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第六章

一夜明け、日の光に照らされた『カフェ・更科』の店内。一人の青年が背中を丸めて、無残にも砕け散った食器類の片付けにいそしんでいた。

 店内はひどい有様だった。ほぼすべてのグラスやカップ、皿などの陶器類、窓ガラスに蛍光灯は粉々。テーブルや椅子は横倒しになり、脚の折れたものもちらほらある。

 幸いだったのは厨房がほぼ無事だったこととガス管が無傷だったということ。もしガス漏れを起こしたりしていたら、最悪この店は今頃真っ黒な炭の塊と化していたことだろう。

 この店どころでなく、この一帯が、と言ってもいいかもしれない。

 「……はあ」

 突然ふってわいた理不尽な災難、ため息をつかずにはやっていられない。

 「どうした、元気ねえな!」

 突然背後からかかった威勢のいい声に、顔を上げる。

 「ガンさん」

 近所の魚屋の主人、岩田さんだ。ガンさんと呼ばないと怒るのでみんなそう呼ぶ。

 ガンさんは、ビニール袋を提げた手で晃の肩を叩いた。

 「ほら、差し入れにサバ持ってきたから、食って元気出せ!」

 「あ、ありがとうございます」

 おずおずと袋を受け取ると、ガンさんは半そでを肩までまくって見せた。

 「よし、じゃあいっちょ、俺も片付け手伝ってやるよ!」

 その申し出に、晃は目を丸くする。

 「でも、悪いですよ。お店とかあるでしょ?」

 「店番ならうちの息子がやってら。気にすんな、どうせ今ヒマなんだからよ」

 「……すいません」

 ちょっと照れて、晃はガンさんを見た。小さいころから知っているが、このきっぷのよさはずっと変わらない。

 「じゃ、そこに軍手あるんで、お願いします」

 「おう、まかせろ」

 厨房の冷蔵庫にもらったサバをしまいに行く晃。細い目じりがたれていた。

 

 「おじゃまします。……あれ?」

 授業後、更科に現れた鈴が見たものは、あくせくと忙しそうに働く男女、計五名。エプロンをつけたおばさんやおじさんがテーブルを動かしたり、蛍光灯を取り替えたりしている。

 「おい、ちょっと傾けねえとつっかえるぞ」

 「このテーブル、位置はここでいいのかい?」

 みんなどこか、楽しそうに見える。ぼうっとそれを眺めていた鈴に気がついて、晃が手を振ってきた。

 「いらっしゃい」

 「こ、こんにちは」

 おどおどしながら店内に足を踏み入れる。散らかっていた床はもうすでに掃除され、昨日よりもぴかぴかになっていた。

 「昨日は大丈夫だった?」

 「あ、はい。もう大丈夫……です」

 ときおりあのおぞましい光景がフラッシュバックして、死ぬほど気分が悪くなったことは伏せておく。

 「あの、この方達は?」

 おじさんたちのほうを見て、晃に尋ねる。

 「ああ、商店街の人たち。みんな、片付けるの手伝ってくれてるんだ」

 それを聞いて、鈴はすこし胸が痛んだ。

 「……すみません」

 「え?」

 うつむく鈴。それを見ていたおじさんの一人が、晃に尋ねてきた。真ん中にでっかく『魚』と書かれた前掛けを装着した、ごつごつした印象の中年だ。

 「おう、その娘だれだ?」

 「バカ、野暮なこと聞くんじゃないよ」

 その隣にいたおばさんが、魚のおじさんの肩を叩いて言う。とたん、彼は破顔した。

 「ああ、そうかそうか!おい、女子高生に手ぇだすなんて若いな、だんな!」

 晃に言ってよこす。みんながどっと笑った。

 「ち、違いますって!昨日いたお客さんです!」

 あわてて手を振る晃。その様子を見て、鈴もくすりと笑う。

 「あたしも、手伝います」

 鈴は鞄をカウンターの上に置いた。

 「え、悪いよ」

 いい人ぶりを見せ付ける店長。鈴はいいですから、と手をはたはた振る。

 「それに、お話したいことがあるんです」

 「話?どうしたの?」

 「いえ、後でいいですよ。はやく片付けちゃいましょう」

 とはいってもすでに掃除は終わり、あとは内装を元に戻すだけになっている。割れた、窓ガラスや破損した機器はすぐには修理に手が着けられず、やることはあまりなさそうだ。

 「そういえば、先輩はまだ来てないんですか?」

 「来てるよー」

 厨房のほうから間延びした声がして、鈴はそちらを振り向いた。トレイにグラスを載せた実弥がよたよたと出てきた。

 「麦茶、おまたせーっ」

 カウンター、鈴の前にトレイを置いて氷の浮かんだ麦茶を一人ひとりに配っていく。

 鈴の目の前にも、グラスがひとつ、突き出された。

 「ほれ」

 「あ……、ありがとうございます」 

 お礼は言いながら、その視線はグラスの底の方に向かっていた。なにも沈んでいない。そのことを確認して、ほっと息をつく。

 「まあ、昨日のはごめん。これで水に流してね」

 あっけらかんとした言い草に、ちょっとむっとする鈴。大好物を汚された罪は海のように深く、鉛のように重いが、故意ではないのだから情状酌量の余地はあるのかもしれない。

 一応謝ってきたことだし。

 そんなことを考えていると、頭の上にぽん、と手が置かれた。

 「なにするんですか」

 手を置いた先輩に抗議する鈴。聞いていないかのように、実弥は頭をぽんぽんと叩いた。

 「ふむ……」

 「もう、どけてくださいっ。なんなんですか?」

 両手で払いのけて実弥を睨みつける。その動作ははたから見るとどこか猫っぽい。長身の実弥を背の低い鈴が見上げるように睨むので、そのせいもあるかもしれない。

 「いや、一応人間なんだなー、と思って」

 「当たり前です」

 くいくいとグラスをあおる。ひんやりた麦茶は口当たりがいい。

 「お、もうこんな時間か!」

 野球帽を被ったおじさんが、時計を見て声を上げた。

 午後五時。買い物時だ。

 「悪い、もう行くわ」

 片手を上げて言うおじさんに、晃は頭を下げる。

 「ありがとうございました、中原さん」

 「うん、またなんかあったら言ってよ」

 にこにこしながらおじさんは出て行く。それを見送った一同のうち、一人のおばさんが魚のおじさんのすそを引っ張った。

 「ちょっと、あんた。うちもそろそろ行かないと」

 「ん?あー、そうだなあ……」

 ぽりぽりと頭をかいて時計を見上げるおじさん。晃は彼に笑って見せた。

 「岩田さん、もう僕らだけで大丈夫ですから。みなさんも、今日はどうも、ありがとうございました」

 「そうか?」

 「はい。再開したら、絶対来てくださいよ。うんとサービスしますからね」

 「おう、じゃあ、いくか」

 おじさん、おばさんがたが連れ立って去っていく。店主と女子高生二人が残った。

 「よし、じゃああとすこし、さっさとやっちゃおうか」

 「おー、じゃ、がんばれー」

 「先輩も手伝うんです」

 どっかりと座り込んだ実弥の肩をがっしりとつかむ。

 「なんだよー。どうせ時給でないんだぞ。来てやってるだけでも感謝して欲しいよ」

 「いいから、立ってください」

 

 後の片付けはほんの三十分ほどで完了した。椅子を整えたり、機械類をチェックしたり。割れた窓ガラスを直すのは、手配の関係で翌日になった。

 あとは食器類だが、これは店長が買い揃えに行くそうだ。どうせなら新調してみようと晃の表情も軽くなっていた。

 「ふあー、疲れたー」

 実弥はカウンターに突っ伏した。足をぷらぷらさせて、お茶、と一言晃に言ってよこす。

 「先輩なんにもしてないじゃないですか」

 そのとなりに腰掛けて、鈴がだらしない実弥のほうを睨む。

 「うるさいなあ。いいの、これでも苦労してんだから」

 「ごくろうさま。はい、お茶」

 一番苦労しているはずの店主が穏やかな顔でアルバイトの前に麦茶を置いた。さっき実弥自身が持ってきたお茶がそのとなりに並んでいる。

 「ども、店長」

 「なんでそんなに偉そうなんですか……」

 呆れ顔の鈴。その鼻腔をくすぐったにおいに、はっと目を見開く。

 「バイトでもないのにどうも、ありがとね。はい、これ」

 にこやかな晃の手が運ぶのはマグカップに注がれた琥珀色、立ち上る芳香。

 「コーヒー!」

 エサをもらった犬のように、視線がカップに張り付く。カウンターに置かれたのと同時に顔を近づけ、その香りを堪能した。

 「うわあー……、いい匂い」

 「ふふん。そう?」

 昨夜とまったく同じリアクションで目を輝かせる鈴と、自慢げに鼻を鳴らす店長。そんな二人をじとっとした目で眺める実弥。

 「……そんなのより、腹減ったよー」

 「なら、なんか作るよ。……あー、えっと。名前何だっけ?」

 「へ、あ、鈴です。春岡鈴」

 頭をかいて晃が尋ねてくる。コーヒーに没頭しかけていた鈴はあわてて答えた。

 「鈴ちゃん。手伝ってくれたお礼に、なんかご馳走するから。ゆっくりしてってね」

 「あ、いえ。悪いですよ」

 そもそも自分は、用事があってここを訪ねたのだ。

 「いいからいいから。このひと、こう見えて結構うまいもん作るんだよ」

 「なんで先輩が言うんですか」

 ……とはいえ、コーヒーはゆっくり飲みたいし、好意をむげにするのも気が引ける。

 事情を説明するのは、ご飯を食べながらでもいいかもしれない。

 「じゃあ、ご馳走になっちゃっていいですか?」

 満足そうに晃はうなずいた。

 「よし、ちょっと待ってて」

 言い残して厨房に消えていく。ちなみに厨房は調理器具がいくらかひっくり返っただけで、なんの被害もなかった。

 「うまいのお願いねーっ」

 声を張り上げる実弥をよそに、鈴はカップの中を見つめる。

 めくるめく魅惑の世界がそこにあった。苦味と酸味。コクとキレ。確かな甘み。

 「頂きます……」

 普通なら昨夜のことでコーヒーがトラウマになってもおかしくはないが、多大なるコーヒーへの愛がそれを克服させていた。コーヒーなしでは生きていけない、そういう人種だ。

 カップに口をつけたその瞬間、実弥の声が飛ぶ。

 「ちょっと待った!」

 「むぐっ!?」

 驚いてコーヒーをこぼしそうになる。至福の時を妨害された鈴は横目で実弥を睨んだ。

 「なんなんですか……?」

 不機嫌と書いた札を引っ掛けて尋ねる。実弥は黙ってティースプーンを取り出し、鈴のカップに突っ込んだ。

 「な、なにを?」

 「……」

 黙ったまま、感触を確かめるようにゆっくりとスプーンを動かす。

 「……よし、なんにも入ってないな。安心して飲んでね」

 「……」

 女神のような微笑と共にカップを差し出す実弥。鈴はうつむいてぶるぶると震えていた。

 「無用心だなー。いつ昨日みたいなことがあるか、わかんないよ?」

 ゴキブリを仕込んだ張本人の、この物言い。

 「ニャーっ!」

 コーヒーは後回しにして、先輩に飛び掛った。


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