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茉莉花の少女  作者: 沢村茜
第五章
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婚約者

 優人さんはそこから少し車を走らせ、茶色の外壁のマンションの駐車場で車を止めた。

 マンションのエントランスは明るい光を放っている。彼が入口に設置されている機械で連絡を取ると、オートロックが解除される。僕は優人さんと一緒に中に入る。そのマンションの五階にある部屋まで僕を連れていく。

 優人さんがチャイムを鳴らすと、背丈の高い長身の男が顔を覗かせる。僕はその整った顔立ちを見て、心臓をわしづかみにされたような気がした。彼はそんな僕の気持ちに気付いた様子もなく、目を細め、僕と優人さんを家の中に招き入れた。


「飲みものを用意するよ。何がいい?」


 その穏やかな話し方は彼女の父親を彷彿とさせた。


「俺は外にいるよ。二人で話をしたほうがいいだろう。こいつはコーヒーでいいと思うよ。終わったら電話してくれ」


 そう優人さんは言い残し、部屋を出ていく。


 彼は僕にリビングの椅子に座るように促した。


 茉莉の結婚はお金を盾にした政略結婚のようなものだ。そんなことをしてまで彼女に寄ってくる男が、彼女と釣り合うわけないと考えていたのだ。だが、彼は僕の想像とは全く違っていて、外見だけで見ても彼女と釣り合っている。

 正直、こなければよかったと思っていた。彼を見なければ、お金で彼女や家族を籠絡したと男だと卑屈な想像ができたのだ。


 彼のセットしたコーヒーが終了の合図を知らせる。

 彼は香ばしい香りのコーヒーを僕の前に差し出した。

 彼はまるで久しぶりに会った友人をもてなすかのような、優しい笑顔を浮かべている。


「僕のことを知っているんですよね?」


 せめてもの反発のつもりで、彼にそう問いかけた。


「茉莉の恋人だろう?」 


 彼は表情一つ変えずにそう告げた。

 僕なら絶対に言えない。そんなことを認めたくなかったからだ。


「茉莉と結婚するんですか?」

「その予定だよ。一応婚約者だから」

「お金のためなんですよね?」


 胸の痛みをごまかし、彼を睨み、挑発的な言葉を向けた。お金を借りた。だが、きっと茉莉の父親の会社が受けるメリットはそれだけではないのだろう。新たな取引先の確保の意味合いや、会社の信用力にも関係してくるのかもしれない。

 お金だけの問題なら茉莉の住む家を売ればどうにかなるのかもしれないのだから。


「お金のためか」


 彼はそう言うと、自嘲的に笑っていた。


「間違っていませんよね」

「そうだね。そうでなければ彼女は結婚をするとは言わなかっただろうから」


 彼はそこで息を吐く。


「彼女が小学校に入る前から知っていて、妹のように思っている。こんなことはしたくなかったよ。でも、お金を貸すことを父が快く思わなくてね、僕が彼女と結婚をしたいと言ったらとんとん拍子に話が進んだ」

「そんなの卑怯だ」

「卑怯だと思うよ。ただ、現時点でそれしか方法がないのも事実だ」


 彼は感情を荒げることなく淡々と事実を告げた。まるでそう言う事を使命づけられているかのように。彼のそうした態度が僕の苛立ちを加速させる。


「君は誰に幸せになってほしい? 君自身か、彼女か」

「茉莉です」


 諭すように彼は問いかけた。即答した僕の脳裏に過ぎったのは優人さんに言われた言葉だった。


 彼は茉莉のために僕と彼女がつきあうことを許したと言っていた。だが、僕はそれを受け入れることができなかった。彼が茉莉と釣り合うことを認めながらも、付き合うのを受け入れるかは別問題だ。その差は彼女の幸せを望む思いの強さなのだろうか。それとも独占欲と愛情の違いなのだろうか。


「君が文句があるのは分かる。でも、これだけは約束する。彼女を傷つけないし、大事にする。今からでも、僕にはそれができる。今から大学に通って就職をしなければいけない君にはできないことだろう」

「それは僕がまだ高校生だから」


 そんなことは差し迫った負債の前では意味のないことくらい分かっている。それでも自分の立場を正当化したかったのだ。


「それと、君には力がないからだよ。君が働いていても、彼女を取り巻く環境が変わるわけでもないことも明らかだ。優人だって精一杯やったと思うよ」


 彼の言うことは正論だった。彼女の兄が彼女のために何もしないとは思えない。

 高校生の僕がどんなに親を嫌悪しても、学業である程度の成績を収めても、僕が彼女を守ることだけはできない。将来、僕がお金を手にすることができるとわかっていたとしても、今、手にできないと無意味に等しい。

 時間というのはあまりに無情だと感じていた。


「それに彼女のためにどちらがいいのかというのは明らかだと思うよ」


 心の中で彼女のためだという気持ちと、正論ばかり言う彼の言葉を否定したいという気持ちが葛藤する。


「ここまで言うのは大人げなかったね。彼女は君を慕っている。それでも僕と結婚しようとする理由は分かるか?」

「彼女の父親のためですか?」


 彼はうなずいていた。


「そうだと思うよ。お金を手に入れたから結婚をやめますなんてことをしたら、彼女の父親の会社の評判が悪くなるのは確実だ。それにバックに父の会社があるのとないのでは信用力にも差が出てくる。それを分かっているから、現状では条件を呑むしかないんだよ」


 悔しいと思っても、何もできなかった。

 せめて彼と同じ年に生まれていたら、彼よりも早く生まれていたら、そんなことを考えても仕方ないのに、ありもしないことに願いを馳せている。

 みんなそうなのだろう。いつ、こういう問題が起こると分かっていたら、それを回避しようとする。

 でも、誰も行く末を知ることができない。だからこそ、思いがけぬ結果を招いてしまうこともあるのだろう。


「彼女が君と一緒にいたいと願うなら、それを叶えるのが一番だと分かっている。ただ、今はこうするのが彼女や家族にとって一番いいと思う」


 そう苦しげに呻いた彼の顔を見た時、僕は心臓を鷲掴みにされた気がした。彼を最初に見たときよりも鋭く心臓をえぐられる。

 彼の目は最初に見せた自信に満ちたものでも、優しさに溢れたものでもない。悲しみを抱合し、切なそうに見えた。彼も彼女の幸せを願っているが、現状ではこの方法しかない、とその表情が暗に伝えていたのだ。


 茉莉が自分を育ててくれた兄と父に感謝をしているのは分かる。

 彼は優人さんの友人で、茉莉を幼いころから知っている。僕とのことも知り、それを許可した。そして、何より彼からは彼女に対する深い愛情が感じられたのだ。結婚をすべき相手が彼なら、彼女にとっては多分幸せなことなのではないかと思えたのだ。


 それ以上、何を求めるというのだろうか。

 逆に僕はこれまでも彼女に泣き言をいい、何度も困らせたし、心配をかけさせた。

 どちらが相応しいのかは僕自身にも明白だ。

 最後の踏ん切りをつけるために、彼に問いかけた。


「絶対に避けられないことなんですよね?」

「無理だと思うよ。父の会社が倒産でもしたら別だけどね」


 彼は自嘲的に笑っていた。

 彼も茉莉も傷ついているのだと察する。僕にはその先に何があるのか分からなかった。

 僕は頭を下げた。


「絶対に彼女のことを守ってください。僕はこれから精一杯、生きていきます。彼女に何かあったときその支えになりたいから」


 それはむだな努力かもしれない。でも、なにもせず、自暴自棄に生きていくよりはいい。

 今の僕にとって彼女との未来を視野に入れることが、これからの生きる意味であり、身勝手な僕が精一杯下した彼女への気持ちの結論だ。

 全てを手に入れるであろう彼は僕を見て笑ったり、嫌悪感を示すかもしれないと思っていた。届かない努力をしても無駄なのに、と。


 だが、彼は笑わなかった。

 彼は真剣な目で僕を見据え、頷いていた。

 僕はその反応の意味が分からず、彼を凝視する。


「笑うと思っていた?」


 僕はうなずく。


「今更努力をしても無駄なのにって」

「人の人生なんて十年後、何があるのか分からないのに笑うのは慢心だよ。十年後、君と僕の立場が逆転したり、事故や病気で命が尽きているかもしれない。僕も彼女と結婚するからには最善を尽くす。でも、僕が彼女を守り続けると断言するのは、独善でしかないと思う」


 そんなことを言う人に僕が敵うわけもない。

 きっと僕が彼の立場なら自分が一生彼女を守ると言っただろう。だが、彼は感情に流されず、彼女のことを考えたうえで自分の意志を伝えていた。

 彼が望んでいたのは彼女自身の幸せで、僕が望んでいたのは僕自身の幸せだった。


 彼は言葉を続けた。


「いつか彼女に君が必要になるかもしれない。そのときは支えられるように強くなればいい」


 僕はその言葉に唇を噛んだ。

 彼は悲し気な笑みを浮かべ、自分の出したコーヒーに口をつける。


「君の話は彼女から二年前に初めて聞いた。好きな人がいるとね。いつも寂しそうで、話しかけることもできないけれどって」


 その言葉に彼を見た。


 彼は表情を変えることもなく淡々と語りつづけた。


「彼女から昨年の四月に言われた。彼の笑顔が見たい。そのために、彼とどうしてもつきあいたいと。それが彼女の婚約を受理する条件だった」


 僕が思い出したのは付き合うとき、彼女が言い出した言葉だ。つきあうとき、彼女は僕と一緒でないと見れないものがあると言っていた。

 それが僕の笑顔なのだろうか。

 僕は目頭が熱くなるのを感じ、唇を噛む。


「彼女は僕と結婚をしても、君を愛し続けると思うよ」


 その言葉を聞いて、彼が僕の想像以上に傷ついているのだと分かった。

 それは自分だけを見てくれない彼女を責めているわけではない。こんな結果しか生み出せなかった自分を責めているのだと。


 僕は溢れそうになる涙を堪えた。

 今更ごねて、彼女を困らせたくはない。僕も彼女の笑顔を少しでも多く見たいと思っていたのだ。例え、その時間が数えるほどしか残っていないとしても。彼女が泣くのは似合わない。


「彼女をよろしくお願いします」


 僕はそう言うと、頭を下げ、出してもらったコーヒーを飲み、彼の家を後にした。

 先程の駐車場に行くと、そこには優人さんの姿があった。


「話は終わったのか?」


 僕は頷いた。

 彼はエンジンをかけると、僕に乗るようにと促した。


「本当は今年の夏には挙式を挙げる予定だったんだよ」

「いつ伸びたんですか?」

「昨年の十二月かな。茉莉がそう望んで、そうなったんだ」


 僕が思い出したのは、僕の誕生日に泣いていた彼女の姿だ。彼女があのとき願った奇跡は僕と一緒に誕生日を過ごすことだったのだろうか。


「本当、悪かったな。あいつは言い出したら聞かないから」

「いえ」

「でも強く言えなかったんだよな。あいつが理解したなら俺達にはとめる権利はないから」


 二度目のあいつは婚約者の彼のことだろう。

 僕はこうして話をしたのにも関わらず、彼のことを何も知らないのに気付いた。


「あの人ってどんな人なんですか?」

「内田秋人。父親の会社で働いているよ。でも、その会社は一度潰れかけてね。倒産すると思っていた。その会社は持ち直したんだよ。それにはあいつが絡んでいる。だからあいつの父親はいまいち頭が下がらないのだと思う。そんな彼に結婚するから金を貸してくれとまで言われたら融資するしかなかったんだろうな。かなりの額で、あいつが個人で扱える金額ではなかった」


 僕はその言葉に頷いた。

 そして、秋人と言う名前を僕は一度だけ聞いたことがある。

 茉莉花を飲んだ時に聞かされた名前だった。


「茉莉は幸せになれると思いますか?」

「何があっても茉莉だけは守ると思うよ。あいつはそういうやつだよ」


 茉莉を大切に思っている兄がそう言うのだ。きっとそれは間違っていないのだろう。


 彼は僕の家の近くで車を止める。

 僕は車をおりるとき、彼に言い忘れた言葉があるのに気付く。


「茉莉に誕生日に行くと伝えておいてくれませんか?」


 優人さんは驚いたようだが、笑顔で分かったと告げていた。


 それが彼女の奇跡に相当するほどの出来事なら、最後の望みを叶えたかったのだ。


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