君が見たかったもの
十月二十三日。僕と彼女のきめた最後の日に、彼女の誕生日を祝うために家に行くことになった。彼女にはプレゼントをしないことにした。何かをあげたらそれが重荷になってしまう気がしたのだ。
チャイムを鳴らすと、茶色のワンピースを着た笑顔の茉莉が出迎えてくれた。だが、笑っている彼女の目の周りが赤く腫れていた。
「プレゼントだけど」
家に入った僕は話を切り出した。
「何もいらないよ。今日、久司君が来てくれたことが最高のプレゼントだから」
彼女は僕の気持ちに気づいていたのかもしれない。
茉莉は僕の手を引いて、リビングに連れて行く。そこに並んでいたものをみて、ただ驚いていた。そこには食事が並んでいた。
「わたし一人で作ったんだ」
そんなに難易度の高い料理が並んでいたわけではないが、彼女の玉子焼きを知っている僕には驚きだった。最後に食べたのは昨年の冬で、その頃よりも上手になっていた。
「好きなだけ食べてね」
「昼の量を減らせばよかった」
彼女の家には学校が終わってから行き、夕方か夜にはその家を離れるものだと思っていたのだ。
「あらかじめ言っておけばよかったね」
「もう少し後からでもで大丈夫?」
「大丈夫。今日はおにいちゃんもお父さんも帰りが遅いから」
今日も平日だったため当然学校がある。本当は学校を休みたかったが、それは優人さんに注意された。
僕と茉莉は別々の人生を歩んでいかないといけないからだろう。
一旦家に帰ったので、時間はもう太陽が傾きかけている。
「何がしたい?」
「散歩」
彼女はあどけない笑みを浮かべてそう答えた。
「行こうか」
僕達はそのまま家の外に出た。
彼女の足が向かったのは昨年の誕生日に一緒に過ごしたあの並木道だった。僕は彼女に続いて公園の中に入る。彼女の足が止まり、何かを目で追っていた。それが木から舞い降りた枯葉だと少ししてから気づく。
「青々とした緑も好きだけど、一番すきなのはこの時期なんだ。すごく綺麗なの」
茉莉はそう言うと笑顔を浮かべていた。
「そうだな」
美しいものを美しいと感じるのは簡単だろう。だが、僕はそんなことを考えたこともなかった。舞い落ちる枯葉に鬱陶しさを覚えることもあったと思う。
彼女に会うまでは。
君と知り合ったとき、僕と君が見ていた景色は別のものだったのかもしれない。だが、今は同じ景色を見ることができているだろう。僕は心からそう思う。
「一年半前ね、久司君に絶対振られると思っていたんだ。だから、婚約のことがなかったら、一生話しさえできなかったと思う。最初のときなんか、本当にドキドキしていたの」
「そうなんだ。最初はすごく生意気だと思ったよ」
茉莉は苦笑いを浮かべていた。
「そうでもしないと話しかけられなかったから。振られたらそれできっぱり諦めようと思っていたのに、案外簡単にいいって言われてびっくりしたよ」
「何でかな。今まで誰ともつきあう気なんかしなかったのに」
その答えは彼女だからと分かっていた。根拠があったわけではない。ある種の勘のようなものだろうか。他の人だったら、似たような条件を提示されていても多分断っていただろう。
茉莉は再び歩き始める。
そのとき強い風が起こり、彼女と僕の間を赤く染まった葉が横切っていく。
「茉莉」
僕は彼女が消えてしまいそうな気がして、思わず名前を呼んだ。
彼女は髪を揺らして振り返ると、澄んだ瞳で僕の姿を捉える。
不意に懐かしい言葉が頭を横切る。
彼女のなつかしい言葉が蘇る。見たいものがある、と。
それが何か彼女の婚約者から聞いた。
あのとき彼女が言っていた見たかったものが果たして見ることができたのかということを、彼女の口からきちんと聞きたかったのだ。
「どうしたの?」
僕は息を吐くと、そも思いを言葉に載せた。
「君が見たかったものは見れた?」
茉莉は目を細め、満面の笑みを浮かべていた。
「たくさん見れた。もう満足なくらい」
僕の中で不確かなものが確信へと変わる。気のせいではなく、やっと心から笑えるようになったのだと痛感する。
「そういえば、一つだけ心残りがあるんだけど」
「何?」
「久司君の家に行きたいかな。今まで一度も入ったことないから」
「茉莉の家みたいに広くないし。汚いし、母親が帰ってきたらまた」
彼女に嫌味を言われるかもしれない。
だが、茉莉と過ごす最後の日だからこそ、その願いを叶えたいと思ったのだ。
「あの料理はどうする?」
「運ぼうか? 食器や残り物はお兄ちゃんに後から取りにこさせるから」
それを彼女の兄が聞いたら文句を言いそうだが、彼ならきっとそうしてくれるだろう。彼もまた、僕達とは違う形で彼女の幸せを願っているはずだ。
僕たちが家に帰る頃にはもう太陽が沈みかけて、優人さんも帰宅していた。
彼は玄関先までやってくると、頭を抱える。
「あの料理どうするんだよ」
「食べたの?」
「食べてないよ。どうせあいつのために作ったんだろう。どうにかしてくれ。夕飯が置けない」
「今から久司君の家に持っていくから、だから綺麗さっぱりなくなるよ」
「こいつの家」
優人さんは僕をじっと見る。彼が何を言いたいかは分かる。
だが、僕にはそんなつもりはなく「大丈夫」だと告げた。
茉莉は不思議そうに僕と優人さんのやり取りを見つめている。
本気で意味が分かっていないのだろう。
あんな過保護な兄がいたら、結婚したら大変そうだ。それもまた楽しそうではあるけど。
それが叶わない望みであることを自覚し、そっと唇を噛みしめた。




