第五章
「んー……」
早朝。小鳥のさえずりと涼やかな風の中、春岡鈴は幸せそうに寝返りを打った。
数時間前の苦しげな寝顔はそこにない。ひとたび眠りに入ってしまえば幸せになれるという人種がいるが、彼女はまさにそれだった。
すこしして、鈴はむくりと起き上がった。真綿で何重にもくるまれた意識の中、ぼんやりした視界で周囲を探る。
見慣れた自分の部屋。カーテンの開け放された窓からは青を深めつつある空が見えた。
「んー……」
もそもそと頭をかいて、鈴は一つ伸びをした。ベッドを降りようとしたとき、その足が何かを踏んづけた。
「むがっ……!」
「……え?」
まだ正常には働いていない頭で、声の正体を探る。ぺたぺたとあちこち触り、それが人間だということを認識。
顔を覗き込んだとき、彼女の脳内に昨夜の出来事がフラッシュバックした。
「――!」
やさしそうなおじさん。やる気のなさそうなウェイトレス(学校の先輩)。
おいしいコーヒー。そして――。
目を見開いて、鈴は迷わずトイレに駆け込んだ。
「おっ……うげええ!」
今まで生きてきた中で、とびきり最低な朝になった。
真っ青な顔で、鈴はどうにかトイレから生還した。キッチンで何杯も何杯も水をくんでは飲み干し、いつもの五倍以上の時間をかけて歯を磨き、うがいは三十回もした。
年頃のむすめさんならば、日課三晩寝込んだり、ひどければショック死してしまうかもしれないようなインパクトの出来事だ。そういう意味で、彼女の芯は強いのだろうか。
「って、いうか……」
鈴は床で寝息を立てる女を見下ろした。
「なんでここに……?」
その声には殺気がこもっている。どす黒いオーラをまとった視線が、幸せそうな寝顔に注ぎ込まれた。
ゴキブリコーヒーをサーブした女。これからどんなことがあっても、自分は決してこの人物のことを忘れはしないだろう。
ふつふつと沸きあがる憎悪をなんとか抑えて、実弥を起こすことにした。彼女はわざとやったわけではない。そう、わざとではないのだ……。
ふるふると震える手で、彼女の肩をゆすってみる。
「起きてください」
「んあー……」
実弥はもぞもぞ動いて、鈴の手を払ってしまった。ちょっとした行動だが、今の鈴にはどうにも癇に障る。眉間にしわが寄った。
「先輩!朝です、起きて!」
ゆっさゆっさと揺さぶるが、反応がない。この女、相当な寝起きの悪さだ。
手を離してため息をついた鈴の耳に、むにゃむにゃと寝言が聞こえてきた。
「……えへへ、ゴキブリ……」
いったい何の夢を見て、彼女はへらへら笑うのか。その笑顔は鈴の神経を紙やすりで荒々しく逆撫でした。
「ニャーっ!」
とうとうキレた鈴は実弥の枕を抜き取った。後頭部が床にヒットする。
「あでっ!?」
そのままクッションを頭上高く振り上げ、ハンマーのごとく顔面に打ち下ろした。
「むがっ!?」
「起きてください!そして出て行け!」
慌てて身を起こす実弥に、容赦のない罵声を浴びせる鈴。昨夜のやんわりした物腰からは想像もできないほど鬼気迫る形相に、起き抜けの実弥は目をぱちくりさせる。
「え、なに、なに?」
「起きましたか!起きましたね!さあ出てってください!いますぐ出てってください!」
腕を引っつかみ、無理やり引っ立てて玄関まで引っ張っていく。そのまま放り投げるようにドアの向こうへ追いやった。
「な、え、ちょっと」
「じゃあ、失礼します!」
大きな音を立ててドアを閉め、がちゃりと鍵をかけた。
「……はあ、はあ」
肩で息をついて、ようやく鈴は落ち着いた。
「……コーヒー」
そう、まずはコーヒーを飲もう。そうしたらシャワーを浴びて、学校に行くのだ。
お湯を沸かそうとキッチンに向かったとき、玄関の電話が鳴っているのに気がつく。
こんな朝早くに、誰だろう。
いぶかしみながらも受話器を手に取った。
「はい、もしもし」
「そりゃ、大変だったね」
そんなセリフを棒読みするのは、級友の新井香織だ。テニス部に所属し、二年の後期からは部長を務めることが決まっている。実弥とは正反対に活動的な少女だ。
昼休み、喧騒に包まれた教室のすみっこで、実弥は香織と二人で昼食を摂取していた。
ちなみに実弥が手にしているのはメロンパンと牛乳、典型的な購買のお昼。
「信じてないな……」
「当たり前じゃん」
ブロッコリーを咀嚼しつつ、香織はのたまった。
「その子が叫んだら、いきなり竜巻が起こって店が半壊した、って言われてもなあ」
「本当なんだってえ。かわいそうなんだよ、私は」
「はいはい、そーだね」
あからさまにどうでもよさそうな態度に、実弥は膨れてメロンパンにかじりついた。
「そうです、かわいそうなの。だからさ」
実弥の手がすっと伸びて、香織の弁当箱からゴマ団子をさらっていく。
「あーっ!」
「いただきます……」
妙な余韻を残して、ひょいと口の中に放り込む。香ばしいゴマの香りと歯ごたえ、団子の程よい甘さが口いっぱいに広がった。
「デザートに残してたのに!」
猛る香織を、鼻で笑う。
「はっ。デザートがゴマ団子ひとつとは、なんとも色気のない女子高生ですなあ」
「あんたが言うな!」
けたけたと笑う実弥。胃に収まった以上、ゴマ団子はもう戻らない。こちらの勝ちだ。
「まったく……。そんで、その娘はどうしたわけ?気絶しちゃったんでしょ?」
「あー、私が送ってったよ。なんか、偶然家が近くでさ」
「へえ」
「疲れたんで、ちょっと休憩させてもらったんだけど。そのまま寝ちゃってさあ」
「寝た、って。家の人に迷惑でしょ」
眉をひそめて、諭すように言ってくる。実弥は手をはたはたと振った。
「いや、あの子一人暮らしだったのよ」
「そうなの?あ、名前、なんて言ったっけ?」
いきなり聞かれて実弥はちょっと戸惑った。
どう考えても自慢ではないが、彼女は人の名前を覚えるのが苦手だ。なにしろ、昨年香織と知り合ったときは二週間に渡って名前を間違え続けたのだから。
今回も例に漏れず、少女の名前は頭に入っていなかった。たった一度の自己紹介ではそもそも無理なのだ。
「なんだっけか……。たしか、ハがついた気がするんだけど」
「わかんねえよ。それじゃ」
「だよねえ」
パックの牛乳をひとすすり。別に背が低いほうではない、というか高いほうのグループに入る実弥だが、それでも毎日こうして牛乳を飲んでいる。
「で、朝起きたらいきなり追い出された。まったく、世知辛いね。最近の若い子は」
「……さっきから思ってたんだけど、あんたオヤジくさいね」
「なっ……、失礼だぞ!」
真っ向から否定できないのが悲しいところだ。
「しかし、怖かったよー。あの顔は――」
「実弥ちゃん」
実弥の声をさえぎって、メガネの級友が声をかけてきた。
「なに?」
「後輩が来てるよ。実弥ちゃんに用事だって」
彼女の指差す先、教室の入り口を振り向く。
今朝自分を部屋から追い出した、『最近の若い子』がそこにいた。
学校の屋上というものは、生徒の憩いの場となっているか、立ち入り禁止になっているか。大抵はそのどちらかだ。
西春高校は後者だった。なぜだかは誰も知らないが、そのせいで屋上にはいつもひとけがない。ときおりヤンキーなんかがタバコを吸いに来る程度だ。
鈴は「先輩にお話があります」とだけ言って、実弥をここに連れてきた。その口調はどうにもぶっきらぼうで、完全に嫌われているようだ。
屋上に到着した二人を迎えたのは強烈な直射日光だった。
「日陰に行きましょう」
給水塔の影にちょうど、座れそうなスペースがある。鈴はさっさとそこまで歩いていって実弥を待った。
フェンス越し、いつもとは違う角度から見える見慣れた町並み。セミの声。風のない空。
暑い。
「なんだっての?」
やや当惑しながら、鈴に尋ねる。ちなみにまだ名前は思い出せていなかった。
「まず、先輩にお礼とお詫びをしなきゃいけません。昨日はわざわざ、うちまで運んでくれてありがとうございました」
深々と頭を下げる。その口調は丁寧だが、あからさまにぶすっとしていた。ただ、この娘はこんな風に怒っていたとしてもどこかほんわかした空気をまき散らしている。
自分で気付いているのかどうかは知らないが。
「それを知らないで、今朝はいきなり追い返しちゃって。ごめんなさい」
「んー、いや、べつにいいよ」
はたはたと手を振って、実弥は答えた。ゴキブリ入りのコーヒーを飲ませたという罪悪感が微塵も見当たらないのが彼女らしいといえば彼女らしい。
「それで、です。折り入って、話したいことがあるんですが」
「うん、いいけど、なに?」
「あの、今日学校が終わったら、お店に行ってください。そこで説明します」
「ここじゃダメなの?」
「ダメってわけじゃないんですけど。でも、できれば店長さんも一緒に」
「じゃあなんで、わざわざこんなとこに呼び出したわけ?」
それを伝えるだけなら屋上に来る必要などないはずだ。
「その時話すことを、信じてもらうためです」
静かに言って、鈴はポケットから何かを取り出す。それは手のひらに収まる球体だった。
テニスボール。
「……?」
「見ててください」
日陰から歩み出て、彼女は実弥から距離をとる。
勢いをつけて、手にしたボールを真上に放り投げた。
風のない空、揺らぐことない直線を描いてボールは舞い上がる。
空を真っ直ぐに指した鈴の手のひらが、大きく開かれた。そのまま大きく、細い腕が円を描く。
ふわり、と鈴の髪が揺れた。
風。
腕の動きに合わせるようにゆっくりと空気が流れ、サワサワと彼女の髪を、衣服を揺らす。風は徐々に勢いを増し、実弥の肌も空気の流れを感じ取った。
軽やかな、舞うような動き。
放られたボールが頂点に達する。さっと鈴が腕を振り上げた。
ごう、と風が吹き抜ける。鈴の足元から風が吹き上げ、うねり、身に付けているいろんなものをはためかせた。男子がこの場にいたら狂喜するに違いない光景だった。
でもあいにく、その場には二人しかいない。
次の瞬間、実弥は信じられないものを見た。
「えっ、ええ!?」
ボールが空中で静止している。風船のようにゆらゆらと揺れながら、重力に引かれるはずの球体が落ちてこようとしないのだ。
その反応を見て気を良くしたのか、鈴は口元に笑みを浮かべてくるくると振り上げたままの腕を回した。
空気が流れる。びゅうびゅうとう実弥の耳元でうなる声。
ボールが勢いよく動き出した。ぐるぐると真横に円を描き、その高度を上げていく。円の軌道は少しずつ幅を狭めていった。
「それっ!」
一度その腕を下ろして、再び勢いよく、今度は指をぴっと立てて天空を指差す。
「うあっ!?」
一気に、周囲の空気が天に向かって吸い上げられた。
わずかな間。ぱん、という短い音と共に、ボールが急上昇した。あたかもラケットで打ち放たれたサーブのごとく、猛烈な勢いで。
手のひらサイズのテニスボールは、そのまま小さな点になって見えなくなってしまった。
風がぴたりと止んだ。音も消え、セミのうるさい鳴き声が二人の耳に戻ってきた。
「……」
「ふう」
真上をむいたまま口がぱっくりと開き、目を点にした実弥を見て鈴は笑う。
笑顔は昨夜のものと少し違う、得意げなものだった。
機嫌はいくばくか向上したように見える。
「今見たこと、忘れないでください。じゃあ、お店で」
アホのように大口を開けた実弥を一人残し、鈴はその場を去っていった。
「……えー……」
太陽。空。雲。セミの声。
実弥は、いろんなものがわからなくなった。




