第四章
琥珀色の幸せを周囲に放出しながら、鈴はその一杯を堪能した。実弥はといえば、もう彼女とまともに話すことを諦め、ひとり腕を組んで黙りこくっている。
「あの」
「ん?」
「これ、なんでしょうか」
そう言って、カップの中身を実弥に見せてくる。覗き込んでみると三分の一ほどに減ったコーヒーの水面から、なにか長細いものがちょろっと出ていた。
「髪の毛、かなあ。ゴメンね。もう一杯用意するから」
普段から何事にもいい加減だが、こういうところで意外な細やかさを見せるのが実弥だ。
カップを用意しようとするが、柔らかい声にさえぎられた。
「大丈夫です」
「そう?」
案外、いい子なのかもしれない、と実弥は思う。
「髪の毛なんて、取っちゃえば――」
カップに突っ込んだ指が細長いものを挟み込む。そのままひょいと引き上げた先に、何かが繋がっていた。
「ん?」
「え?」
最初、それが何なのか、分からなかった。
茶色の塊。滴のまとわりついた胴体。
そこから生えた、六本の足。
名前の由来、一対の茶色い羽。
たかが昆虫、しかし全人類の敵にして、家庭における最強の侵略者。
頭部から生えた日本の触覚のうち一本を、鈴の細い指がつまんでいる。
「……」
「……」
宙吊りになったそれの胴体から、コーヒーの粒が一滴、カップに落ちる。
さっきまでほんのり赤かった少女の顔色が、薄紫に急変した。
「き……」
くりくりした目が見開かれ、全身がぶるぶると震え。
「きいぁあああああ!」
「うわあああああ!」
魂を震わせる超高音の爆弾が破裂した。
「いやああああああ!うあああああ!」
「なんだ、どうした!?」
絶叫を聞きつけた晃が、厨房から駆け込んでくる。
そのとき。鈴の長い髪の毛が、ぶわりと舞い上がった。彼女のものだけでなく、実弥の前髪も。そばに生けてあった花瓶の花も、店のカーテンも、ばたばたと震え、暴れ出す。
風。
実弥がそう認識した次の瞬間、圧倒的な圧力が彼女を吹き飛ばした。
「うあっ!?」
カウンターの後ろの壁に背中から叩きつけられる。衝撃で肺が縮んだ。
「だあっ!?」
晃は今しがた出てきた厨房に押し戻された。勢いよく吹き飛ばされた彼はキッチンのボールや鍋、フライパンをなぎ倒し、大きな音が響き渡る。
暴風。それ以上。
少女を中心に吹き荒れた。食器棚から皿が、グラスが、カップが落ち、粉々に砕け散る。店内のテーブルや椅子はなぎ倒され、窓ガラスはガタガタと震えたあと破砕されて飛び散った。
カーテンが巻き上げられる。蛍光灯も割れ、少女の姿が闇に消えた。
もはやそれは風ではなく、衝撃波だ。
暗闇の中、実弥は強烈な痛みと唐突な嵐に、なすすべなく倒れ伏している。
すこしして、猛威は徐々に収まっていった。厨房から漏れてくる薄明かりが店内の惨状を控えめに映し出す。
風と共に暴れまわっていた新聞紙や雑誌が、あちこちにばさり、ばさりと降り注いだ。
店内のほぼすべてのものが破壊され、蹂躙されていた。どんなにひどい強盗もここまではやらないだろうというほど、ぐちゃぐちゃに荒れた『カフェ・更科』。
「うー、痛てえ……」
「し、死ぬ……」
それぞれ厨房と、カウンターの内側からの呪詛、うめき声。
「……あうっ」
変な声と共に、少女が椅子ごと後ろ向きに倒れた。
しばらくして騒ぎを聞きつけた商店街の面子が、真っ暗になった『カフェ・更科』に様子を見に集まってきた。懐中電灯で照らし出された店内はひどい有様で、二人の少女と一人の青年が救助され、警察も少し遅れて到着した。
見るも無残な喫茶店には『立ち入り禁止』のテープが張られ、辺りはギャラリーで騒然となった。通りがかった人々は様々な憶測を好き勝手に話し、噂に尾ひれを加えていく。
『……し、死ぬかと思った』
店主とウェイトレスは声を揃えてこう言った。あの悲惨な店内で、二人は奇跡的にも特にひどい怪我を負っていない。軽微な擦り傷や切り傷、実弥は背中を打ちはしたものの、軽い打撲で済んだ。少なくとも救急車を呼ぶほどではないということだ。
「何があったんだ?」
隣町の署から駆けつけた警官、清水がそう尋ねるが、二人はこれまた揃って首を横に振った。店長は脳天から魂が抜けているようにも見える。
「……いきなり、台風みたいなものが」
「うん。どっちかっていうと、竜巻?」
それ以上のことは分からなかった。気絶している女子高生を除けば、当事者はこの二人だけ。その二人が分からないというのだから、どうしようもない。
こんな局地的な竜巻などにわかには信じがたいが、店内の様子からするにひょっとしたら本当のことなのかもしれない。
責任者である藤原晃は警察に連れて行かれることになった。事情聴取のためだが、真っ白になった状態でパトカーの後部座席に乗り込むその姿は逮捕された犯人みたいだった。
気絶している少女とウェイトレスの二人も、ついでにパトカーに乗せて家に送っていくことになった。本来なら家のほうに連絡を入れて迎えを頼むのだが、それを口にすると、
「うち、いないから」
と、ウェイトレスの少女のほうは笑いながら言ったのだった。
寝ている少女の荷物を調べていた婦警は鞄の中から生徒手帳を見つけたが、そこには住所しか書かれていなかった。この年では珍しいことに、彼女は携帯の類も持っていない。
とにもかくにも、住所だけは分かったので家に送ることは出来る。さいわい自宅はこの近くのようだったから、直接送っていくほうが面倒がないだろう。考えてみれば、それほど遠くからわざわざコーヒーを飲みに来るようなやつはそういない。
そういうあれこれがあって、清水の運転する車には今、女子高生二人と自営業の青年が乗っている。
「近いからな。そっちの娘のほう、先に送っていくぞ」
そう言う清水に、実弥は答える。後部座席にちょこんと座り、スペースの関係で鈴の頭をひざに乗せていた。
「うちもすぐ近くなんだけど」
「どうせ送ってくんだ。待ってろ」
「なんっか、偉そうな」
「僕の店……」
半ば放心状態の晃。手ひどいダメージはむしろ心のほうに負ったようだ。これじゃ保険がおりない、食器が、内装がとさっきからボツボツ独り言を吐き出し続けている。
パトカーは商店街を通り抜け、国道を少し走って細い路地に入った。住宅の多い地区だ。マンションやアパートもそこかしこに立ち並んでいる。
「……あれ」
「どうした?」
「いや、この娘の家がこんな近いなんて、思わなかったんで」
「知り合いじゃなかったのか」
すこしして、車は古臭いマンションの前で停止した。
「コーポ巽……ここだな」
後部座席のドアを開け、鈴を引っ張り出そうとした清水が、鈴の荷物を指して言う。
「悪いけど、その荷物運んでもらっていいか?」
実弥の足元にある、高校の推奨バッグ。実弥も同じものを持っている。
実弥は一つ頷いて、鈴の鞄と共に車を降りた。マンションの入り口、階段に向かって鈴を背負った清水が歩いていく。のたのたとその後を追う実弥。
それにしても。
ちかちかと明滅する蛍光灯の下を潜り抜けて、実弥は思う。
これだけ近くに住んでいて、初めて会うのがあんな場面。世界は狭いようで、意外と広いのかもしれない。
調べてみたところ、鈴の住所はこのマンションの二階、二〇一号室らしい。部屋の前まで清水が彼女を負ぶって運んだ。
「……一人暮らしなのか?」
ポツリと清水が言う。実弥も表札を覗き込んでみると、そこには『春岡 鈴』とだけしか書かれていなかった。部屋に灯った明かりも見えず、ノブをひねってみても硬い手ごたえが返るだけ。
「女子高生が一人暮らし……か」
その発言だけを聞くと、ちょっと危ないおじさんにも見える。
「なあ、悪いけど、鍵とか鞄に入ってないか?」
「え?あー、ちょっと待って」
実弥は少し緊張した。ひょっとしたら、何か鈴の重大な秘密が隠れているかもしれない。
鞄を下ろし、開けて中を確認する。教科書、ノート、ペンケースに手帳。特にこれといっておかしなものは入っていない。脇についている小さなポケットも調べてみたが何も入っていなかった。まあ、実弥が調べる以前に婦警が彼女の荷物を調べているのだが。
「その娘が持ってんのかな。ちょっといい?」
「お、おい」
おんぶされたままの鈴の制服に手を伸ばしあちこちを探っていく。見る人によっては鼻息を荒くしそうな光景ではあるのだが、実弥にそんな趣味はない。
清水はそっぽを向いて赤くなっていた。きっとかなり純情なおじさんなのだろう。
「あった」
ほどなくして、胸ポケットから鍵が見つかった。差し込んでドアを開ける。やはりというかなんというか、中は真っ暗だった。
「おじゃましますよー」
控えめな声でそう言って、実弥は部屋に侵入する。鈴を背負った清水もその後に続いた。
あがりこんでドアを閉め、一息ついてから電灯のスイッチを入れる。
「……ここで、いいのかな?」
明るくなった部屋の内部を見て、思わず首をひねってしまった。
部屋は狭かった。具体的に言えば1Kの六畳、一人暮らしが精一杯のささやかな空間。
フローリングの床はピカピカで、生活臭が希薄だった。
置かれた家具は部屋の隅にベッド、キッチンの前の冷蔵庫、中央に置かれたテーブルとその上のノートパソコン。四角いクッションが無造作に床に投げ出されている。
整理されているというより、どこか空虚な印象を実弥に与えた。鈴が一人で暮らしているのだとしても、彼女の雰囲気にこの空間はどこか、そぐわない。少なくともコーヒーを飲んでいる間の彼女には。実弥が首をひねった理由は、そこだ。
「女の子の部屋にしては……なんというか」
清水も実弥と同じ感想を持ったらしい。思わず二人は目を見合わせてしまった。
「まあ、いっか。……しょっと」
清水はベッドに鈴を寝かせると、部屋の中を探り始めた。
「何してんの?」
「いや、一応保護者に連絡しとかないと、と思って。連絡先とか探してるんだけど」
「……でもねえ」
部屋を見渡して、実弥は腰に手を当てる。
「ない、よなあ。やっぱり」
清水も額に手を当てた。どうしたもんか、と頭をかく。
書類棚の類もない。鞄の中を探ってみても、電話帳のようなものは見つからなかった。
「しょうがない。明日、また話を聞きにくるか。時間もないしな。……あ」
「どしたの?」
尋ねると、清水は鈴のほうを見てぽつりと言った。
「鍵、どうしよう」
「あー」
このまま出て行ってしまうと、鍵を開けっ放しのままになってしまう。若い女の子の一人暮らしだ。それはちょっとまずい。
二人は揃って、ベッドの上の鈴を見た。寝返りを一つうって苦しそうに呻いている。
「……」
心配だ。
「あ。そうだ」
「なんだ?」
「私が見ててあげよっか、この娘」
その申し出に、少し清水は考えるそぶりを見せたが、
「じゃあ、頼むわ。その娘が起きたら、電話番号とか聞いといてくれ。連絡先これな」
「了解!」
携帯に映った署の番号を差し出す清水に、意味もなく大声で答えた。
晃を乗せたパトカーは一路警察署へと走り去っていった。後に残された実弥は勝手に冷蔵庫にあった麦茶を飲み干して、ベランダに続く窓を開け放った。
「涼しいーっ」
風が吹き込んでくる。先ほどの暴風とはうってかわって、汗をかいた彼女には心地いい。
そこで、部屋の片隅にあったものを発見し、実弥は頬を緩める。
コーヒーメーカー。
なるほどこの部屋は、鈴のもので間違いなさそうだ。
「ちょっと、休憩……」
クッションを枕に、フローリングに倒れこんで手足を伸ばす。鈴はこの期に及んでいまだ悪夢にうなされている。相当なショックだったようだが、無理もないだろう。
ベッドの上と、床の上。二人並んで横になる。
しばらくして、苦しそうなうめき声と気持ちよさそうな寝息の二重奏が始まった。