第十四章
「……あれ」
マンションの二階、端っこの部屋には明かりがない。
実弥は携帯の時計を見た。八時半。寝るにはまだ早い。
「どこいったんだろ?」
一応部屋の前まで行って、ドアをノックしてみる。返事はない。
「うーん……」
あのあと、鈴がどこかに寄り道しているというのはあまり考えられない。していたとしてもこの時間になれば帰ってきていてもいいはずだ。
とすれば、あの八樹とかいう男がらみのことだろうか。
「――あ」
弓道場。
実弥は左手に下げた袋を見た。コーヒーの豆が三〇〇グラム。
頭をよぎったのは、マヤ達と話していた時の鈴の表情だった。
この場に豆を置いていくだけでも、いいのだが。
なぜだか、それでは鈴が受け取ってくれないような気がした。
「……」
蛍光灯の下、袋を持ち直して実弥は歩き出した。
すぐに転入の手続きが取られ、鈴は足早にその町を出て行った。小学校の課程では三分の一、二年しかいられなかった。
新しい住居と学校。しかし鈴は、その新しい部屋から出ようとはしなかった。
怖かった。
あの時八樹が何を言ったのか、鈴は良く覚えていない。
学校に通わなくなった鈴が八樹の手伝いを買って出たのはその二年後、わずか十一の少女は決して表舞台に出ない組織の男と共に、あちこちを駆け回ることになる。
雨の中。普段は足を踏み入れないはずの矢道にある人影二つ。
それに気がついたのか、射場の縁まで彼女は足を向けた。
「……誰?」
彼女――マヤは、自分に気付いてはいないようだった。
「……」
どうしたらいいのか、わからない。沈黙を保ったまま、鈴はその場に射竦められたように動かなかった。動けなかった。
「誰なの?」
マヤが目を凝らして近づいてくる。
怖い。
「あ……」
そのときだった。
突然、少年が身を起こした。
「がああ!」
鈴のすぐそばで、振り上げられた左の手。大量の水が収束して、一本の槍を形成した。
「っ!」
「な、なに?」
状況が飲み込めないマヤはたじろぐ。
投擲。それは真っ直ぐにマヤを狙っていた。
恐ろしい光景だった。鈴にとって、何より恐ろしい光景だった。
暗闇の中、突然ぶつけられた殺気に、マヤは動けない。
水の柱がマヤに迫る。
何も考えなかった。
何かを考える前に、鈴の体は動いていた。精神を研ぎ澄ませていた。
――守りたい。
頭に浮かんだのは、その意思のみ。
一瞬で、風を形成した。間に合わないかもしれない。
マヤのすぐ前方で、真下から風が吹き上げる。風の結界にすべての力を込める。
「――っ!」
わき腹を殴りつけられるような、鈍い感触がした。
全身から血の気が引く。
風の壁を、水の柱が突き抜けたのだ。
「あっ……!?」
立ち尽くしたマヤが、後ろに吹き飛んだ。
「ま……!」
直撃したのか。それはよくわからない。
すぐに駆け寄りたい衝動が全身を支配する。それをどうにか振りほどいて、鈴は少年に向き直った。
狂気に満ちた表情で、マヤの倒れこんだ暗闇を見つめている。
どうして。
その疑問の答えなど、だれも持ち合わせていはいない。本人にすら分からないだろう。
掌を腰だめに構える。
「は!」
身を起こしていた少年のみぞおちめがけて、掌を突き出した。
指向性を持った空圧の塊が、その身に食い込む。
「ぐ……あ!」
目を見開いて、少年はうつぶせに倒れこんだ。
もう意識はないだろう。
鈴は芝生に溜まった水をばしゃばしゃと撥ね上げて走った。
「マヤちゃん!」
雨か涙か、目じりが濡れていた。
びしょ濡れのまま駆け寄ったマヤは、板張りの床にうつぶせに倒れて動かなかった。
頭を打ったのだろうか、その額からは血が一筋、流れている。
「マヤちゃんっ!」
すぐに抱き起こす。水に打たれた体は濡れていて、それでも暖かかった。
にじんだ血が、雨の水と混ざる。
「……う……」
小さなうめき声。意思はないようだが、呼吸はしっかりしている。
「……ごめんね!こんな……あたし」
鈴はマヤに抱きついた。
涙が堰を切った。嗚咽が漏れた。
「鈴!」
階下からドタバタという足音が聞こえ、続いて呼ばれたのは自分の名前。
「大丈夫か……!」
息を切らしながら飛び込んできた八樹の顔は、普段からは想像もできないほどに歪んでいた。そんな彼に、鈴は叫ぶ。
「八樹さん!マヤちゃんを、病院にお願いします!」
「あ……その娘、か?その、能力者の」
「違います。……あたしの、友達です!」
いつにない剣幕にたじろいだかに見える八樹。雨の中に倒れる少年に目をやる。
「あいつか」
「いいから、早く!」
掴みかからんばかりの勢いだ。八樹は一つ頷いて、マヤの元へ向かった。
「お前はここにいろ」
「あたしも行きます!」
「ダメだ。俺の車は四人も乗れない」
「っ……」
「すぐ戻る。それまであいつを見張ってるんだ。いいな?」
マヤを抱えながら、目で少年を指す。鈴は泣きはらした目を八樹に向けた。
それは短い逡巡だった。
「……お願い、します」
「おう。……友達、だからな」
八樹の背中が頼もしく、そして彼について行けないことが辛かった。
鈴はぼんやりと、弓道場の片隅に座っていた。
傍らには意識を失った少年が寝転がっている。鈴が倉庫にあったタオルで体を拭いて、そのまま寝かせた。
服に少しだけマヤの血が付いてにじんでいた。
「……」
傷つけてしまった。
それは鈴に、まだ小さかったころの記憶を呼び起こさせる。
誰かを傷つけるのが、怖かった。今だってそうだ。
今にして思えば、誰かを傷つけることよりも、そのことで自分自身が傷つくのが怖かったのではないか。
自分の存在は、誰かに認められるものなのだろうか。
こんな風に誰かを傷つけてしまう自分が、誰かに好かれることなんてあるのだろうか。
マヤに会ったら、どんな顔をすればいいのだろうか。
ひざを抱えて、顔をうずめた。
雨は既に上がっている。雲の切れ目から、月の光が差した。
ざあ、と風が吹いた。木々の揺れる音が聞こえる。
「……マヤちゃん……」
ぼそりとつぶやいた言葉は、弓道場の暗闇に空しく響いた。
「誰のこと?」
よく知った声がした。顔を上げる。入り口に人影が立っていた。
「……先輩?」
「よ。元気ないね」
何かの袋を片手に提げて、実弥は裸足のままヒタヒタと歩み寄ってきた。
「そっか」
「マヤちゃんには、ちゃんと話さないといけません。……でも」
「でも?」
うつむき加減の鈴を、横目で実弥が眺める。
「……怖くて」
何が怖いのか。
失ってしまうことだ。
小学校のころ、些細なことで風を暴発させてしまった鈴は、すべてを失ってしまったように思えた。
あのときのクラスメイトがどうなったのか、分からない。
その学校にいられなくなったとわかったとき、人というものが怖くなった。
切り離される辛さを知った。あるいは、思い出した。
そうして、手を引っ込めることを覚えた。
「しかも、あんたはすぐこの町を出て行っちゃう、と」
「はい。もともと、そういう予定でしたから……」
実弥は両手足を伸ばした。
「だからわざわざ、私達に頼みに来たんだね」
「何のことですか?」
「今日のことだよ。友達が来るからごまかせ、って」
「ああ……はい」
「うちでバイトすりゃいいじゃん、って思ったんだよね。普通にさ。あんたコーヒーおたくだし、私よりよっぽど向いてるし、好きそうだし」
「……」
沈黙。静謐な空気は、しっとりと濡れている。
「あのさ」
実弥が鈴の顔を覗き込んできた。
「私が中二のとき、うちの親、事故で死んじゃってさ」
「……?」
唐突に振られた話題に、鈴は首を傾げる。
「今日のあんた見てたら思ったんだ。そのときの私、こんな顔してたんじゃないかって」
不謹慎な言い方かもしれないが、よくある事故だった。トラックと乗用車の右直事故。体調を崩した母を、父が車で病院まで連れて行くところだった。
学校にいた実弥に、担任が教えてくれた。両親が事故に巻き込まれたこと。
駆けつけたときには、もう二度と二人の声を聞くことが叶わなくなっていた。
「もうすごい泣いて、泣いて、ひきこもった」
いつもだらしなかった姉が、そのときはてきぱきと動いていたのを覚えている。親戚と連絡を取り合ったり、葬儀の段取りを淡々とこなしていた。
そんな中、中学生だった実弥はずっと泣いていた。
「葬式のときとかはさ、みんな泣いてたよ。親戚の人とか。でも少ししたら、ぱっと切り替わって。泣くのははい、おしまい。帰った帰った、って」
一番近しかった母の姉、つまり叔母と実弥の姉が、今後をどうするかを冷静に語り合っていた。それを実弥はドア越しに聞いていた。
なんて冷たい、と思った。
「今となっちゃ、分かるんだけどね。死んだ人間のこと、いつまでも言っててもしょうがないし。みんな生きてるんだからさ、後のこと考えなくちゃいけないって。でも」
そのときの実弥には、それが信じられなかったのだ。
自分はこんなに悲しいのに。
誰を見ても、自分の姉ですら、その視線を冷たく感じてしまう。
「そういうときに、店長が来てくれてね」
実弥の父親と晃は会社の先輩後輩の仲だった。晃が会社を辞めてカフェ・更級を開店してからも、ちょくちょく実弥の家に顔を出してくれていた。
姉に連れられて、晃は実弥の部屋を訪れた。小さいころから知っている仲ではあったが、だからといって実弥の心が晴れるわけでもなかった。
実弥は、鈴の頭にぽん、と手を置いた。
「な、なんですか」
「こうやって。『お父さんやお母さんは、実弥ちゃんが泣くところなんて見たくないと思うけどなあ』って。あの顔で」
「……らしいです」
少しだけ、鈴が笑った。
「そんなの、知るか、って思った。悲しいのは私なんだから、泣くのなんてしょうがないじゃんか、って。言ってやったよ」
すると晃は、変わらない笑顔でこう言ったのだ。
「ならいいんだよ。泣き疲れたらうちの店においで。ココアいれて待ってる」
待ってる。
その言葉が、荒んでいた心にしみこんでいった。
それからしばらくして、実弥はカフェ・更級を訪れた。
晃は本当に、ココアを入れて待っていた。
実弥は泣いた。泣いたが、それが今までとは違う涙だというのははっきり分かった。
「店長が言ってたことなんだけどね」
ココアを飲みながら、鼻をすすっていた実弥に向き合って、晃は言った。
もう一度、実弥は鈴の頭に手を置いた。
「人間って、ちょっと手を伸ばせば触れられるぐらいの距離で生きてるんだって」
「……」
「あんたも、伸ばしてみたらいいよ」
「でも……」
「大丈夫。少なくとも、私らはちゃんと、掴んだげるから」
うつむいていた鈴が、顔を上げて実弥を見た。
さあ、と風が流れる。先ほどまで吹き荒れていたのとは違う、安堵の息のような緩やかな風。
あのときの晃も、こんな風だったか。
泣いていた。
泣きながら、笑っていた。
マヤを病院に送り届けた八樹は、今度は少年を連れて行くために戻ってきた。
目を腫らした鈴に、彼は何も言わなかった。一つうなずいて、その頭をぽんぽんと二度叩いただけだ。
その感触を、妙な安心感と共に味わっていた。
八樹が去った後、鈴は実弥のバイクに二人乗りして病院に向かった。
医師の話では、頭部の傷は浅く気絶したのも軽い脳震盪とのことだった。少し経てば目を覚ますという。
意を決したように、握りこぶしで鈴は病室に向かう。
三十分ほどの間、鈴はマヤの横に座って身じろぎ一つしなかった。
「……ん……う」
小さなうめき声と共に、マヤの目が開いた。
「マヤちゃん。わかる?」
「……鈴ちゃん?……あれ、あたし、なんで」
「……あの、ね」
少しの前置きの後、おずおずと鈴は切り出した。
実弥は二人が話すのを、廊下から背中越しに聞いていた。
「……がんばれ」
ぽつり、独り言をつぶやく。
少しして、鈴の泣き声と、それをなだめるマヤの声が聞こえてきた。
「……うん」
満足そうに、一つ頷く。実弥は背中を預けていた壁を離れて、病院の廊下を歩き去っていった。
とりあえず、伸ばした手はちゃんと受け止められたようだ。
「ここが、そうですか」
春先、明豊町の駅に降り立った鈴の足元には散った桜の花びら。
「ああ。良い所だろ」
答えたのは八樹だった。口にセブンスターをくわえ、でも火はついていない。駅構内は禁煙だ。
「……大変そうです。こんなところで、たった一人の人間を探し出すなんて」
ぼやくように言う鈴の頭に、八樹は手を置いた。
「まあ、そんなに気ぃ張らなくてもいいよ。とりあえずぼちぼち、暮らしてみな」
「……一人暮らしって、初めてです」
「知ってるよ」
それは当然のことだった。今まで八樹と鈴はずっと一緒に暮らしてきたのだ。
組織の職員である八樹にくっついて、これまで彼女はあちこちを転々としてきた。
ひとところに留まるのは、これまでせいぜい長くても二ヶ月ほどだった。
だが今回から、鈴は八樹の元を離れる。
「なんで、あたし一人なんですか?」
不安そうな響きがこもっているのは明らかだった。
「甘ったれんな。お前だってもう十六になるんだろ」
「まだ十五です」
「うるせえよ」
わしわしと頭をかき回す。鈴は腕を振りほどいた。
「十六になるんだ。生き方を選んでいい年だ。それに、ろくに勉強してなかったからな、お前。ちょっとは賢くなれよ」
「してましたよっ!」
高校に入学するに当たって、義務教育を終えていない鈴はそもそも入学の資格がない。その辺りの文書は組織が裏口を合わせてくれても、頭のほうはそうも行かないのだ。
「八樹さんに迷惑掛かるから、ちゃんとしました。勉強」
「……んだな」
ここ最近、毎晩机に向かっている鈴の姿を八樹は見ていた。
「じゃな。俺、もう行くわ」
「あ……」
不安げな表情がまた顔を出した。
その鈴に、最後、八樹は告げる。
「言い忘れてた。ここな、俺が生まれたとこなんだ」
「……そうなんですか?」
「ああ。中学までずっとここだ」
「……それで?」
言葉の真意がよくわからないらしい。もっとも、八樹自身何が言いたいのかよくわかっていなかった。
「……まあ、なんだ。そんだけだ」
くるりと背を向け、駅へと戻っていく。
「……八樹さん」
振り向く。真っ直ぐに八樹の目を見ていた。
「あたし、八樹さんみたいになりたい」
初めて聞く言葉だった。
「……がんばれよ」
鈴は、どんな人間になるのだろうか。




