四十四話 入学編その三(女性には直ぐに謝るのが得策です)
どうしてこうなった。
一番最初に俺の脳裏に過ぎったのがこの言葉だった。
朝、ノックの音で目覚め、眠気を感じながらも返答。これにノックの主はドアを開け、部屋に踏み込んできた。
ノックの主はクリスだったのだが、部屋に入った瞬間にドアノブが潰れる音がした。俺は訳も分からず、クリスを見詰める。次いで、クリスもまた俺に視線を合わせてきた。
首を傾げる俺と、凄みを増していくクリスの顔。戦慄くクリスに危機感を募らせたが、どうにもそれを回避するのは難しそうだ。この時点で俺の眠気も吹っ飛び、意識もはっきりして完全に覚醒した。
状況確認をした方が良さそうだ。一、リリーとの同衾。二、俺の手が何故かリリーの胸に。三、リリーの衣服が何故か無駄にはだけている。四、俺の衣服も以下同文。五、それをクリスに目撃されてしまった。
なるほど、俺の危機感は正しい。これはあれだ、初日のルビーと同じ展開だ。衣服こそ辛うじて着ているが、だから何だと言うのか。結果は目に見えている。
だからこそ、俺は言おう。
「……クリス、何もしてない。リリーに押し切られただけだ」
言い切った。あとはクリスの沙汰を待つだけだ。神妙な面持ちで、ベッドから降りて正座する。
ドアノブが音を立てて完全に壊れ、クリスの手から零れ落ちる。最早、原型を留めてはいなかった。
「兄貴、私も信じてぇよ。ルビーの時も結局誤解だったしな。納得出来る説明さえあれば、私は何もしねぇ」
だから説明しろ、とクリスは告げる。まだ戦慄いているが、以前のように問答無用ではないようだ。
冷や汗ものだが、弁明の余地がある。今回は必ずクリスを納得させられるだろう。何せ、疾しい事は無いのだから。
「これは」
「クロに寝込みを襲われました」
ただし、邪魔をしてくる者さえいなければの話だが。
「っ! リリー!?」
「あんな事やこんな事をされてしまいました。あの感覚は忘れられません。たどたどしくも優しい触り方。口付けの感触は今も私の心を奪います」
恍惚とした表情で狂った妄言を吐くリリーに、何も言葉が出て来ない。俺がしたことと言えば、撫でただけだ。口付けもしたが、あれはリリーが寝た後のこと。
「……ん? 待てよ? まさか、リリー。起きてたのか!?」
「当然です。クロにあんな事をされて、私が素直に寝ると思いますか。有り得ないです」
「そこは素直に寝ててほしかった!」
まさか、あれを知られているとは。恥ずかし過ぎて死にそうだ。顔に熱が籠もるのが分かる。恐らく、俺は赤面しているだろう。それも耳や首筋辺りまで真っ赤に染まって。
だが、それよりも何よりも、今一番大事なこと。それはクリスがこの会話をどう解釈してしまったか。これに尽きる。
恐る恐るそちらに視線を移せば、そこには俯き拳を握り締めるクリスの姿が。幻か、それとも怒りの成せる技か。背後には般若の面が俺を見据えていた。
「ク、クリス? 今のは違うんだ。リリーの妄言で、疾しい事なんか一つもしちゃいない。全部説明するから、な?」
「クロ、既に手遅れです。素直に既成事実を認めましょう」
「空気読め! あの時の憂いはどこ行った!」
リリーのふざけた物言いに怒るが、視線はクリスから外さない。クリスの一挙一動に集中しなければ、俺の特定箇所は間違いなく握り潰される。
そう思っていた。しかし、クリスの取った行動は全く予想だにしないものだった。
「お兄ちゃんの……、お兄ちゃんの馬鹿ー!!」
そう叫んで、踵を返して走り去っていくクリス。まずい、と反射的に俺の身体は動いていた。素の状態になってしまったクリスを放っておくわけにはいかない。
「半分冗談程度のつもりだったんですけど……」
背後で、リリーのそんな独り言が聞こえた。
時と場合を考えろ、と切に思う。でなければ、こういう事態を招いてしまうのだから。
リリーにはあとで懇々と説教をする。反省するまで必ず。そう決めて、俺はクリスを追い掛けるために階段を跳ぶ。着地の衝撃を殺し、クリスの行方を捜す。
居場所は直ぐに分かった。小さな泣き声が聞こえる。リビングかダイニング、どちらかだろう。アリアの慰める声も聞こえるので、大事には至らなかったようだ。
ホッと安堵の息を漏らし、リビングの方へと向かう。中に入って直ぐに見付かった。リビングとダイニングの間近くだ。
「クリス?」
「っ! お兄ちゃんなんて知らない! リリーと仲良くやってればいいでしょ!」
声を掛けた瞬間に、クリスは叫ぶ。これはかなり怒っている。素の状態に戻っていることからも分かるが、ここまで怒るのも珍しい。
「クロ、何したの? クリスってば、クロの文句しか言わないから分からないよ」
「……同意……」
それは何とも言いづらいが、言わなければ誤解も解けない。仕方なく、俺は事のあらましを伝えていった。
「――それで、現在に至ります」
「クロが悪い」
「……悪……」
結果、二人がクリスの怒りに共感して、俺は劣勢に。
こうなることは予見していたが、いざそうなると困ってしまう。だが、未だに涙目のクリスを見ると、そうも言っていられない。アリアとシスがまた何か言い出す前に、俺は早々に謝ることにした。
「クリス、その、悪かった。昨日から謝りっぱなしで許してくれるか分からないけど、ああいうのはもうしない……多分」
「お兄ちゃん、最後のなければ締まるのに。……次は無いからね」
許された、と思っていいだろう。ただ、これ以上クリスの怒りに触れそうなことはしないようにしよう。少なくとも、ルビーを救出するまではもう問題は起こさない。俺はそう誓った。
どうにかクリスを泣き止ませることに成功した俺は、気を緩めて疑問を口にする。
「けど、珍しいな。クリスが素の状態になるくらい怒るなんて」
「当たり前だろ。普段なら殴るなり蹴るなりするけど、兄貴の怪我考えたら出来ねぇよ。けど、そうすると、怒りは収まんねぇし……」
結果、怒りが頂点に達してしまい、爆発した。そう言うことらしい。何というか、誰かに似ている。
「ああ、アリアと似てるのか」
「それ、どういう意味だ。兄貴」
「もしかして、前に言ってたみたいに、私が沸点の低い単細胞馬鹿ってこと? そう言いたいの? クロ」
どうやら、俺はやってしまったようだ。口を滑らせてしまった。せっかく、誤解も解いて怒りも静めたというのに。これでは悪化している。
と言うか、だ。二人とも、実は自分でもそう思っているのではないだろうか。でなければ、察しが良過ぎる。特にアリア、まだ覚えていたのか。
「いや、そう言うわけじゃ。ただ、似てるなぁと思っただけで、他意はないんだ」
「似てる? 具体的にはどこが似てんだよ」
「外見じゃないよね? 私とクリス似てないもん」
「し、仕草とか?」
「似たような仕草してたっけか、アリア」
「ううん、全然」
何か言う度に自分の首を絞めていっているような気分だ。じわじわと追い詰められていく。下手な言い訳より、正直に言ってしまった方が良かったのだろうか。
だが、今更それは出来ない。火に油を注ぐだけになってしまうだろう。果たして、その時に俺の怪我は考慮されるのか。多分、されない。と言うより、違う部分を狙われるだけだ。
言葉に詰まる。俺が何も言えなくなると、二人は鼻を鳴らしてシスの手を掴み、ダイニングに向かってしまう。
どうしてこうなった。
その言葉とともに溜め息が自然と零れ出る。
「クロ、余計な事を言ってしまいましたね」
「お前は今までどこに居たんだよ、リリー」
俺の肩を叩き、慰めの言葉とともに現れたのはリリーだった。全部終わった頃に現れるとは、いい度胸をしている。
その理由を問えば、返ってきたのは反省の色もない答え。
「出るタイミングが分からず、廊下で待機してました。では、私は朝食を食べに行きますので」
「こらこら。待てよ、リリー。本を正せば、原因はお前だろ。何をしれっと無関係装ってんだ」
「いえ、原因は私ではなくクロの行為です。私は抽象的にそれを伝えただけですから。責任は全てクロに差し上げます」
「いらんよ、そんな重たいの。とにかく、一緒に機嫌直すぞ」
何事もなく平然と食卓に加わろうとするリリーの肩を俺は掴む。逃がすわけがない。俺だけの責任にされて見過ごせるだろうか。否、そんな事は許さない。
俺とリリーとで無言の応酬が続く。先に折れたのは、リリーだ。渋々、俺の方に向き直った。
「仕方ないですね。クロ、ここは協力します。貸しですよ」
「もうそれでいいから、頼む」
何故か貸し扱いにされたが、これ以上は俺の方が疲れる。リリーに頷いて、二人でダイニングに向かった。
そこにはアリアに配慮してか、片手で摘める朝食が並べてあった。そして、それを囲う三人。俺達が来た事には気付いているだろうに、誰もこちらを向かない。
いや、シスは向いてくれたのだが、クリスによって逸らされてしまった。話し掛けるのも苦労する。
しかし、そうは言っても何かしなければ始まらず、二人にひたすら謝り倒し、機嫌取りをした。結果、俺は二人のお願いを何でも一つ聞くはめになった。
リリーは何も無しで何故俺だけとも思ったが、二人の怒った理由にリリーは関係ないからだとか。何より、部屋での一件は済んだ話らしい。一応、リリーも謝罪したことで完全に。
確かに二人を怒らせた一言を言ったのは俺だ。機嫌を直すと言うのだから、納得するべきなのだろう。
ただ、何か俺だけ被害を被っている気がするのだ。小さい男と言われてもそう思ってしまうのだから仕方ない。いや、口には出さないが。
何だか、最近は謝りっぱなしのような気がしてならない。どこでどう間違ったのか。
やり直せるのならやり直したい、と俺は切に願うのだった。
無駄に遠回りをしてしまいましたが、次回から話は加速していきます。第一部終了まで直進です。
十二月十四日付け。




