僕は貝になりたい
夕陽が最も綺麗な時間帯――。
常識的に考えれば、洒落た雰囲気の喫茶店にいるなんてことはまずあり得ない。
そんなことを思いながら俺は外の人通りをぼんやりと眺めていた。
「……で、義姉ちゃんの件はあれからどうなったの?」
向かい合うように座る同伴者は機を見計らってそう切り出してきた。
落ち着いた口調。しかしその表情は普段と比べて幾分か神妙な面持ち。
「んー……特になにも」
「ずいぶんと他人事ね」
「そうか?」
「やっぱりお兄さんは義姉ちゃんと付き合いたいの?」
「いや、それはちょっと……」
「じゃあなんで?」
思わぬ質問ラッシュ。攻撃的なハルカならともかくカエデにしては珍しい。
女は恋愛というものに並々ならぬ興味を示す生き物だというのは知っていたが、よもやこれほどとは思わなかった。
「ハルカはアレでけっこうモテるから三週間もあればどうにかなるかなって」
「その根拠は?」
「あ、いや、根拠とかはとくにないです……」
俺があやふやな返事を返す度にカエデの眼光が鋭くなる。
珍しく一緒に帰ろうと誘われてホイホイついてきた結果がこのザマ。
デートだと浮かれていた一時間前の自分を殴りたい。
「んとね。義姉ちゃんは本気だと思う。お兄さんにはわからないかもしれないけど」
あくまで冷静を装いながらもどこか燻るような喋り方――。
察するに問題を直視しない楽観的な俺の姿勢がカエデの怒りを買ったのだろう。
絶望のあまり馬鹿正直にすべて話した俺の自業自得とはいえ、こういった場はハッキリ言ってありがた迷惑でしかなかったが、それでも俺の為を思って言ってくれている以上は無下にできるわけもない。
……さて、どうしたものか。
「やっぱり私が直接介入しようか?」
「いや、それは大丈夫だ。問題ない」
「問題大ありだと思うけど?」
自分を頼れとばかりに口調を強めるカエデさん。
俺としてはカエデとハルカの間に不和を生むような真似は絶対にさせたくない。
自分でそうなる原因を作っといてなんだが、カエデにはこの件から手を引いてもらいたいというのが俺の本音だった。
「本当にヤバくなった時に頼らせてもらうよ。カエデは俺にとっての切り札だ」
「へー……それなら今使わないとね」
「いやいや、俺がヤバイと感じたらでお願いします」
「まさかとは思うけど、私と義姉ちゃんがそのことで不仲になったらどうしようとか考えるわけじゃないよね?」
「ハハハ……まさか。そんなことあるわけないじゃないですか。生憎と俺は自分のことで精一杯ですよ」
寿命を縮めかねない女特有の勘の鋭さ――。
マイマザーにしてもハルカにしてもそうだが、たまに俺の心を覗き見たんじゃないかってぐらい的確なことを言ってくるから困ったものだ。
「えぇーと……」
今のままの流れだと“詰む”予感。
ここで話の流れを変えないとジリ貧だ。
「ところでカエデの方はどうなんだ? 浮いた話を一切聞かないけど」
「私?」
「お前は二年男子の間でもけっこう有名人だぞ。何人か撃沈したと聞いてる」
「ああ……」
「なんでも好きな人がいるんだって?」
「それは方便。私は自分の好みがよく分からないから……」
そういって言葉を濁すカエデ。攻めるのは得意でも攻められるのは苦手らしい。
俺からしたら少なからず妹のような感情を抱いている部分があっていまいち踏ん切りがつかないが、赤の他人だったら告っててもおかしくないレベルの美少女。
……気にならないと言えば、それは嘘になる。
「じゃあ、好きな相手はいないってことか?」
「それは……」
咄嗟に顔を逸らすカエデ。どうやら相手がいないというわけではないらしい。
おかげで俺の心は超絶ブルーな気持ち一色で染め上げられた。
「はあ……マジかよ。いるのか……」
急降下を始める俺のテンション。まるで大暴落した株価のようだ。
これは夢に違いない。そうでないと困る。
「うん。ごめんね……」
申し訳なさそうにそう言って俺と視線を合わせようとしないカエデ。
俺の心臓の鼓動は限界を通り越して融解寸前となった。
「ははっ……そっか……いるのか……」
阿鼻叫喚を上げる俺の魂。ズキズキと痛む俺の心臓。
心にぽっかりと開いたのはブラックホールのような風穴。
「ショックだった?」
「そりゃ……まあ……ね……」
「ごめんね」
なんとか最後の気力を振り絞って平静を装ったものの、五分前に食ったチーズケーキをリバースしてしまいそうなぐらいの精神的ダメージ。
うっかり気を抜けばショックのあまり意識がショートしてしまいそうだ。
「まあ、その……なんだ。お互い相手の恋愛に介入するのはやめよう」
「私が切り札だというのは嘘だったの?」
「いや、それは……」
「気を使わなくても私はお兄さんの味方だから」
そう言われると何も言い返す事ができない自分が情けない。
ちょっとぐらいならカエデに異性として意識されているかもしれないという希望的観測があったが、それが今日、今、この瞬間をもって完全に砕け散った。
……死にてえ。次に生まれ変わるとすれば、僕は貝になりたい。
「ねえ、覚えてる?」
「ん?」
「私が初めてお兄さんと会った時のこと」
「ああ……」
あれは今から六年ほど前。前後の記憶は曖昧だがそれだけは鮮明に覚えてる。
俺とハルカがこの地に引っ越してきて二週間ぐらい経った頃だ。
背広がよく似合う男性に連れられてやってきたのは、ランドセルを背負い大事そうに本を抱えた大人しそうな少女。
ハルカに続いて俺が挨拶したら怯えられたあげく逃げられたんだっけか。 あとから聞いた話だと、ハルカとカエデはその時点ですでに親の再婚の顔合わせとかで何度か会ったことがあるらしかったが、その時が俺とカエデの初めての出会いだった。
「……けっこう唐突だったよな」
「うん。義姉ちゃんができることは知ってたけど、まさかお兄さんまでできるとは思わなかった」
「そうなった原因……覚えてるか?」
「私が懐かなかったからでしょ」
「そうそう。ショックだったんだぜ。あからさまに避けられるってのは」
「そうだっけ?」
「そうだよ。だから言ってやったんだ。お前は今日からお前の兄だってな」
それからしばらくしてから人見知りのカエデは俺に慣れてくれた。
そこからは完全に打ち解け、毎日三人で登下校するのが当たり前だった。
今思えば、あの頃のハルカなら性格に難がなく問題なく付き合えただけに現状が嘆かわしい。
「……って、なぜに昔話を?」
「たまにはいいじゃない」
「そういえばいつの間にかすっかり疎遠になったな。今では今日みたいに一緒に帰ったりすること自体が珍しい」
「それはお兄さんが男友達と遊ぶようになってからじゃない」
「……そうだっけ?」
気にしたことがなかったが、言われてみればそんな気がしないでもない。
中学生になって他人とは思えないぐらい馬が合う遠藤や高林とつるむようになってから徐々にだが確実にハルカとカエデと遊ぶ機会が減っていき、お祭りにしてもクリスマスにしても初詣にしても傷を舐めあうように男三人で嘆きながらの行動。
……冷静に考えれば謎過ぎる。なんで俺は野郎を優先してきたんだ?
目が覚めたのかどうかまでは分からないが、自分の行動が信じられなくて震えた。
「私は寂しかったよ。なんだかお兄さんを盗られたみたいで……」
「そうか……ごめんな。男友達とばっか遊んで……」
「そう思うのなら、もっと大切にしてもらいたかったかな」
「すまん……」
今までにこういった会話をする機会がなかった。
いや、仮に機会があったとしても俺は今みたいに気付けなかったかもしれない。
決して自分さえよければそれでいいというつもりはなかったが、ハルカやカエデが蔑ろにされたと思っているのならそれが事実。
――俺にそれを否定する権利などなかった。
「私はともかく、義姉ちゃんはどう思ってるんだろうね?」
「それは……」
「ちょっとは真面目に考える気になった?」
「はい……」
「よろしい。じゃあ、そろそろ帰ろっか」
そう言って席を立つカエデさん。
普段のクールな雰囲気に戻ったカエデは当然とばかりに会計伝票を手に取った。
しかし、それは男である俺の役目。譲ってもらおうホトトギス。
「ここは俺が払うよ」
「全部で千八百五十円だけど、お兄さんお金もってるの?」
「……千二百円ほど貸してください」
「はぁ……おば様から家庭教師のお小遣いもらってるから気にしなくていいよ」
「ならばせめて俺の全財産を……」
「いらない」
そういって俺の申し出を断ったカエデはそのまま会計を済ませる。
情けなくも俺はその光景を見守ることしかできなかった。
「あの……ご馳走様です……」
「気にしないで。誘ったのは私だし」
「そうは言われても男がこのままじゃカッコ悪いから今度奢らせてくれ」
「別にいい」
「それなら俺が何か一つカエデの言うこと聞くってのはどうだ?」
「うん。じゃあそれで」
ハルカならこの場で切腹して見せてくれとか言いそうだが、カエデに限ってそれはない。
おそらくは俺にもっと勉強してくれとか良識的な類の命令だろう。
なんせ精神年齢は実年齢の倍ぐらいありそうだからな。
「なんでもいいの?」
「全裸で町内をフルマラソンしろとかでなければ」
「アハハ、それは少し見てみたいかも」
「おいおい、勘弁してくれ……」
俺の下品なジョークですら笑ってくれるカエデは本当に良い子だと思う。
見た目も中身も完璧。欠点らしい欠点がないという誰もが憧れとする存在。
そんなカエデの意中の相手が誰なのかを聞く勇気なんて俺にはなかったが、そいつは間違いなく果報者だ。心の底から羨ましいと思う反面、憎しみで殺してやりたいとさえ思う。
中学時代、俺がもっと親しくしていれば……とも思ったが、それは後の祭り。
どう考えても俺の自業自得としか言いようがなかった。
「じゃあさ……」
「ん?」
「ここから家までおんぶしてよ」
俺にとっては予想外なその望み。開いた口が塞がらないとはまさにこの事だ。
驚きのあまりうまく言葉が出てこなかった。
「駄目かな?」
「いや、別にいいけど……それでいいのか?」
「うん」
俺が中腰になると背中に覆い被さるように抱き付いてきたカエデ。
極力異性として意識しないようにはしていたが、嫌でも意識せざるを得ない状況となった。
「……私が中学二年の時に運動会の練習で足を捻挫して以来だね」
「そうだっけ?」
「ひどい。覚えてないの? 雨降ってて私が傘持ち担当したじゃない」
「あー……思い出した」
カエデには悪いが、今はそれどころではなかった。
あの頃と比べて格段に成長したであろうカエデの女としての身体的特徴――。
健全な男子としては非常に喜ばしい限りだったが、それとは別に複雑な感情。
どうしても妹という意識が抑止力として働いてしまい背徳的な気分になる。
「あの頃よりもずいぶんと逞しくなったね。お兄さんの背中……」
「おいおい、成長したのはお互い様だろう?」
「……お兄さんのエッチ」
「しまった……つい……」
「馬鹿だね。いつも通り」
恥ずかしそうにそう言って俺の背中に顔を埋めるカエデさん。
もちろんそんなことをされれば、俺の中で妹という抑止力と異性として意識してる部分が死闘を開始する。
そんな中で改めて心の底から思った。
カエデの想い人は嫉妬の渦に呑まれて無残に死ねばいいのに……と。