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【番外編】息子クリスの受難


「クリス!」


ルーファスが急ぎ出て行こうとする、クリスに声を掛ける。


「イグニスを使え」


クリスは頷く。

イグニスとは、侯爵家で所有する馬で一番の駿馬だ。

ルーファスの大事にする馬で、普段は頼んでも貸してなどくれない。

クリスは厩に駆けていった。


「間に合うかしら?」


ローズが心配そうに呟いた。


「君、分かっていてやっているだろう」


ルーファスがローズを呆れた目で見る。


「あら、何のことかしら?」


小さく笑うローズにルーファスは溜め息を吐く。


「あの愚息も、女性に逆らうことなど出来ないと早く気付いて欲しいものだな」

「酷い言い草ね」

「どっちが」


二人は食堂の窓から、イグニスに乗り駆け出すクリスを見下ろしながら笑った。













潮風が絡みつく。

海鳥の鳴き声が谺している。

波は小さな騒めきを讃え、太陽は朗らかに地上を照らしている。

長閑な景色だ。

海の真っ青なコバルトブルーと、大地のアンバーが自然に溶け合っている。

こんな時でなければ、クリスも楽しめたかもしれないと、意識の遠くで考えた。



「アリア!!」


船に乗り込もうとするアリアを呼び止めた。

間一髪であった。


「あら?どうしたの、そんなに慌てて」


驚くアリアを見て、クリスは何故か怒りが湧いてくる。


「君は……!なんて勝手な女性なんだ!僕を振り回して楽しいか?!」

「振り回すなんて……。どうして怒っているの?」

「いつもそうだ!学園でも自分より不出来な僕を嘲笑っていたんでしょう?」

「はあ?私がいつ貴方を嘲笑ったっていうのよ」

「廊下ですれ違った時や、エントランスでかち合った時、中庭で目が合った時、えーと、それから……」

「貴方……そんなに私を見つめてたの?」

「なっ……!」


アリアが呆れた様に言うと、クリスは絶句した。


「だってそうでしょう?それだけ私を見てたって事じゃない。所で貴方、何しに来たの?」

「何しにだって?!何しにって……僕は……」


君を迎えに———。


クリスが急に黙ってしまうと沈黙が落ちた。


「あのーぅ、そろそろ出航しますが」


乗船員が声を掛ける。


「今、乗り……」

「乗りません!」


クリスがアリアの言葉を遮る。

乗船員は首を傾げながら出航の準備を始めた。


「貴方、勝手に何をするのよ」

「勝手なのは君じゃないか!」

「私のどこが勝手なのよ?」


クリスはぐっと詰まる。

アリアの前ではいつもそうだ。

とても大事な言葉が喉まで出かかっているのに、言えない。


素直に。

素直にならなければ、一生後悔して生きる事になる。


クリスは拳を握り締めると、アリアの顔を見た。

不思議そうに見返してきた瞳は、どんな宝石よりも美しいと思った。


クリスは、跪いた。

まるで懇願する様に、アリアの手を取り、唇を当てた。


「アリア・ダイタス様、一生大事にすると誓います。私の妻になって頂けませんか?」


アリアは満面の笑みを浮かべる。


「ええ。喜んで」


クリスはぽかんと口を開ける。

しょうがない人、と言わんばかりにアリアがクリスを立たせ、抱き着いた。


いつもクリスはアリアに劣等感があった。

そして裏返せばそれは強烈な憧れだ。

嫌だと思いながらも彼女がどこにいても一番に見つけてしまう。

彼女の一挙手一投足に目を奪われ、焦がれていた。

それを小さなクリスの劣等感が邪魔をする。

嫌だ、嫌だと小さな子供の様に拒否しながらも抗えない。

まるで運命の様に、素直になれないクリスを絡め取り、雁字搦めにした。


あの、一夜で付いた深い傷は、いつしかクリスが本心を隠してしまえない様にしてしまったのだ。


「君に一つ言っておきたい事がある」


クリスはアリアの小さな背に腕を回しながら、意味の無い抵抗を試みる。


「君も見ていたんでしょう?」

「何の事かしら?」

「僕が君を見る時、必ず目が合った。だから、君も見ていたんでしょう?」


アリアは今更と言わんばかりに笑う。


「そうね、そういう事にしといたら幸せなんじゃないかしら?」


まったく。

喰えない女だ。


「さて、貴方の所為で予定が狂ったわ。次の船は明日まで待たなきゃいけないのよ?」

「ええっ?!」


結局想いが通じ合っても行ってしまうのかとクリスは驚嘆の叫びを上げる。


「卒業旅行よ?行くでしょ、普通。たった一か月も我慢出来ないのかしら?」


クリスは頭を抱える。

———やられた!


「帰ってきたら忙しいわよ?貴方をまず父と母に紹介して、婚姻の日取りも決めなければね。それから、婚約式だけど、あんまり騒がしいのは好まないから質素でいいわ。流石に結婚式はそうはいかないでしょうけど」


クリスは、屋敷にいる父母の顔が浮かぶ。

クリスの周りは喰えない人間で一杯だ。


「どうかした?」


見上げてくるアリアの顔を見たら、クリスはどうでも良くなってしまった。


「いや、どうもしません。それより、明日まで宿でじっくりその辺の話を二人でしませんか?」

「話どころじゃなくなってしまうんじゃない?」

「僕としてはそう願いたいんですが」


いつもアリアに手綱を握られた、クリスの受難はまだまだ続きそうだ。










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― 新着の感想 ―
[一言] ふふふ。親子二代で一夜から始まる結婚ですね。 三代目もあるかな?
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