六話 邂逅編その二(事件は少し目を離した隙に起こるものです)
ある部屋でのことだ。そこには奥の二つの角に観賞植物。左側の壁際には、分厚いファイルや書類が収まった書棚。その向かい、右側の壁際には様々なジャンルの本が収まった本棚が。
床はコーティングされた石造りに柔らかく高級そうな絨毯が敷かれている。入口、扉も特注品の物なのか、いい素材が使われているようだ。
そして、その部屋の奥。窓から照らされるようにして存在する木製の机と、背を向けられた状態の革張りの椅子。そこから声が発せられる。愉快だと言わんばかりに。
「やあ、クロ君。久し振りだね。僕って君には嫌われてるから、もう来ないかと思ってたよ」
「来たくて来た訳じゃねぇし、あんたは大抵の人間に嫌われてるから心配すんな。あんたに俺が会いに来たのは、あんたに会うのが一番手っ取り早かったってだけだ。クソ親父」
対面するのは何ヶ月ぶりか。はたまた、既に一年は経過しているかもしれない。俺自身、思い出す気もないのだから、どうでもいいことだ。
ただ、そうは思っても気は立ってしまう。言葉使いが少々荒くなる程度には。何より、この未だ顔も向けてこないような奴が言うように、俺は嫌いだ。この生物学上の父親が、大嫌いだ。
では、何故そんな人物に俺が会いに来たのか。それは遡ること数時間前。家で軽い朝食を食べ終わった頃のことだった。
◇
それは完全な不意打ちだった。ルビー達がクリスから渡された服に着替えるため、ダイニングから去った頃を見計らって言われた。
「……今、何て言った。クリス」
「聞こえてたろ。あの人に会うっつったんだよ」
空耳ならどれだけよかったか。だが、確かに俺の耳にはクリスの発言が入ってきていた。それも二度。
ここまでくると、聞こえなかったは通用しない。それでも俺は敢えてクリスに尋ねる。
「言ってる意味が分からないんだが」
「会いたくねぇのは分かっけどよ。こいつらの件どうにかするなら、あの人に会うのが一番手っ取り早いんだ。我慢しろよな、兄貴」
返ってきた言葉には押し黙りそうになった。だが、それも一拍だけだ。見つめてくるクリスに視線を合わせて、どうにか反論する。
「だからって。専門の機関があるんだから、ちゃんと申請して」
「あそこの体質は兄貴だって知ってんだろ。真面目に申請なんてしてられっかよ。それとも何か、兄貴はこいつらの事なんかどうでもいいとか思ってんのか」
「そんな訳ないだろ。そう言う事を言ってるんじゃなくてだな」
「兄貴が少し我慢してあの人と会えば、全部丸く収まるんだ。使えるコネは使う。大人になれよ、兄貴。嫌いでも表面上は笑顔。基本だろ、そんなこと」
視線が、彷徨い出してしまう。一つ違いとは言え、年下に反論させてもらえない。屈辱よりも情けなさが先行する。
だからだろうか、馬鹿げた、子供じみた台詞を吐いてしまったのは。
「なら俺は子供のままでいい」
言ったあとに、余計に情けなく感じてしまった。思わず、クリスから完全に視線を逸らしてしまう。
だが、それがいけなかった。逸らしては駄目だったのだ。そのせいで、クリスの異変に気付くことも出来なかったのだから。
俺がクリスのそれに気付いたのは、次なる叱咤が飛んでこなかったからだ。そして、その時にはもう手遅れだった。
視線を戻した先に在ったのは、俯き気味になったクリスの顔。震える手を止めるかのように胸元まで上げられ、組まれた両手。何よりも、零れ落ちる滴。
在りし日の記憶が蘇る。まさにその時だ。呼応するように、クリスの顔が上げられた。
潤んだ瞳。滴る涙。そして、震えながらも鈴の音色のような声。そこから発せられる言葉にはもう。
「…………お兄ちゃん、クリスのお願い聞いてくれないの?」
「っ! ク、クリス」
「お願い聞いてくれないと、うっ、うぅ」
「わ、分かった。あいつと会う! 会うから、もうそれはやめてくれ!」
俺は抗う術を持っていなかった。
そうして、俺が白旗を振って抵抗の意志をかなぐり捨てれば、クリスもまた俯く。次に顔を上げた時にはもう、ケロッとした何時もの表情を浮かべているのだ。涙を流した痕跡すら無いのだから、呆れてしまう。
これが演技や計算だったら、まだこちらもそれ相応の態度を取れるのだ。だが、驚くなかれ。先程の姿こそがクリスの本質。本当の姿なのだ。何時もの姿の方こそが、分厚い仮面を被っている状態。つまり。
「よし、言質は取った。決まりだな」
こういう事だ。
「クリス、お前……」
「何だよ、兄貴。そんな難しい顔して」
「……何でもない」
何より、俺は自他共に認めるくらいクリスに弱い。仮面を被っている時ならいざ知らず、素の状態に戻られたらもう駄目だ。諦めるしかない。
結局、数分後にルビー達が戻ってくるまで俺は反論をする事もなく、ただただ項垂れるしかなかったのだった。どうせ顔を上げたところで、クリスの勝ち誇った顔があるだけなのだから。
そして、その数分が経過し、ルビー達が戻ってくる。
戻ってくるなり、俺の沈んだ様を見たルビー達は心配していたが、それ以外は特に問題もなく出発へ。いや、クリスが強引に出発する流れにしたのだが。
そんなこんなで、当初は沈んでいた俺も流されるままに玄関先まで来れば、もう開き直るような心境になりつつあった。
そうすると、意外に余裕も出てくるもので、ルビー達の変化にも気付くことが出来た。特に著しい変化だったのがルビーだ。服装はクリスなどの物でカジュアルな感じに纏まっている。だが、それはどうでもいい。些細なことだ。それより、ルビーの著しい変化とは――
「ルビーって、そんな姿だったっけ? 羽とか尻尾はどこに消えた?」
そう、身体的な変化だった。全く無いのだ。昨日見たばかりで鮮明に覚えているそれが。
これに対して、ルビーの解答がこれだ。
「こう、キュッと引っ込める感じで、キュン、キュキュッ、テイッと消したんだ」
……うん、何言ってんの? いや、仕草の問題じゃなくって。説明の仕方だから。更に意味不明なポーズしなくていいからっ。余計伝わんないわ!
ルビーのそれは完全に感覚的なもので、まったくもって理解不能だった。俺には何を言っているのかさっぱり分からなかった。
だが、俺がそう思う一方で、傍らでは納得を示す方々が。言わずもがな、クリス達だ。何だろう、この疎外感は。伝わる方がおかしいと思うのだが。
ただ、まぁ、一人だけ反論したところで結果は変わらないこの場合、適当に相槌でも打っておくことにした。
「へ、へぇ、そうなんだ。納得したわ」
空気は読む方ですから。
それはそうと、この際だ。リリアーヌなどの服装もざっくり説明しておこう。
まずはリリアーヌ。中身とは正反対の、清楚系の服装だ。母親の物を少々拝借させてもらった。特徴的なのはストールを羽織り、くるぶしまで隠れるロングスカートだろうか。外見だけで言えば、かなり上品そうに見える。外見だけ、だが。
続いて、アリア。こちらはクリスの入らなくなった物があったため、それを着ている。一時期クリスがハマり、今でもたまに買ってくるダメージ系の服装だ。意外によく似合っていると思うのは、アリアの中身を垣間見てしまったせいだろうか。
そして特徴だが、正直俺にはかなりダメージ加工がされたロングTシャツとGパンとしか例えようがない。俺がシンプルな服装を好む傾向にあるため、そう言ったファッションには疎いのだ。
さて、次はシスか。シスの服装は何というか、ゴスロリファッションと言う部類だった。こちらもクリスの物だ。一時期、クリスが無謀にも挑戦した品物だ。棄てられずに、クローゼットの奥に仕舞ってあった物らしい。
特徴と言えば、ヒラヒラでフワフワです。それ以外に例えようがない。ファッション詳しくないので。ただ、何ともよく似合ってらっしゃる。これで髪も結えば、完全にお人形さんだ。今でもそう見えるのだから、余計に高級感が出そうだった。
さて、長くなったが最後だ。最後はクリス。ダメージ系、ゴスロリ系などと辿ってきたが、現在の服装はと言えば――
「今度はボーイッシュ系、か」
多分。確証はない。何故なら俺はファッションに疎いから。疎い。いや、実にいい言葉だ。これで大概は誤魔化せる。
「何だよ、ジロジロ見てんじゃねぇよ」
「いや、何でもない」
と、そんな風に観察していたせいか、クリスに睨まれてしまった。取り敢えず、服装の説明はこのくらいにしておこう。あまり続けると後が怖いので。
ちなみに、俺は白いロングTシャツと繋がった黒い無地のTシャツを着て、下は安物のGパンです。シンプルイズザベストって奴です。
さて、大分話は逸れたが、そろそろ出発だ。玄関先から少し歩けば、私有地の道路に。辺りを見渡せば、そこに広がるのは雑木林。後ろを見やっても家と下宿先として使われていた建物。それと雑木林。いくら見渡してみたところで、近くには一軒も住宅はない。
強いて言うならば、私有地の道路方面にある雑木林の向こう側にはちらほらと住宅が並び立っているが、生憎と隣近所とは呼べないような距離だった。
ただ、一応これには訳がある。ここが元とは言え、ある特定の転生者の下宿先だったからというのが一つ。親の知人の所有する土地を借りたらここだったと言うのが一つ。他にも理由はあるが、大部分はこの二つだろう。
それらによって、この敷地は多少なりとも隔絶された場所だった。昨日、轟音とともに天井に穴が開いても、通報されなかったのが何よりの証拠だ。そんな事では動じてもくれないのだ、周辺の住人は。
何せ、以前にも大爆発や超巨大生物を出現させるなどの、今回よりも酷い事態を引き起こしているのだ。少し轟音が響いたくらいでは、最早見向きもしてくれない。またか、くらいの事は言っているかもしれないが。
さて、少し話が長くなってしまったが、そんなこんなで林を抜けて住宅街へと俺達は至った。
「ほう、これがこの世界の人間の住処か。かなり精巧な造りをしているのだな」
まだ疎らな住宅街の端だというのに、ルビー達は深い関心を示している。ここに建てられているのは古い木造住宅が主で、新しい建物は存在しない。この木造で驚いているとなると、マンションや現代式の住宅を見た場合、どれほど驚くのだろうか。はたまた、これから行くこの国の中心、都心部の高層ビルなど見ようものならどんな反応をするのか、今から少し楽しみだ。
「そう言えば、ルビー達はどんな世界から来たんだ? いや、そもそもどうやって来たんだ?」
不意に思い付いたことだったが、考えてみればかなり重要なことではないだろうか。どんな世界かはともかく、どうやって来たのかは。
そもそも、この世界には転生者は数多くいるが、転移者となるとその数は極端に少ない。判明、公表されているだけでだが八人。ルビー達を合わしたところで、十二人。それだけなのだ。そして、その全てが偶然の産物によってこの世界に来ただけだとも言っておこう。
例を挙げるなら、異世界の存在を信じたある者はその研究の際に引き起こった不手際によって。またある者は、不安定な偶発的に生じた次元の裂け目によって。
今回は二つだけだが、他の例もこのような偶発的な事象なものばかりだ。この事から、転生者に比べて転移者の数は少ないのだ。ただ、転移者とは違い、転生者の場合は何故転生するのか自体分かっていないのだから、比べるのはおかしいかもしれないが。
また、転移者はその偶然性にも関わらず、軒並み高い資質や実力を有していた。この事から、一説には次元を生身の体で渡れる者だけがこの世界に来ることが出来るのだと言われている。
「どうやって来たか、ですか。……難しい質問ですね」
「そこまで難しくもないと思うんだけど。まさか、分からないとか?」
「そう言うわけではないですが……。いえ、分からないと言うのもある意味そうなのかも知れませんね」
問い掛けに答えたのはリリアーヌ。だが、その答えは曖昧ではっきりしないものだった。口ごもる態度が気にかかる。
「あー、ごめん。意味が分からないんだけど」
「そうですね。少し確認させて下さい。アリア、あなたはどうやってこの世界に来ました?」
「私? 私は……あれ? ちょっと待ってね。思い出すから」
「いえ、その答えだけで大丈夫です。シスも思い出せないですか?」
リリアーヌの問い掛けに、アリアもシスも小首を傾げたり、緩く首を横に降ったりと答えることが出来なかった。この辺りで俺も察した。
そして、このあとのルビーとリリアーヌの言に、それは確信へと変わったのだった。
「私もその辺りの記憶が曖昧だな。確か、女が居たはずなんだが」
「私の方も同じようなものです。確かに女性が居ました。しかし、それがどんな姿だったか、どんな顔だったか、どうやっても思い出せません。分かるのは、その人物が女性であったこと。そして、その女性によってこの世界、つまりはクロの下に来られたこと。それだけです」
神妙な面持ちのリリアーヌを見やり、俺はクリスに視線を移した。次いで、クリスもそれに頷いて返す。どうやら、同じことを思ったらしい。
これはある種の一大事なのだ。先程も言ったが、転移者のそれは偶発的に起きたものでしかなかった。少なくとも、今まではそうだった。
しかし、今回、ルビー達の話を信用するならば、それは故意であり、人為的に行われた可能性が高い。いや、既に確定だと言ってもいいのかもしれない。これは異例の事だ。少ないとは言え、今までの転移者の前例が前例だけに、決して無視出来るものではなかった。
また、その女性と言うのも同一人物なのだろう。それも、ルビー達の記憶を改竄し、尚且つこの世界の俺と言う座標に送り込めるだけの力を有した人物。そんな存在が居るのだ。
何より、その人物には何らかの目的があるはずだ。その目的が何なのかは分からないが、何かをしようとしていると考えるべきだろう。でなければ、ルビー達を転移させた意味が分からない。単なる気まぐれ、と考えるにはあまりに危険だった。
そこまで考えて、不意に思考が遮られてしまった。
その原因に目を落とせば、案の定、シスがTシャツの裾を軽く引っ張っていた。
「どうした?」
そのまま、視線を合わせて問い掛けると、シスはある方向に指を向けた。そこはルビー達が居るはずの方向で、俺は嫌な予感がしながらも徐にそちらを向いてみた。そして、それは物の見事に的中する事になる。
「何をやってんだ、あいつらは……」
思わず、頭を抱えてしまいそうになった。確かに少しの間、目を離したのは認める。だが、だからと言ってそのほんの僅かの間に、どうしてそうなった。そして、どうして俺は気付かなかった。アリアがまさしくドラゴンの姿に戻ってしまっている、と。ルビーとリリアーヌがそれを必死に抑え込んでいる、と。
「いや、本当、何やっちゃってんの!?」
俺の心からの叫びは、虚しくも晴れ渡る雲一つない青空に消えていくのだった。