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エリンスト皇国の首都の東。東門から真っ直ぐ海に繋がる街道の途中、馬車で3日程の場所にある街。アンザスという名のこの街には世界中から人々が集まり、首都とはまた違う賑わいを見せる。交通の要所というには半端なこの街に人々が集う理由は、ここが世界唯一の場所だからである。
アンザスは世界で唯一、この世界の創造神を奉る大神殿が存在する街なのだ。
この世界で神の存在は身近だ。生まれながらに神、あるいは精霊や妖精という存在に守護されていることを考えれば当然と言えるだろう。
神話と呼べるほどの遥かな昔、世界の雛形が形成されたばかりの頃。ただ一度だけ創造神は世界に降り立ち、己の世界の空気に触れた。そしてその最初にして唯一の足跡に、世界が永く続くように願いを込めた楔を打ち込んだ、と。
その地こそアンザスであり、未だ黎明さえ見えていなかった人類は、しかし人ならぬモノたちの導きによってそれを知り、この地に神殿を造って神の願いを守り、人々の祈りを重ねて世界の平らかなることを願うようになったのだという。
創造神は言うまでもなく世界の頂点に立つ唯一の神であり、崇めるべき存在だ。世界中の街に神殿は存在するが、それらはあくまでもレプリカでしかなく神の存在は希薄だ。だからこそ人々はアンザスに集い、神の痕跡を少しでも強く感じようとする。そしてこの世界に生きていることに感謝を捧げるのだ。
だがこの街を抱えるエリンスト皇国の民に限っては、大神殿を訪れることにはまた異なる事情があるのだけれど。
* * *
馬車で3日の距離も一瞬とは、さすが皇族。
それが大神殿に足を踏み入れたマリエの最初の感想である。
彼女が階段から転げ落ち、前世の記憶を思い出したのは既に二日前。その間に大人たちの間で話し合いが行われたのか、朝から慌しく外出用のドレスを着付けられ、あっという間に城の一室から転移魔法を使って神殿内にある皇族専用の一室に連れてこられた。
彼女の右手は父親の左手と繋がれており、それは初めて転移する娘への気遣いだとしよう。だが何故か、彼女の左手はそれよりだいぶ小さな手に握り締められている。
決して離すまいという気概すら感じられるその手を辿れば、栗色の髪に碧い瞳をしたマリエより少しだけ年上の男の子。
「大丈夫だよ、マリエ。父さんもおれもついてるからね」
自分を見たマリエに、突然知らない場所に連れてこられて不安になっていると思ったのか、握り締めた手にさらに力を込めてそう言ったのは、今年7歳になったばかりの彼女の兄である。
マリエが階段から落ちる原因を作った人物であり、そのために彼女が目覚めてから今日この時まで、空き時間ができるたびにどこからともなく現れては彼女から離れなくなった心配性な彼は、レオナルド・ラ・エリンスト。エリンスト皇国第一皇子である。
大変だった、とマリエはこの二日間を思い出す。
バルコニーから顔を出した後、最初こそ事態が飲み込めていなかった部屋にいた人間たちだが、その反応を見ていたたまれなくなったマリエがおずおずとカーテンで顔を隠すに至り、ようやく動き出した。
泣きべそをかいていた兄は大きく開いた目からぼろりと涙を落とし、一直線に突進して思い切り抱き締めることで妹を窒息死の危機に陥れかけた。僅か7歳とはいえ、既に武術を嗜んでいるためにその力はそこらの子どもと比べ物にならない。同じくらい力加減も学んでいるはずだが、非日常的な状況でそんなことができるほど練成はしていないためにそこを責めるのは酷というものだろう。
にいさまくるしい、とろくに力の入らない拳でレオナルドの背を叩くマリエに、彼についてきた侍従が事態を収めようとする前に、事態はさらに悪化した。
遠くからどどど……としか形容しようのない音が聞こえてきたかと思えば、かすかに開いていた部屋の扉がバーンと開き「マリエッ!?」という見る者が見れば既視感を覚える登場の仕方をした皇帝陛下。
ちょっと朦朧としながら助けてくれないかなと侍女と侍従を見ていたマリエは、当然のことながら音に反応して扉を見た。そしてもちろん、やや血走った目をした自分の父親と視線を合わせることになり。
結論として、娘が目覚めたことに気づいた父親が一瞬で歓喜の表情となり大きく手を広げて子どもたちに駆け寄ってくる様子をコマ送りのように目撃することになった。
これは死ぬ。
冗談抜きで思ったマリエだったが、もう一歩でその腕の中に子どもたちを抱き締めるはずだった父は、その場に凍りついた。
「あなた?」と優しい声なのに刺々しさを含んだそれはやはり昨日の再現だということを、その後ろに控える侍女長だけが知っていた。
因みに凍りついたというのは比喩ではなく事実である。証拠に、子どもたちには父親から冷気が漂ってくるのが感じられた。そのため抱き締められるがままだったマリエも、その冷気が恐ろしくて兄に抱きつく恰好になった。
自分の夫を子どもたちの前で凍らせた母親は、妊婦ゆえではないゆったりとした動きで子どもたちに近づき、娘が目覚めたことを喜んだ。
その後、侍従長を交えて階段から落ちた理由を聞かれたが、事の真相は簡単なものである。
部屋に兄が遊びに来ていて嬉しかったマリエは兄にねだって、侍女の目を盗んで部屋から抜け出してちょっとした冒険気分を味わっていたのである。自分は部屋から出るのに必ず誰か大人と一緒なのに、兄は皇族の住まう城の一角だけとはいえ、一人で出歩いていると知ったことによる「お兄ちゃんばっかりずるい!」を発揮した結果である。
レオナルドの方も自分が一緒だし、面白そうだと思ったこともあり承諾したのだ。子どもゆえの浅はかさではあるが、彼らにしてみれば大胆な行動。
そうしてまんまと部屋から抜け出した二人は、大人に見つからないよう注意しながら庭に出ようということで慎重に進んでいたのであるが、さすがに一階は人の数が多くどうしようかとレオナルドが考えあぐねている間に何を思ったのか、マリエが繋いでいた手を離して一人で走り出してしまったのだ。
城の内部などまったくといっていいほど把握していない三歳児。前を注意しているはずもなく、真っ直ぐ階段に向かって走っていって一番上の段から足を踏み外して転げ落ちたというわけだ。
当然二人とも母親から優しくも恐ろしいお叱りを受け、半泣き状態でこの一件に関しては決着を見た。
その後「邪魔よね?」と皇妃陛下が娘に向けた一言により、凍りついた皇帝は再び侍従たちの手によって娘の部屋から撤去された。
子どもたちが二度と母を怒らせるまいと誓ったのは言うまでもない。
しっかり握られた手が痛いなと思いつつ、それだけ責任を感じているのだろうと思う。悪いのは手を離した自分のほうだと、それだけ心配をかけてしまったのだと甘んじて受け容れつつ、頷いておいたほうがいいとだろうと彼女がそうすると、繋いでいないほうの手で頭を撫でてくれる。優しい兄だ。
その手が離れると、それより大きく暖かな手が彼女の小さな頭をぽんぽんと叩いてくる。
手の主を見上げれば、優しい微笑を浮かべた二人の父が口を開く。
「そう、何も心配要らないよ。ただちょっとだけ、大神官とお話するだけだからね」
すぐに終わるよ。
そう言った父親に促され、彼女たちは揃って部屋を後にした。
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