第1話:頭を冷やせと言われたので、二度と戻らない場所へ行きます
「少しは可愛げを身につけろ、エレノア。一晩頭を冷やせば、自分の立場も分かるだろう」
夜会からの帰り道。王都へ向かう幹線道路を外れたところで、私は馬車を降ろされた。
初秋の夜風が、薄手のドレスを冷やしていく。
目の前には婚約者のセドリック・ローガン侯爵令息。馬車の奥では、今夜も彼に寄り添っていたリリアン男爵令嬢が、扇で口元を隠していた。
「王都までは馬車でも一時間以上あります。寒いのです。それに、人通りのない夜道は危険です。本当に、私をここへ置いていくのですか」
「お前がリリアンに謝らないからだ!」
彼が持ち出したのは、昨日の執務室での一件だった。
リリアンがインクをこぼしたのは、納税猶予の申請書と、治水工事の支払計画。汚れた帳票を各担当者と照合し、夜明けまでかけて復元したのは私だ。
「慣れない手伝いをしただけなのに、『書類に触るな』などと。お前はどれだけ心が狭いんだ」
「確認前の書類は動かさず、触れる時には担当者に声をかけてください、と申し上げました。謝罪を求めたのではありません」
「また言い訳か。女のくせに数字ばかり振りかざして!」
説明は、最後まで聞いてもらえなかった。
いつものことだった。失敗の責任は私のもの。立て直した仕事は彼の手柄。それでも領民への支払いがあるからと、私は執務室へ戻ってきた。
けれど、今夜は違う。
「明日の朝まで迎えは寄越さない。泣いて反省していろ!」
御者が何か言いかけたが、セドリックの怒声に口を閉ざす。
扉が閉まり、車輪の音が遠ざかった。後部の灯火が見えなくなってから、私はようやく息を吐いた。
「……もう、いいわ」
震えていた。寒さのせいだけではない。
それでも、追いかけたいとは思わなかった。
冷えたのは私の頭ではなく、この人に残していた最後の情だった。
路肩から離れ、道標の陰で手提げ袋を開く。入っているのは財布と身分証、通行旅券、それに薄い革底の室内履き。
足を痛めやすい私は、夜会の帰りに履き替える靴をいつも持っていた。泥を避けられる靴ではないが、細い踵で歩くよりはましだ。
旅券は半年前、実家の商いで国境市場へ行くために取ったものだった。急な商用に備えて身分証と一緒に持ち歩いていた、有効期限の残る書類が、今夜は役に立つ。
道標には、宿場まで一キロとある。
私はこの道を知っていた。侯爵領へ向かう物資の運賃を調べるため、宿場の時刻表を何度も見たからだ。零時には、隣国ガルシア帝国へ向かう郵便馬車が出る。乗客も数人なら乗せてくれる便だ。
時計は、まだ十一時前を指していた。
歩き出すと、小石が薄い靴底を押した。茂みの音には足が止まりそうになった。
そのたびに、前方の宿場の灯を見た。
謝れば戻れる。そんな考えが一度だけ浮かび、私は強く首を振った。
謝らなければ夜道へ捨てられる場所を、帰る家とは呼びたくなかった。
二十分ほどで宿場に着くと、まず人のいる食堂へ入った。
女将は私の姿を見ても詮索せず、火のそばの椅子を引いてくれた。
「乗合なら、まだ席があるよ。先に温かいものを飲みなさい」
白い湯気を見た途端、指の震えが大きくなった。
私は両手で杯を包み、落ち着くのを待ってから、紙と封筒を借りた。
実家の執事には、無事であること、当面は帝国側の国境都市に滞在すること、荷物は指示があるまで保管してほしいことを。
契約を預けてある王都の代書人には、婚約解消の申し立てと、融資の追加実行を止める手続きを依頼した。
衝動だけで、すべてを消せるわけではない。だからこそ、必要な手順は自分で踏む。
最後に郵便係から小箱を買い、指輪を外した。
サファイアを布で包み、セドリック宛ての短い返却状とともに小箱へ収める。女将に立ち会ってもらい、宿場の郵便係へ料金を払って預けた。
もう、これをつけて彼の機嫌を待つことはない。
出発を告げる鈴が鳴った。
乗合馬車には行商の夫婦と、眠そうな若い職人がいた。私は空いた席へ腰を下ろし、貸してもらった毛布を膝にかけた。
「どちらまで?」
「国境都市まで、お願いします」
自分で行き先を告げる。ただそれだけのことが、胸に沁みた。
馬車が動き出す。窓の外を流れる灯を見ながら、私は指輪の跡をそっと撫でた。
明日の朝、あの人は私を迎えに来るのだろう。
けれど、その場所に私はいない。
今度の行き先を決めたのは、私なのだから。




