最後の夜
太陽が闇にのみこまれ、部屋の中を照らし出していた胸の奥を突くような光もあっという間に消失していた。差し込んでくるのはわずかな月明かりと、近隣の家や街頭からこぼれる光だけだった。
彼女は心がどこかに持っていかれたようにそんな光をぼんやりと見つめていた。
もう別れの時だ。
僕は息を吐くと、彼女に手を差し伸べる。
自分から終止符を打ちたかったわけではない。しかし、どちらかが切り出さないといけないことだった。
今から彼女に声をかけることが別れを示唆することが分かっていても、これ以上誰も傷つかないためにもこうするしかないような気がしたのだ。
「そろそろ帰ったほうがいい。送っていくよ」
彼女の手をつかむと、いつもあたたかい彼女の手が冷え切っているのに気づき、その手に力を込める事ができなかった。だが、首を横に振り、覚悟を決める。
「まだ、今日は終わってないから、それまで一緒にいたい」
静寂の中に溶けいりそうな、安らぎを与えそうで、それでいてどこか郷愁を残した静かな声が響く。
そんな彼女の言葉に浸されていてはいけないのだと己れに言い聞かせる。
「優人さんが心配するよ」
「大丈夫。だって久司君と一緒だから」
それは信頼されているということなのだろうか。彼女に対しては何も言えないということなのだろうか。どちらかなのかは分からない。
「でも」
「わたしがいいならいいの」
躊躇う僕に彼女は彼女らしい言葉を告げる。
僕は思わず笑ってした。
彼女はバツが悪そうに、目線を落とした。
「もう少しだけこうさせて」
僕はその言葉に目を細め、壁にもたれかかった。
茉莉も短く息を吐くと、天を仰ぐ。彼女は体を震わせ、肩を抱いた。
今日はいつもよりも気温が低いのか、部屋の空気が冷やされていた。
「暖房を入れようか」
「大丈夫だよ」
だが、彼女は耐えきれなかったのか、僕に肩を寄せてきた。
そのとき触れた君の体がやけに細く、軽く感じた。
悩んであまりごはんを食べることもできなかったのか、二週間前よりももっと小さくなってしまったような気がする。
その一因が僕にあるのが歯がゆかった。だが、全てを知っていた他の人たちはずっとその辛い歯がゆさを味わい続けてきたのだろう。
すぐに彼女の息遣いが穏やかなものに変わる。
僕は彼女の寝顔を見て、目を細めた。
この先の彼女の人生が幸せで満ちていればそれでいい。
僕にはそれを祈ることしかできないけれど。
僕は優人さんに茉莉が眠ってしまったとメールを送っておく。そうしておけば優人さんは彼女を迎えに来ると思っていた。だが、迎えに来ると思っていた優人さんは迎えに来るどころか、メールの返事も送ってこなかった。
徹夜をしたら明け方が来るのがやけに遅いのに、その夜だけは早送りをするかのようにあっという間に時間が流れていた。そして、ビルの隙間から、光の欠片が現れ始める。
このまま時が止まればいい。
そんな願いをかなえてくれるなら確実に願っただろう。
だが、そのことで傷つく人や困る人がいることも、痛いほど分かっていた。
その光が部屋に届くと、茉莉がうめき声をあげ、その長いまつ毛を震わせた。
目をこすった彼女は、驚きの声をもらし立ち上がる。
「朝になっている」
「大丈夫? 一応、優人さんにはメール送っておいたけど」
「大丈夫だよ。でも、もっといっぱい話をしようと思ったのに失敗した」
「今から、少しなら聞くよ」
茉莉はしばらく考えていたが、唇を尖らせると、髪の毛をかきあげる。
「すぐに言われても寝ぼけているから分からないよ。……でも一つだけ。今まで一緒にいてくれてありがとう。あなたと過ごせて幸せだった」
彼女は笑顔を浮かべる。
そう言った笑顔は始めて会ったときの君の笑顔に似ていると思った。
「僕こそありがとう」
彼女の細い腕が伸びてきて、僕の体を抱きしめる。まるで心までも包み込んでくれる不思議なぬくもりだ。どんなに強い日差しが照りつけたり、暖房設備が整った場所にいたとしても、これほどあたたかい気持ちを味わうことは二度とないだろう。
その手が離れ、彼女はもう一度微笑んだ。
彼女は紙袋に手を伸ばすと、それを持ちあげた。
「さよなら」
彼女は振り向かずに部屋を出て行った。今、彼女がどんな顔をしているのかも分からない。
彼女を追いかけたくなる気持ちを押しとどめ、彼なら彼女を幸せにしてくれると何度も言い聞かせた。
暗い部屋の中で僕は自分の目から熱いものがこみあげてくるのを、堪えることができなかった。
僕は落ち着くのを待ち、シャワーを浴びる。そして、支度を整えると、学校に行くために家を出た。学校なんか行きたくなかった。だが、弱気になる心を押さえつける。
良い天気のはずなのに、空はうっすらと白いもやがかかっているように見えた。
名前を呼ばれて振り返ると、奈良が立っていた。
「先輩のこと聞いたよ」
「茉莉から?」
彼はうなずく。
「今だから白状するけど、先輩がお前に告白する前、相談されたんだよね。お前に彼女がいるのかとかいろいろ聞かれたんだ」
「そうか」
彼女はそのときどんな気もちだったのだろう。そして、今はどんな気持ちでいるのだろう。
「この前、先輩に会った時に、先輩の誕生日が過ぎたら、あまり自分のことは触れないであげてくれって言っていたよ。昨日だよな」
「めちゃくちゃ触れてないか?」
「まあ、お前だからいいだろう」
矛盾していると思ったが、追求するのはやめた。
何も知らずに、茉莉とのことを聞かれるよりは気が楽だったのかもしれない。
そのとき、冷たい風が辺りを吹きぬけていき、もうこんなに寒い時期になっていたのだと気がづいた。




