第七十六話 商人の学校
人足講習が始まって一か月。
博多の港では、目に見えて変化が現れていた。
「若旦那!」
庄吉が満面の笑みで帳面を差し出す。
「新人でも、一人前になるまでの期間が半分くらいになりました!」
「荷の破損は?」
「ほとんどありません!」
弥助は帳面を閉じ、静かに頷いた。
教えることは時間がかかる。
だが、その時間は未来への投資になる。
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ある日のこと。
島井宗清が一人の若者を連れて山本屋を訪れた。
「弥助殿、この者を見てやってくだされ。」
若者は二十歳ほど。
緊張した面持ちで頭を下げる。
「吉蔵と申します。」
「商人になりたいのですが……何から学べばよいか分かりません。」
弥助は少し考え、尋ねた。
「字は読めますか?」
「少しだけです。」
「算術は?」
「足し算くらいなら……。」
宗清が苦笑する。
「商いは覚えたいが、学ぶ場所がないのです。」
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その言葉に、弥助ははっとした。
物流を支える人足には教える場を作った。
しかし、商人を育てる仕組みはまだない。
「庄吉。」
「はい。」
「帳面を持ってきてくれ。」
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弥助は帳面を広げ、吉蔵の前へ置いた。
「これは何だと思う?」
「売上……でしょうか。」
「半分正解だ。」
弥助は笑う。
「これは『約束』なんだ。」
吉蔵は首をかしげる。
「約束?」
「誰から預かった荷か。」
「いつ届けるか。」
「いくらで売るか。」
「全部、約束を書き残している。」
「だから帳面は、商人の信用なんだ。」
吉蔵の目が少しずつ輝き始めた。
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翌日。
弥助は宗清へ新しい提案をした。
「港の講習を、もう一つ増やしませんか。」
「今度は何です?」
「商人の講習です。」
「商人も育てる、と。」
「はい。」
「読み書き。」
「算術。」
「帳面。」
「荷印。」
「取引の礼儀。」
「全部教えます。」
宗清はしばらく黙っていたが、大きく笑った。
「面白い!」
「それは寺子屋ではない。」
「まさしく商人の学校ですな。」
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数日後。
倉庫の二階を借り、小さな教室ができた。
机代わりの長机。
墨と筆。
帳面。
生徒は七人。
年齢も様々だった。
十代の若者。
三十代の商人見習い。
店を継ぐ予定の娘までいる。
弥助は一人ひとりを見渡した。
「今日から。」
「皆さんは競争相手です。」
教室がざわつく。
「でも。」
「敵ではありません。」
「良い商人が増えるほど。」
「町は豊かになります。」
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最初の授業は算術だった。
「一俵を百文で十俵売りました。」
「売上はいくらですか?」
「千文!」
元気よく答える子もいれば、指を折って数える者もいる。
弥助は急がせなかった。
分からない者には、分かる者が教える。
教えることで、自分も理解が深まる。
それを自然に学ばせていった。
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授業が終わる頃。
庄吉は感心したように言った。
「若旦那。」
「まるで本当の学校ですね。」
「学校でいい。」
弥助は微笑む。
「商いは。」
「才能じゃない。」
「学べば、誰でも上手くなれる。」
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その様子を、離れた場所から一人の男が見ていた。
玄蔵だった。
「学校……。」
黒潮屋へ戻ると、すぐに源兵衛へ報告する。
「弥助は商人を育て始めました。」
源兵衛は静かに目を閉じた。
「とうとう始めたか。」
「何がです?」
「未来づくりだ。」
玄蔵は意味が分からない。
源兵衛はゆっくりと説明する。
「荷は今日を支える。」
「金は一年を支える。」
「人は十年を支える。」
「教育は百年を支える。」
部屋は静まり返った。
「弥助は。」
「百年先へ商売を始めた。」
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夕方。
教室の掃除をしていた吉蔵が、弥助へ頭を下げる。
「ありがとうございます。」
「今日、初めて商人になれる気がしました。」
弥助は笑顔で答えた。
「商人は、生まれで決まるものじゃない。」
「学び続ける人が、本当の商人になる。」
窓の外では、夕日に照らされた博多の港を、多くの船が行き交っていた。
その荷物だけでなく、人の知恵もまた、この港から日本中へ広がろうとしていた。




