記憶が文字戻る前に君と死ねたら
世界は、白と、冷たい無機質な立方体だけで構成されていた。
「……う、あ……」
乾いた床に顔を押し当てていた青年は、自身の喉から漏れた掠れた声で意識を取り戻した。
ゆっくりと上体を起こす。視界に飛び込んできたのは、つなぎ目の見当たらない真っ白な壁と、同じく白で統一された天井、そして床だった。窓はどこにもない。光源が見当たらないにもかかわらず、部屋全体が人工的な強い光で均一に照らされている。
強烈な頭痛がこめかみを突き刺した。青年は頭を押さえ、自分の名前を思い出そうとした。
(俺は……誰だ?)
名前が出ない。年齢も、自分がどこで生まれ、昨日まで何をしていたのかも、一切の記憶が霧の彼方に消え去っていた。恐怖が冷たい蛇のように背筋を這い上がる。しかし、その底なしの空白の中で、たった一つだけ、奇妙なほど鮮明に胸に焼き付いている「確信」があった。
――自分には、命を懸けてもいいと思えるほど、深く愛している恋人がいる。
その事実だけが、魂の刻印のように脳裏に居座っていた。相手の顔も、名前も、声も思い出せない。それなのに、その人物に対する愛おしさと、守らなければならないという義務感だけが、心臓の鼓動に合わせて熱く脈打っている。
「……おい、大丈夫か?」
不意に、部屋の反対側からか細い声が聞こえた。
青年が弾かれたようにそちらを向くと、そこには一人の少女が倒れていた。彼女もまた、自分と同じように白い簡素な衣服を身にまとっている。乱れた髪の間から覗く瞳は、恐怖と混乱に揺れていた。
青年はふらつく足取りで彼女に駆け寄り、その肩を支えた。
「君、大丈夫か? ここがどこだか分かるか?」
「分からない……何も、思い出せないの。自分が誰なのかも。でも……」
少女は青年の衣服の胸元を、震える手できつく握りしめた。彼女の瞳に、涙が浮かぶ。
「でも、私……あなたを知っている気がする。あなたを、ずっと探していたような……そんな気がするの」
その瞬間、青年の胸の奥で、カチリと歯車が噛み合うような音がした。
顔も名前も覚えていない。しかし、彼女の体温、その怯えた瞳、自分を呼ぶ声の響き。それらすべてが、自分の記憶の深層に残された「恋人」のパズルピースと完全に一致した。
「俺たちの記憶は消されているんだ」青年は彼女の小さな手を握り返した。「だけど、間違いない。君が俺の……俺の愛している人だ」
「うん……私も、そう思う。理由なんて分からないけれど、あなたのことだけは、絶対に忘れちゃいけないって、心が叫んでる」
二人は名前のない恋人同士として、白い部屋の真ん中で強く抱き合い、互いの存在を確かめ合った。周囲を囲む圧倒的な不条理の中で、互いの体温だけが唯一の救いだった。
しかし、その安息は長くは続かなかった。
チカ、と部屋の明かりが一瞬だけ明滅した。
同時に、それまで完全なフラットだった壁の一部がスライドし、銀色の無機質な「扉」が現れた。扉には取っ手がなく、代わりにデジタル式のモニターが埋め込まれている。
二人が警戒しながら扉に近づくと、モニターに電子の文字が浮かび上がった。
『ようこそ、選別の間へ。
現在の生存数:2
開錠条件:生存数が「1」になること。
注:片方が死亡した時点で、残された一人のために扉は永久に開かれる』
システム的な、あまりにも冷酷な宣告だった。
「片方が、死なないと……?」
少女が息を呑み、一歩後ずさった。
生存数が1になること。それはつまり、どちらか一人がもう一人を殺すか、あるいはどちらかが命を絶たなければ、この白い地獄から永遠に出られないということを意味していた。
「そんなの、嘘だ。何かの悪趣味な実験だろ!」
青年は扉を拳で激しく叩いた。金属の鈍い音が響くだけで、びくともしない。壁のつなぎ目を探そうとしても、爪が一ミリも入らないほど精密に密閉されている。部屋には食事も水も見当たらず、隅に置かれているのは、一本の鋭利な「サバイバルナイフ」だけだった。
用意された凶器。それは、明確に二人の殺し合いを促していた。
## 2
閉じ込められてから、どれほどの時間が経ったのだろうか。
部屋には時計がなく、光の加減も変わらないため、時間の感覚は完全に麻痺していた。喉の渇きと空腹が、確実に二人の体力を削っていく。
二人はナイフから最も遠い部屋の隅に、身を寄せ合って座っていた。
「ねえ……」少女が青年の肩に頭を預けながら、掠れた声で呟いた。「私たち、外の世界ではどんな風に出会って、どんな風に過ごしていたのかな」
「きっと、普通の、どこにでもある幸せな恋人同士だったさ」青年は彼女の細い肩を抱き寄せ、優しく微笑んだ。「一緒に美味いものを食べて、くだらないことで笑って……。記憶はなくても、君を愛しているという感覚だけで分かる。俺は君に、毎日惚れ直していたはずだ」
「ふふ、そうだといいな……」
少女は力なく笑ったが、その瞳の奥には、色濃い絶望が滲んでいた。
どれだけ愛し合っていても、極限状態は人間の精神を蝕む。空腹による幻覚、渇きによる焦燥。何より、「どちらかが死ななければならない」というルールが、見えない毒ガスのように二人の間に充満していた。
ある時、青年が浅い眠りから目を覚ますと、少女が部屋の隅にあるナイフをじっと見つめていることに気づいた。彼女の身体は小刻みに震えていた。
青年は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
(彼女に、こんな思いをさせていいわけがない)
彼は決意した。もし、どちらか一人しか生き残れないのであれば、生きるべきは彼女だ。自分の中に眠る「恋人を守る」という本能が、彼に自死を選ばせようとしていた。
「……ねえ」
少女が突然、立ち上がった。その手には、いつの間にかあのナイフが握られていた。
青年は息を呑んだが、逃げようとはしなかった。彼女が自分を殺してここを出るというのなら、喜んでその刃を受け入れる覚悟があった。
「ごめんね」少女は涙をボロボロとこぼしながら、ナイフを構えた。「私、もう耐えられないの。この暗闇も、お腹が空くのも、自分が誰だか分からないのも……。だから、終わらせるね」
「いいよ」青年は優しく微笑み、両腕を広げた。「君が生き残ってくれ。外に出たら、俺の分まで生きて、俺たちの本当の名前を見つけてくれ」
少女は叫び声を上げながら、青年へと突進した。
鋭い刃が青年の胸元へと迫る。青年は静かに目を閉じた。
しかし――肉体を切り裂く痛みは来なかった。
「あ、あ、あああああ!」
凄惨な悲鳴が響き渡り、青年が慌てて目を開けると、少女は自分の胸にナイフを深く突き立て、床に崩れ落ちていた。
「な……何を、しているんだ君は!」
青年は狂ったように叫び、彼女の身体を抱き起こした。彼女の胸からは、鮮紅の血液が止めどなく溢れ出し、白い床を急速に赤く染めていく。
「違うの……」少女は血を吐きながら、弱々しく笑った。「こうするしか、なかったの……。あなたを殺すなんて、私の心が、絶対に許さなかった。最初から、あなたを騙して、自分が死ぬつもりだったの……」
彼女は最初から、青年を生き残らせるために、わざと悪役を演じて自刃したのだ。記憶を失ってもなお、彼女の青年に対する愛は、自己犠牲を選ぶほどに純粋で、強固だった。
「嫌だ! 死ぬな! 目を開けてくれ!」
青年は必死に傷口を両手で押さえたが、指の隙間から命の灯火が溢れ出していく。
「生きて……ね……。私の、大好きな、人……」
少女の瞳から光が消え、繋いでいた手の力が完全に抜けた。
頭がダラリと傾く。彼女は息を引き取った。
「あああああ! いやだああああ!」
白い部屋に、青年の絶望の慟哭が木霊した。世界で一番愛する人を失った。自分の命に代えても守りたかった存在が、自分を生かすために死んだ。その事実が、彼の心を木っ端微塵に打ち砕いた。
パチ、と部屋に冷徹な電子音が響いた。
『生存数:1。開錠条件を達成しました』
カチャリ、と重厚なロックが外れる音がして、銀色の扉がゆっくりと外側に向かって開いた。扉の向こうには、どこまでも続く暗い通路と、その先にかすかな外の光が見えていた。
## 3
青年は、魂が抜け殻のようになった身体を引きずりながら、立ち上がった。
足元は、かつて愛した少女の血で汚れている。彼はもう、涙を流すことすらできなかった。ただ、彼女が遺した「生きて」という言葉だけが、呪いのように彼の四肢を動かしていた。
彼は一歩、また一歩と、開かれた扉へと歩みを進めた。
愛する人の骸を振り返ることはできなかった。振り返れば、その場から一歩も動けなくなることが分かっていたからだ。
青年の足が、部屋の境界線である扉の敷居をまたぎ、外の通路へと踏み出した。
その瞬間。
頭蓋骨が割れるような、凄まじい衝撃が青年の脳を襲った。
「が、はっ……あ、あああああああ!?」
青年は頭を抱え、床にのたうち回った。脳内に、濁流のような「記憶」の津波が押し寄せてきた。ストッパーを外されたダムのように、失われていたすべての過去が、色彩と音を伴ってフラッシュバックする。
自分の名前は、滝川蓮。
そして、中で冷たくなっている彼女の名前は、美咲。
二人は大学時代から付き合い、来月に結婚を控えた、誰もが羨むほど仲の良いカップルだった。
そこまでは良かった。だが、記憶の濁流は、さらにその奥にある「最も残酷な真実」を容赦なく剥き出しにした。
脳裏に再生されるのは、数日前の、薄暗い地下室の記憶。
そこには、怪しげなガウンを着た男たちと、巨額の大金が積まれたテーブル。そして、自らの意志で契約書にサインをする、自分自身の姿があった。
『滝川さん、本当にいいのですね? この「ブレイン・ゲーム」への参加は、破産したあなたの借金を帳消しにし、さらに巨額の富を得る唯一の方法ですが……相応のリスクを伴います』
『構いません。美咲には、絶対に苦労をかけたくないんだ。彼女を幸せにするためなら、俺は何だってする』
そう、この部屋に二人を閉じ込めたのは、他でもない青年――蓮自身だったのだ。
蓮は莫大な借金を抱え、追い詰められていた。愛する美咲との結婚生活を守るため、彼は裏社会で噂される悪魔のゲームへの参加を決意した。
ルールは簡単だった。
「愛し合う二人を拉致し、お互いの記憶を『恋人がいる』という事実だけ残して消去する。そして、一人が死ぬまで出られない部屋に入れる。生き残った者には、すべての富と自由が与えられる」
蓮は、自分の愛の深さを過信していた。
(記憶を消されても、俺は絶対に美咲を愛し、彼女のために命を投げ出せるはずだ。俺が部屋で美咲のために死ねば、美咲に莫大な遺産が渡り、彼女は救われる)
彼は美咲を巻き込み、彼女の記憶を消させ、このゲームにエントリーした。すべては「美咲を救うために、自分が美咲の身代わりになって死ぬ」ための計画だった。
しかし、結果はどうだ。
記憶を消された美咲もまた、蓮を狂おしいほどに愛していた。
その愛の深さは、蓮の想定を遥かに超えていた。彼女もまた、「相手のために自分が死ぬ」という、蓮と全く同じ結論に達してしまったのだ。
蓮が仕掛けた独りよがりの愛の証明は、最悪の形で裏返った。
彼は美咲を幸せにするためにゲームを始め、美咲を救うために死のうとした。しかし、彼女のあまりにも純粋な愛によって「生かされて」しまった。
「ああ……あああ……いやだ、嘘だ、嘘だろおおお!!」
通路の床に伏せり、蓮は血を吐くような叫び声を上げた。
すべての記憶が戻った頭で、今、自分がしでかした罪の重さを理解した。
中に転がっている死体は、自分がその手で地獄に引きずり込み、自分の計画のせいで命を散らした、最愛の婚約者。
彼は自由を手に入れた。莫大な富も手に入れた。
しかし、それを手に入れるために支払った代償は、自分が世界で一番愛し、守りたかった彼女の命そのものだった。
蓮は狂ったように笑い、そして泣いた。
開かれた扉の向こう、白い部屋の真ん中で、美咲の身体は静かに横たわっている。その表情は、愛する人を救えたという満足感からか、どこか穏やかにすら見えた。
残されたのは、すべてを思い出し、永遠に消えない罪の意識と絶望の泥濘に突き落とされた、一人の男だけだった。
世界は相変わらず、冷酷なまでに静まり返っていた。




