第15話:二度と拾われない場所で、あなたと帰る家を
春になった。
国境を越えた夜から、およそ半年。
ゼルク城の庭では、冬の間に眠っていた枝へ、小さな新芽がついていた。
輸送の見直しは、担当者たちの工夫で少しずつ広がった。
節減できた費用の一部は、関所の待合所と、領内の道の補修へ回された。余裕のある地区では、冬の救療費の補助も試せるようになった。
何もかもが一度に良くなったわけではない。それでも、来年はここを直そうと話せることが嬉しかった。
市場の春祭りで、薬草商の奥さんに声をかけられた。
「今日はお仕事?」
「いいえ。お休みです」
「それなら、このパンは熱いうちに。お連れの方と半分にするといいわ」
礼を言って振り向くと、クラウスが両手に紙袋を提げていた。
私が目を留めた焼き菓子を、気づかないうちに買っていたらしい。
「買いすぎではありませんか」
「明日の分もある」
「明日の約束まで、取られてしまいましたね」
彼は真面目に頷いた。
「その先の約束も、できれば欲しい」
胸が、静かに跳ねた。
最近、私たちは結婚について話すようになっていた。仕事を続けること、家族との行き来、忙しい時にも一緒に食事を取ること。
甘い話ばかりではなかったが、意見が違っても、どちらかが黙って従う結論にはならなかった。
彼の母と、私の両親にも会った。
母は別れ際、私が前よりよく笑うようになったと言い、こっそり目を拭いていた。
父には、困った時は心配をかけてほしいと言われた。
私は、今度は隠さないと約束した。
夕暮れ、城へ戻る前に、私たちは庭の小さな東屋へ寄った。
ここには冬の間も、風の穏やかな日に本を持ってきた。議会の話をして言い合いになった日も、何も話さず寄り添った日もある。
特別なことのない午後を重ねた場所だった。
クラウスが紙袋を卓へ置いた。
それから、内ポケットへ手を入れる。
出てきたのは指輪の箱だけではなかった。少し折り目の柔らかくなった、一枚の紙。
『次の休日、東の書店へ一緒に行きませんか。エレノア』
「まだ、持っていてくださったのですか」
「初めて、君から誘ってもらった手紙だからな」
彼は大切そうに紙を戻した。
その仕草だけで、もう泣きそうだった。
「君と暮らしたい。仕事の話がある日も、何もせず過ごす日も。うまくいかない時には、黙って遠ざからずに話したい」
クラウスは私の前へ片膝をついた。
開かれた箱には、銀色の輪に小さな星のような石を留めた指輪があった。日常でも着けやすいものがいいと、二人で話した形だった。
「エレノア・ハミルトン。私と結婚してくれないか」
私は深く息を吸った。
木々の間を風が渡り、目の前には返事を待つ人がいる。結婚の話を何度もしたはずなのに、彼の手は少し震えていた。
「はい。私も、あなたと暮らしたいです」
声が震えたが、最後まで言えた。
「支えていただくばかりにはなりませんよ。疲れた日は私に寄りかかってください。困った時は、格好をつけずに話してください」
「努力する」
「そこは、お約束してください」
クラウスが笑った。
少し目が潤んでいるのを見て、私まで涙がこぼれた。
「約束する。だから君も」
「はい」
差し出した左手の薬指に、指輪が収まる。
立ち上がった彼へ両腕を伸ばすと、すぐに抱きしめ返された。
私は自分から顔を上げ、彼に口づけた。
「……返事は、もうもらったと思ったのだが」
「今のは、私がしたかっただけです」
彼が嬉しそうに笑う。
その顔を見て、これから何度でも、この人を笑わせたいと思った。
日が傾き、東屋の床へ長い影が落ちた。
帰ろうとした時、クラウスが手帳を取り出した。明日、街へ頼む品を書き留めておきたいという。
「ペンを、借りても?」
藍色の万年筆を渡すと、彼は短く書きつけた。
蜂蜜。林檎。
それから少し考え、私の好きな紅茶も足した。
生涯の約束をしたすぐ後に、明日のお茶の相談をする。
そんな小さなことが、胸いっぱいに嬉しかった。
私はもう、拾ってもらうために誰かを待たない。
行きたい場所へ歩き、一緒にいたい人へ手を伸ばせる。
「帰りましょう、クラウス様」
「ああ。一緒に」
繋いだ手の先で、新しい指輪が夕日を受けた。
城の窓には、温かな灯がともり始めている。
明日も、明後日も、その先も。
あの夜には想像できなかったくらい、私は帰り道を楽しみにしていた。




