という場所だった。
風光明媚な海沿いの子爵領にあるそこは、行儀見習いの貴族令嬢や商家の娘がたくさんいる、戒律もゆるーい修道院なのだ。舌の肥えたご令嬢方が多いため、食事やデザートも美味らしい。
古いが荘厳な修道院自体も、街の名物にもなっているそうだ。
「愚息が迷惑をかけっぱなしで、本当に申し訳ない。君の静養中に新しい嫁ぎ先候補も見繕っておくので、安心して休んで欲しい」
とは、頭を下げっぱなしで馬車を見送ってくれた、国王陛下からのありがたいお言葉だ。
なんとかハンター志望のベアトリスとしては、嫁ぎ先よりまだ見ぬ古代遺跡が記された古の地図の方が嬉しいのだが――
「人格者の陛下と王妃殿下の間に産まれたというのに、どうしてバカ王子はあのようなボンクラに育ってしまったのかしら?」
そもそもの疑問にぶち当たり、窓の外へ視線を飛ばす。馬車は山道をひた走っていた。
「……え? 山?」
おかしい。フルユーワ修道院は海沿いの街にあり、王都から修道院に続く道も平坦だったはずだ。ベアトリスは王太子妃教育の一環として、国内と周辺諸国の地理も頭に叩き込んでいる。明らかな異常事態に、吊り上がり気味の目を細めた。
次いで彼女は、馬車の壁をコンコンと叩く。壁を挟んで、外に御者が座っているはずだ。
「ねえ、あなた! こちらの馬車は、フルユーワ修道院に向かっていまして? ひょっとして、道をお間違えではありませんか?」
ベアトリスが把握していないだけで、事故や災害などで迂回している可能性もある。また澄まし顔をしているだけで「怒っている?」と訊かれがちでもあるため、出来る限り優しい声音で尋ねたのだが。
御者は無視を決め込んだようで、何の返答もなかった。
ムッとしたベアトリスが少々強めにガンガン・ゴンゴン・ドガガガガッと壁を叩いても、完全無視である。いい根性をしている。
「……ドアをかち割って差し上げようかしら」
彼女はそう言いながら、ドアの上部に設けられたガラス窓を見据えた。次いで車内に持ち込んでいた、小ぶりなトランクを開ける。
護身用の短剣とメリケンサックは入っているものの、残念ながらドアの窓ガラスをかち割るにはリーチが足りない。うっかり手も怪我してしまいそうだ。
ベアトリスはあまり信仰心が篤い方ではないため、祈りの力で傷を治すのも苦手なのだ。どうしたものか、と腰に手を添えて考えたところで――馬車が停まった。
これ幸いと彼女がドアを開けるのと、後ろの荷台に回った御者が蹴落とすようにベアトリスの荷物を下ろし始めるのは同時だった。
「ちょっとあなた! 何をなさっているの! 割れものだってありますのよ!」
「すすす、すみません!」
彼女のドスの利いた叱責に、御者の男性は青ざめて謝ったが。しかし蹴落とす足は止まらない。
何かがおかしい。いや、積み荷を蹴落とすこと自体がおかしいのだが、その暴挙と怯えきった彼の様子がちぐはぐなのだ。ベアトリスも怪訝そうに目を細める。
彼女はそのまま周囲にくるりと視線を巡らせて、数秒後にギョッと固まった。
馬車は未舗装の坂道を塞ぐようにして、でんと停まっている。周囲に人の姿はなく、伸び放題の雑草が道の左右を彩っていた。
その道の先には、灰色の大きな石造りの建物があった。遠目にも、廃墟寸前であることが分かる。
ベアトリスは、この建物に見覚えがあった。王家と教会との関係にまつわる講義を受けた際に、事故物件あるいは劇物物件として挿絵付きで教えられていたのだ。
「ここって……アンテノーラ修道院じゃない!」
ほぼ悲鳴に近い声で叫び、再度御者を仰ぎ見る。
彼は最後の荷物を蹴り落としたところだった。そのまま素早く御者台に戻る。
「すみません、本当にすみません! でもこれ、王太子殿下からのご命令なんです! 申し訳ありませぇぇーん!」
「謝罪は間に合っていますから、もう少し詳しく説明なさいよ!」
素早くメリケンサックを装着したベアトリスが追いすがるも、御者は涙目で謝りながらも馬車をむち打ち、かなり強引に回れ右をする。
馬車は砂煙を上げながら、あっという間に来た道を引き返して行った。
残されたのは、呆然と立ち尽くすベアトリスと、辺り一面に散らばる荷物だけだった。




