思いがけない話
十一月の中旬に差し掛かると、気温も下がっていき、冷たい風が僕の体を吹きつけるようになった。
今年の冬はやけに寒い。今年はもう僕の誕生日に茉莉花が咲いていないだろう。
もう奇跡を望む必要性もない。だから、それでいいと想いつつ、寂しい気持ちはある。
階段を上がった時、僕の家の前に見たことのある黒髪の女性が立っていた。離婚後間もない父親と一緒にいた人だ。
彼女は僕を見ると、頭を下げた。
「藤木久司さんですよね?」
思ったより低い声だと思いながらも、彼女の言葉に頷いた。
「はじめまして。わたしは岡村咲枝といいます」
岡村とは父親の苗字だった。彼と彼女は正式に婚姻をしているのだろう。
「あなたのお父さんと」
彼女はそこで口ごもっていた。
あれから十年以上の年月がたっているとはいえ、父は僕に直接一度も再婚したとは告げていなかった。彼女もそれを知っていたからこそ、そこで言葉を切ったのだろう。
「父と再婚したんですよね。何か用ですか?」
なぜ次から次にこんな厄介なことが起こるのだろう。茉莉がいたらまた心配をかけさせてしまうと思い、心の中でそんな自分を笑う。彼女はもうここにはいないと分かっていたためだ。
「あなたにお願いがあってきました。話を聞いてください」
母親がいつ帰ってくるかも分からないため、ここで話を聞くわけにもいかないし、彼女を家にあげるのにも抵抗があった。
「外に行きませんか?」
僕の言葉に彼女は驚きながらも頷いていた。
僕はそこから歩いて十分ほど離れたカフェに入る。その間、僕たちは並んで歩いたり、一度もお互いに口を聞くこともなかった。
窓辺の席に案内され、コーヒーを二つ注文する。そして、彼女はコーヒーが手元に届く前に話を切り出してきた。
「あなたのお父さんは一年半ほど前から病気を患っていて、あまり体調が良くないようです。あなたへのメールはわたしがあなたのお父さんに頼まれて打っていました」
僕は水の入ったコップに触れようとした手を止めた。
彼女の言葉に驚きながらも、心のどこかで納得できる面があった。アナログ人間と思しき父親からの連絡が、昨年あたりからメールに変わったのだ。それが理由だったのだるう。
「それで話は何ですか?」
彼女はその言葉に目を見張り、唇を軽く噛んだ。
「あなたはわたしのことを快く思っていないのは分かっています。でも、一度家に来てくださいませんか? あなたのおじいさんとおばあさんが話があると言っていました」
今さら何を語り合うと言うのだろう。だが、祖母に責められ続けた母親を見てきたからこそ、彼女の申し出を断ることはできなかった。僕が断れば、祖母はきつい言葉を彼女に浴びせると想像できたためだ。僕の知る祖母はそんな人間だった。
「分かりました」
僕は今週末に実家に行くことになった。
木曜日に母親が帰ってきたが、僕は彼女には祖父母の家に行くことは伏せておいた。
約束の日、外に出るといつの間にか空がどんよりと曇っていた。僕は一度家の中に戻ると、傘を手にする。口の周りには白い息がまとわりつき、僕の手が冷える。いつも僕の手をつつみこんでくれていたぬくもりがもうないことに気づき、僕はコートのポケットに手を突っ込むと家を出た。
そしてバスを乗り継ぎ、記憶の中の家へとたどり着く。十年以上近付くことさえなかった家への道のりを覚えていることに、苦笑いを浮かべた。そして、子供のときに大きいと感じた、それでいて唯一僕と母を見送ってくれた門を視界に収めた。その門は僕の想像よりは小さく、古ぼけていたのを意外に感じた。
チャイムを鳴らすと、インターフォンから咲江さんの声が聞こえる。彼女はすぐに門のところに出てくると、僕を家の中に迎え入れる。そして、その足で玄関から少し歩いたところにある客間に案内された。彼女は少し待つようにと言い残し、部屋を出ていく。少しして祖父母が入ってきた。門と同じようにあれだけ大きく、鬼のようだと思っていた祖母が僕よりも随分と小さいことに気付く。祖父は年齢を感じながらも、大きな違いは感じなかった。
二人は僕の正面に座る。そして、祖母が祖父に目配せする。彼はその視線に促されたように口を開く。
「ここで暮らさないか?」
テレビドラマなどではそれが感動的な音楽とともに流されるシーンなのかもしれない。だが、僕は決して彼らが僕を認めてくれたとは思わないし、過去を水に流そうとはしない。
だが、僕にはこれからどうしたいかという目標があった。大学に行き、勉強をして、就職をする。それらをこれからの人生で成し遂げていくには、この家に住んだほうがいいだろう。生活にも、学費にも困ることはないし、母親に煩わされることもない。
僕は彼との約束を守るために最良の方法を選択しようとした。そこに僕のこの家に住む人間に対する感情は関係ない。ここに住むことは、僕のこれからの人生にとって手段の一つに過ぎないのだ。
「分かりました。ここで暮らします」
そのとき、僕を最も責めていた祖母が胸を撫で下ろすのに気付いた。それが唯一の救いだったのかもしれない。
その後、僕は咲江さんに送ってもらい父親の入院している病院まで行く。病室のドアを開けると父親が慌てて体を起こすのが見えた。続いて、何かを重ねるような物音が聞こえる。
彼のベッドのわきにある収納棚には本が数冊乱雑に置いてある。その下に僕の字で書かれた封筒が置いてあった。僕が彼に送った郵便物は成績表だけだ。そんなもの家に家に持って帰ってもらえばいいのに。そう思ったが、口には出さなかった。
「来年の春からあなたの家に住むことになりました」
「そうか」
彼の目にはうっすらと涙が浮かび、それ以上は何も語ろうとしなかった。
その涙がどんな気持ちで浮かんできたのか僕には分からない。
咲江さんの問いかけに受け答えだけをして、父の病室を後にした。
病院から出た僕の頬に雲から零れ落ちた雨粒が触れる。僕は短く息を吐くと、持っていた傘を開く。
だが、斜めに流れてきた雨が僕の手に触れ、体の熱を奪い去ろうとする。
茉莉がいたら僕の手を握ってきたのだろうか。そう思うと、家を出たときと同じように、コートのポケットに手を突っ込んだ。
冷たい風がそんな僕の体を吹き付け、より一層冷やそうとする。
病院を出てバス停に向かおうとした。僕が洋風の家の前を通り過ぎようとしたとき、見覚えのある花が映り、思わず足を止めた。
茉莉花だ。
こんな寒い中でもまだ咲き続けていたのだろうか。
茉莉花を好きだった彼女もどこかでこれを見ているのだろうか。
笑ってくれていたらいい。そう思うと、心の中が不思議と温かくなる。
僕の足はついこの前、彼女の婚約を知った日に一緒に行った空き地に向かっていた。そこにはあの家と同じようにまだ茉莉花が優しくたたずんでいるのに気付き、目を細めた。
茉莉がいたら僕の決定をどういうだろう。
怒るだろうか。それとも受け入れてくれるだろうか。
そう思い、首を横に振る。
多分、彼女はこういうだろう。
「久司君が決めたことならそれが一番なんだよ」と。
傘を握る僕の手に雨がはねる。冷たたさを感じつつも、ただその茉莉花を眺めていた。
母には父親から話を通してくれていたようだ。だから、僕はこの家を出ていくことを何も言わなかった。そして、彼女も何も聞かなかった。
すぐに年が明けた頃に引越しすることが決まり、受験前に何を考えているのかと思ったが、母親が見ているテレビ番組の音が聞こえなくなることが受験前にはありがたかった。




