七話 邂逅編その二(胃薬は常備薬です)
俺の名前はクロ。今年からとある学校に高等部に入学する今時の格好良いイケメンさんだ。今日も晴れ渡る青空の中……、民家を悠々と越える高さと全長を誇るドラゴンと遭遇しています。アリアの髪色と同じ、鮮やかな色彩の鱗が最高に綺麗だね! きゃっふー!
「兄貴、現実逃避は安全な所でやるもんだ。踏み潰されんぞ、んな所にいっと」
「……ですよねぇ! シス、ちょっと悪い。走るから抱き上げるぞ!」
クリスの忠告を素直に聞き入れた俺は、即刻その場からシスとともに逃げる。存外シスは軽かったため、そこまで速度が落ちることもなく避難に成功した。
ちなみに、クリスはいち早く事態を察して逃げていました。仮にも兄と呼ぶ俺を置き去りにして……。
クリスさん、クリスさん。ちょっと、いや、かなり酷くないかな? その対応!
「だから声だけは掛けてやっただろ。現実逃避してる兄貴がいけねぇんだよ」
「あ、声に出てた?」
「いや? 何となく非難された気がしただけだ。何だ、やっぱ非難してたっつーことか」
いやはや、勘の鋭いことで。だが、クリスにジト目で見られるのは慣れているが、この状況下では遠慮したい。
そこで、仕方なしに誤魔化す方向で動いた俺は、巷で有名な方法を試みてみた。それがこれだ。
「テへペロ」
「……キモ、死ね」
一瞬、動きの止まった後に発せられたクリスのその言葉は、極寒の眼差しとともに俺の胸に突き刺さった。いや、抉られたと言うべきか。汚物を見るような、嫌悪感満載のクリスのそれには、俺も自分の過ちを認める他なかった。
いや、気付いてたよ? これやったら、精神的に死ねるなって。でも、そこまで引かなくても……。何気にシスもクリスにしがみついて後退ってるし。ちょっとふざけたかっただけなのに……。酷くない?
などと心で落ち込んでみたものの、悲しいかな、やってしまったことは元には戻せない。そして、俺は大切な何かを失った。
「はぁ……、悪ふざけはこんくらいにしてだ。兄貴、どうすんだ。今はあの二人が何かして周囲から隠蔽してるみたいだが、それも時間の問題だぞ?」
落ち込む俺に溜め息一つを吐いて、クリスはルビー達の方を見やる。そこでは今もなお、リリアーヌが祈る仕草をして結界のようなものを張り巡らせ、ルビーが羽を広げてアリアの注意を引き付けていた。だが、どうも二人は手加減してくれているらしく、分が悪いようだった。
そこまで確認した俺は、クリスの言うように悪ふざけは終わりにし、頷いて返す。
「はいよ。何とかしてみる。ちょっと待っててくれ」
気楽に返したのは、根拠もなくクリスを安心させるためではない。ただ単に、何とか出来ると知っていたからだ。
もちろん、最初から知っていたわけではない。ドラゴンの姿になったアリアに既視感を覚えたその瞬間、心の奥底に何かの鼓動を感じたのだ。そして、それを知った。まるで、最初からそれを知っていたかのように。
だからこそ、俺は戸惑うこともなくアリアに近付く。傍らで、ルビー達が何か言っている。だが、今は気にしない。
アリアに対して、恐れなど必要ない。ただ、手を差し伸べるだけでいい。それだけで、アリアは俺を認識してくれるのだから。
ほら、やっぱり。
目の前には、俺をジッと見つめるアリアの姿が。そして、徐に顔を近付けてくる。
それに俺はその鼻先を撫でる事で応える。そうすれば、アリアは俺を軽くくわえて空中に放り投げ、自分の頭に落とす。あとはもう簡単だ。そのまま、頭を撫でてやればいい。それだけでアリアは落ち着くのだ。
「……落ち着いたか、この単細胞バカ」
「うー、その言い方やめてって言ったじゃん。意地悪だー。でも、あとちょっとだけー」
気付きもしない。前世よく言った台詞だと言うのに。やはり、アリアは単純だ。単純で素直で、それがアリアの短所でもあり、長所でもある。思わず、笑みが零れるのを自覚する。
と、そこで不意に気付く。心の奥底に感じていた鼓動が収まっていることに。そして、それと同時に俺は我に返ったような、そんな心情になる。
今まで自分が何をしていたのか、それは覚えている。だが、何故自分はそうしたのか、そこに至るまでの心の変化、行動理念などの部分が分からなくなっていた。まるで、自分が自分でなかったような。しかし、確かに自分でもあって。頭がごちゃごちゃする。
俺は思わず頭と胸を手で抑えていた。だが、それがいけなかった。その事に気付いてしまったが故に、動揺した俺は今、アリアの頭から足を踏み外して落下してしまっているのだから。
突然のことに声すら出ない。次いで、落下特有の浮遊感と心臓の高鳴りを感じる。ただ、どうしてか落下に対する恐怖感だけはなかった。それが仰向けに投げ出され、地上を見ていないからなのかは分からないが、俺は自然と力を抜いていた。安心、今の感覚を表すなら一番近いのがそれだった。
そして、俺は地上に――
「――あれ? まだか? って、俺浮いてる!?」
「クロ! 大丈夫!?」
その声に、俺は納得した。ああ、なるほど。安心するわけだ、と。
声の方を見やれば、そこにはアリアの姿が。既に少女の姿に戻ったようだが、翼や尻尾などのドラゴンの特徴はまだ残っているようだ。もちろん、少女の姿に合わした縮小版でだが。
それはともかく、状況から鑑みてどうやらアリアが助けてくれたらしい。取り敢えず、礼だけは言っておくべきか。
「ありがとう、助かった」
「いいよー、お互い様だし。それに久し振りに頭撫でてもらって嬉しかったよ、クロ」
「あ、ああ、俺も正気に戻ってくれて良かったよ」
アリアの無邪気で無垢な、満面の笑み。不覚にも少しばかり惚けて、言葉を詰まらせる。
次いで、訪れる静寂。何か言うべきか、と言葉を探している間に、アリアのか細い声が届く。
「……記憶、戻ったの?」
「戻ってない。あれは何となく知ってただけだ。前世の記憶なんて知らん」
「そっか……。そっかー、残念だなぁ!」
俺がそう答えれば、アリアは寂しそうに、だが、どこかホッとした様子で零したあと、努めて明るく言い直していた。
そして、俺達はそのまま地上に降りていった。その時のアリアも笑顔は絶やさなかったが、やはりどこか影が見え隠れしているようだった。
だが、地上にて待ち受ける苦難に、それは吹き飛ばされる。そう、そこには般若が居たのだ。恐ろしいまでに静かな般若が。
思わず、アリアに逃げるように指示した俺は間違っていないはずだ。結果はともかくとしてだが。
◇
「――で、兄貴。何で正座させられてんのか分かるか?」
あれから、逃げる間もなくクリスに叩き落とされた俺とアリアは、私有地の林の中まで連行されていた。そこで揃って正座させられている。状況的に、ルビー達に囲まれながらクリスの説教を受けるのだろう。それ以外の解釈は難しい。
なら取り敢えず、正座させられている理由を答えなければ。ただ、理由と言われても思い当たるものは一つしかない。安全だと分かっていたとは言え、端から見れば危険窮まりない行為をしたのだ。どう考えても、その事でだろう。
「……いや、その。アリアに無防備に近寄って危険だったから。それで説教って流れに?」
「何で疑問系なんだよ。分かってねぇし」
「え、違うのか。なら、えっと、何だろ……?」
「分かんねぇのかよ。こっちがどれだけっ」
まさか、理由を間違っているとは思わなかった俺は、急いで他の可能性について考える。早くしなければ、クリスにぼろ雑巾にされてしまう。それだけは是が非でも避けなければ。
そんな、焦った状態で思考していた俺。だからだろうか、クリスの変化に気付かなかったのは。それどころか、俺に急接近していることにすら気付いていなかった。これは完全にこちらの落ち度だ。まさか、一日に二度もそうなるとは思わなかったのだ。
「……お兄ちゃん。お兄ちゃんは誰のお兄ちゃん?」
そう言って詰め寄ってくるクリス。顔は笑みを浮かべているが、目がマジだ。次に俺が答えを違えれば、本当に危険な目に遭うのは間違い無さそうだ。そう考えた途端に胃が痛くなった俺は、その場しのぎにクリスの頭を撫でてやる。
その間に、クリスの状態について考えを纏めてみる。要するに、今回はアリアにした行為がクリスの琴線に触れたのだ。いや、昨日からの諸々も加味するべきか。そう考えれば、クリスの沸点の低さも頷ける。素の状態にこうも頻繁になるのは、それが原因なんだろう。一種の暴発だ。クリスの負担が一気に増えて、ストレスが急激に溜まったのだ。とは言え、時間が経てばある程度は落ち着いてくれるはずだ。
それはさて置き、そろそろクリスの問い掛けに答える事にしよう。ミスをするわけもない答えだ。問題ない。
「も、もも、もちろん、クリスのお兄ちゃんに決まってだろ! いや、もうクリスのお兄ちゃんでお兄ちゃんだから!!」
うん、ごめんなさい。どもるし意味不明だし、何言ってるんだろ俺。自分でも訳わからないわ……。
言い訳をさせてもらうなら、クリスの素の状態は俺の天敵なのだ。何がとは言えないが、とにかく苦手なのだ。動揺するなと言う方が無理なほど。
ただ、クリスは気にならなかったのか、それとも自分の聞きたかった事が聞けたからなのか、先程よりは落ち着きを取り戻していた。これなら、もう少しすれば何時ものクリスに戻ってくれることだろう。
代償として、ルビー達の視線が物凄く痛いが、クリスの機嫌を損ねて惨事を招くよりはマシだ。この際、些細なことと割り切ってしまう。その方が、俺の精神的にも楽なので。
それにしても、なかなか都心部まで辿り着けないな。本当なら、もう駅には到着していてもいい頃なのに。どうしてこうなった……。
不意に浮かんだのは諦観と言う言葉。意味は、悟り諦めること。今の俺には天啓のような言葉だ。この言葉だけは深く噛み締めることにしよう。きっと、今後も度々必要になるのだから。
そうして、俺はキリキリと痛む胃を誤魔化すのだった。
胃薬、常備薬に買っとこう。
そんな考えが俺の脳裏を過ぎる。それと同時に、そう言えば、と俺は不意に思い出した。
「あの人も、いっつも持ち歩いてたなぁ……」
胃薬。そう思うと、何だか苦笑が自然に浮かんでしまう。
あの頃は傍らで一緒になって楽しむだけだったが、今は俺もあの人と同じ立場に。なるほどこれが当事者の苦労か、と妙に納得してしまった。胃薬が手放せなかったわけだ。
俺は苦笑の後に押し寄せてきた何とも言えないむず痒さに、思いっきり笑ってしまった。どうしようもなく、今の自分の状況があの人と重なって、笑いを堪えきれなかった。
みんなが突然笑い出した俺を心配する中、俺は――――。
「――兄貴、うっさい!!」
素の状態から戻ったクリスに張っ倒されるのだった。ごめんなさい。
ちなみに、アリアの暴走はあやふやな記憶を思い出そうとしてなったそうです。なので、その後は何の問題もなく駅に着きました。まる。




