第2話 雪の日に拾った、ただ一人の味方
熱が引いて三日後。
私は久しぶりに、屋敷の裏庭へ出た。
朝の空気はひんやりとしていて、深く吸い込むと、頭の奥までさっぱりと澄んでいく気がする。
庭の隅では、アルヴィンが木剣を握り、一人で素振りをしていた。
「はっ……!」
小さな掛け声とともに、まっすぐに振り下ろされる剣。
十四歳とは思えないほど、動きに無駄がない。
私は木陰のベンチに腰を下ろし、その姿をぼんやりと眺めた。
(アルヴィンって、ゲームには出てこなかったのよね)
攻略対象の騎士は、別にいた。
セレスティアの護衛騎士なんて立場の人物は、ゲームの中には、名前すら登場しない。
つまり彼は、物語の筋書きの外にいる人。
(だから、筋書きを変えるための、鍵になってくれるかもしれない)
そんな打算的なことを考えてしまった自分に、少しだけ罪悪感を覚える。
けれど、その考えは、すぐに別の感情に塗り替えられた。
素振りを終えて額の汗を拭ったアルヴィンが、私に気づいて、ぱっと表情を明るくしたからだ。
「お嬢様! お散歩ですか? お一人では危ないですよ」
木剣を放り出さんばかりの勢いで駆け寄ってくる。
まるで、飼い主を見つけた大型犬みたいだ。
「少し外の空気を吸いたくて。熱もすっかり下がったわ」
「でしたら、僕もお供します。お嬢様が倒れていた間、生きた心地がしませんでしたから」
「大げさね」
「大げさではありません」
アルヴィンは、真面目な顔で首を振った。
「お嬢様に拾っていただいた命です。お嬢様がいなければ、僕は四年前の冬に、雪の中で終わっていましたから」
その言葉に、私は思わず目を瞬かせる。
そうだ。
あの冬の日のことは、私もよく覚えている。
八歳の冬のことだった。
朝から降り続いた雪が、公爵邸の門前を真っ白に埋めていた。
侍女の目を盗んで、庭に雪だるまを作りに出た私は、門の脇に不自然な盛り上がりがあることに気づいたのだ。
「……なに、これ?」
近づいて雪を払うと、そこには、ぼろぼろの服をまとった少年が倒れていた。
唇は紫色で、頬は雪のように白い。
「ねえ! ねえ、起きて!」
小さな肩を必死に揺すっても、返事はない。
息は、かろうじてある。けれど、今にも消えてしまいそうなほど弱々しかった。
「死んじゃだめ! お願い、死なないで!」
私は声の限りに叫んだ。
「誰か! 誰か来て! お願い!」
駆けつけた衛兵たちに運ばれていく少年の手を、私は最後まで握りしめていた。
冷たくて、小さな、骨ばった手だった。
翌朝、目を覚ました彼は、ベッドの傍らで寝入ってしまっていた私を見て、掠れた声でこう言った。
「……あなたが、助けてくれたんですか」
「ええ。もう大丈夫よ。ここは安全だから」
灰色の瞳が、ゆっくりと私を映した。
「……ありがとう、ございます」
それが、私とアルヴィンの、最初の会話だった。
私は微笑んで、彼の顔を見上げた。
「あれは、たまたま私が見つけただけよ」
「たまたまでも、僕にとっては全部です」
真っ直ぐな灰色の瞳が、私を映す。
「ですから、お嬢様をお守りするのは、僕の役目です。他の誰にも、譲れません」
子どもらしい、大真面目な忠誠心。
微笑ましくて、少し胸が温かくなった。
(そうよね。この子が味方でいてくれるなら、きっと心強いわ)
私は笑って、彼の頭に手を伸ばした。
「ありがとう。頼りにしているわ、アルヴィン」
アルヴィンは、一瞬だけ目を見開いてから、耳の先まで赤くした。
「は、はい! お任せください!」
その日の夕食の席で、父が静かにナイフを置いた。
「セレスティア。大事な話がある」
嫌な予感がした。
父の隣では、母が、どこか誇らしげに微笑んでいる。
「王家から、正式な打診があった。王太子レオンハルト殿下と、お前の婚約が内定した」
かちゃん、と、手の中のフォークが皿に当たった。
(……来た)
わかっていたことだ。
ゲームの中でも、セレスティアは幼い頃に王太子の婚約者に決まっている。
けれど、いざ目の前で言葉にされると、背筋が冷たくなった。
「お前も、もう十二歳だ。殿下とは年も同じ。公爵家にとっても、これ以上ない良縁だよ」
「……はい、お父様」
笑顔を作って、頷く。
(これが、断罪への第一歩……)
ここで拒めば、公爵家に傷がつく。
せめて今は、おとなしく受け入れるしかない。
大丈夫。まだ時間はある。
私は食事の味もわからないまま、残りのスープを、機械的に口へ運んだ。
その夜。
私は自室の机の前で、膝を抱えていた。
引き出しには、日本語で書いた破滅回避ノート。
しっかりと鍵をかけ、その鍵を、寝巻きの胸元に隠している。
(婚約が決まったのは、予定どおり。ここから、六年……)
窓の外では、冷たい夜風が、庭の木々を揺らしていた。
かたり、と、扉のほうで小さな物音がした。
「お嬢様。夜分に失礼します。灯りがまだ点いていたので」
アルヴィンだった。
見回りの途中なのか、腰には、木剣ではなく本物の短剣を下げている。
「眠れませんか」
「ええ……少し、考えごとをしていて」
彼は部屋の入り口で立ち止まったまま、それ以上は近づいてこない。
けれど、その視線が、一瞬だけ、私の机の引き出しをかすめた気がした。
(……気のせいよね)
私は、思い切って口を開いた。
「アルヴィン。一つだけ、お願いしてもいい?」
「もちろんです」
「もし、この先……私が、皆に嫌われるようなことになっても」
言葉が、喉に引っかかる。
それでも、続けた。
「あなたは、私の味方でいてくれる?」
部屋の空気が、ほんの少しだけ、静かになった。
アルヴィンはしばらく黙って、それから、ゆっくりと膝をついた。
「お嬢様」
低く、落ち着いた声。
「僕は、どんな時も、お傍におります」
その言葉に、嘘は少しも感じられなかった。
だから私は、心から安心して、微笑んでしまったのだ。
「……ありがとう」
その時、彼がどんな顔をしていたのか。
うつむいていた私は、見ていなかった。




