最初で最後の嘘
茉莉が入れ物に詰めていると、優人さんが車を出すと言ってくれた。僕たちは茉莉の作ってくれたごはんを入れた紙袋を手に、僕の家の前で下してもらう。
「じゃあね、お兄ちゃん」
「ま、楽しんでこいよ」
「ありがとう」
「迎えが必要だったら電話しろ。遅くなっても構わないから」
優人さんの言葉に茉莉は笑顔でうなずく。
今までのように笑う茉莉を見ていると、明日から会えなくなるという実感がなかった。きっと雪のように彼女の存在はすっと消えてしまうのだろう。そう思うと、その存在をここに留めたいと、車を見送る彼女の手を思わずつかんでいた。
「どうしたの?」
驚いたように僕を見る。
「何でもないよ」
僕たちは僕の住むアパートの階段を上がる。母親は幸い家にはまだいないらしい。
一昨日家にいたようなので、運が良ければ帰ってこないだろう。
鍵を開け、彼女を家の中に迎えると、茉莉は興味深そうに辺りを見渡しながら中に入っていく。
「ここが久司君の家かあ」
「狭いよな」
「そうかもね。でも、久司君の家だから、わたしにとっては特別な場所なの」
そうあどけない笑みを浮かべる彼女を抱きしめたくなったが、その気持ちをぐっと抑え込む。必要以上に彼女に触れたら、彼女がふっと消えてしまいそうな気がしたからだ。
雪のように白い肌に、茶色の髪、細い体。はじめてあったときと何も変わらない。
「ごはんを食べようか」
彼女は紙袋からタッパーを取り出すとテーブルの上に並べる。
僕はその間に食器と箸を二人分持ってきて、テーブルの上に置く。
僕たちはその彼女の作ってくれた料理をお互いの分を注いだりしながら、口の中に運んでいく。
こうしてみると本当に彼女は料理がうまくなったと思う。
「おいしい?」
「おいしいよ」
「よかった」
茉莉はそう言うとホッとしたような笑みを浮かべる。君のそんな姿をもうじき見ることもできなくなる。
もっと多くの時間を彼女と過ごしたかった。
だが、そんな気持ちに反するように、彼女の作ってくれた料理はあっという間に底をつく。
「意外に量が少なかったかな」
彼女は容器に蓋をして、紙袋の中に片づけていく。
テーブルの上にはもう僕がいれた緑茶しか残っていない。
そろそろ彼女も家に帰るのだろうか。そう思った時、茉莉はテーブルの上で手を組むと、短く息を吐いた。
「高校二年になった頃かな。クラスメイトがね、一年にすごくかっこいい子がいるって言っていたの。それでわたしも興味があって見に行ったの。たしかにすごくかっこよかったんだ。でも、わたしはその人の顔の造詣よりも、その目がすごく悲しそうで、それからずっと気になっていた」
彼女は緑茶を口に運ぶと、目を細めた。
「その少し後、久司君も知っていると思うけど、お金の問題が出てきてね、秋人さんから言われたの。自分と結婚することにしたら融資を多分受けることができるようになるって。お兄ちゃんやお父さんは反対した。でも、秋人さんのことはずっと家族みたいに思っていて、結婚してもいいかなと思った。どこかであなたのことがずっと引っかかっていたの。結婚することが決まって、秋人さんにあなたのことを相談して、付き合いたいと話をしたの」
それは彼から聞かされた話と同じものだった。
茉莉は僕を横目で見る。
「怒らない?」
「怒らないよ」
「うぬぼれていたわけじゃないの。でも、あなたと一緒にいることで、あなたが少しでも心から笑えるようになってくれたらいいって思っていたの。何ができるかわからなかったけど、ただ笑ってほしかったの。だからできる限りのことはしようと心に誓ったの」
彼女の予感は当たっていたんだろう。
彼女は言葉を続ける。
「秋人さんにそのときは反対されると思っていた。反対されて当たり前だし、そしたらあなたのことは諦めようって。でも、彼はいいって言ってくれた。だからあなたに告白したの」
そのとき彼はどう思ったのだろう。
きっと彼は彼女が幸せになれるならそれならそれでいいと思い、婚約解消を考えたのかもしれない。
「婚約の解消を言われたのは、その後?」
茉莉はうなずく。
「融資を受けて、あなたと付き合うことになったと報告した時、婚約自体を解消しようと言われたの。秋人さんはわたしにとってもう一人のお兄ちゃんも同然だった。泣いたわたしを慰めてくれたし、勉強も教えてくれた。わがままを言っても笑って聞いてくれた。子供のときは憧れていたんだと思う。あの人は顔に出さないけど、家でいろいろ大変だったと思うの」
「そうなのか?」
「わたしの家族のために、彼は一度父親が決めた縁談を断っているの。その上、わたしとの結婚がだめになったらって思うとね」
「でも、彼の父親は彼に頭があがらないと優人さんから聞いたよ」
「それでも、ある程度高圧的な態度を取る親もいる。彼の親はそういう人なの」
顔も知らない彼の親が僕の親と重なり合っていた。
「だから結婚を決めたの。この前も電話がかかってきて、破談にしてもかまわないからって言っていた。まだ間に合う、と。きっとわたしのせいで多くの人を傷付けたんだと思う」
「きっと彼と一緒にいると幸せになれると思うよ」
僕は素直な本心を悲しの表情を浮かべる茉莉に伝えた。
僕と彼ではきっと彼と一緒にいるほうが彼女は幸せになれる。
それに親が絡んでくるのは彼だけではない。僕と一緒にいたら、母親がまず何かと口を出してくる。父親や祖父母も場合によっては口を出してくるだろう。愛情ではなく、自己顕示欲のために。僕と一緒にいたらそれ以上の重荷を背負わせてしまうかもしれないという気がした。
「久司君にはきっと素敵な、優しい人が現れると思うの。だから、その人と幸せになってね」
「分かった」
僕は彼女を見て、うなずく。僕が彼女についた最初で最後の嘘だった。
茉莉はほっとしたような表情を浮かべると、目を細めていた。
僕は君以上に誰かを好きになることはないような気がした。人をさげすまなくなっても人を人として見ることができるようになっただけで、それが恋愛感情に直結はしない。だが、その気持ちを言葉にしたら、彼女を再び苦しめてしまうだろう。それはそれでよかったと思っている。
だが、ふと秋人さんの苦しげな表情が浮かぶ。
「一つだけ聞いていい?」
「何?」
「茉莉は父親の会社のためだけにあの人と結婚するの?」
「それが一番かもしれないけど、相手が例えば秋人さんの弟とかなら嫌だったし、そんな話も出てこなかったと思う。彼だから、いいって思ったの」
僕はその言葉を聞いて胸を撫で下ろす。彼の気持ちは彼が思っているほど届かないものではないのだろう。
「彼は茉莉が父親の会社のためだけに結婚すると思っているみたいだよ」
「そうなの?」
茉莉は目を見開いて僕を見た。
黙っているという選択肢があったのは分かっている。それが理由で彼女達の関係がうまくいかなくなる可能性があったことも。だが、これ以上誰かが傷つくのは嫌だった。それが彼女を愛している彼であるなら尚更で、彼女のこれから先の未来が笑顔で満ちていることだけを切に願っていたからだ。
「そうだよ。だから、次に彼に会ったとき、秋人さんだから結婚したってきちんと伝えたほうがいいよ」
茉莉の細い手が僕の頬に触れた。
「分かった。そうする。教えてくれてありがとう。久司君はやっぱり優しい人だよね」
そういって彼女は少しはにかんで笑っていた。
「茉莉には幸せになってほしいから、当たり前のことを言っただけだよ」
彼女の目に二度と涙が浮かんでほしくない。
彼女のどんな仕草も、表情も全てが愛らしく、全てが僕の心をひきつけるものだった。




